葬列に捧ぐアネモネ



しばらくはただ何事もなく日々が過ぎた。
負傷した吹雪さんと緑川さんの代わりに追加メンバーを新たに加え、イナズマジェットでやって来たのはFFIの開催地であるライオコット島。そこで全十チームが二つのグループに分かれ、各グループの上位二チームが決勝で戦うことになっている。
先日は初戦であるイギリス代表、ナイツオブクイーンを下して勝利を得ることが出来た。しかし次の相手は守備力に超特化したアルゼンチン代表のジ・エンパイア。かなりの苦戦が予想されており、特に中心選手であるテレス・トルーエの対策が困難を極めていた。

「朝から精が出るな」
「!有人さん、佐久間さん。おはようございます」
「あぁ、おはよう」

私も久遠監督からいただいた資料を元に、いくつか作戦パターンを考えている。幸い、私は昔からショートスリーパーの傾向にあったらしく、多少睡眠時間を削っても体調に負担はかからなかった。今朝も朝早くから食堂で解析を行なっていたのだが、そこにふと有人さんと佐久間さんがいらっしゃる。どうやらお二人は、これから朝練を行うらしい。

「お前も外に出るのか」
「はい、朝食用の卵が足りないと木野さんが仰られていたので」

それならと、朝早く起きている私が買い物を引き受けたのだ。涼しい朝の街を歩けば気分転換にもなると考えて。そう言えば、お二人は「気をつけろよ」と一声かけてグラウンドの方へと向かわれた。それを見送り、私も外へ出る準備を始める。
するとそこにタイミング良く不動さんもいらっしゃった。どうやら彼も有人さんたちのように朝の自主練を行うらしい。
ただ不動さんは、グラウンドに有人さんたちの姿を見つけると僅かに眉を顰められ、ランニングへと切り替えてしまわれた。…不動さんは有人さんとはともかく、未だ佐久間さんとは犬猿の仲に等しいと聞くので、その影響もあるのだろう。

「不動さん、お気をつけて」

有人さんたちを真似て、躊躇いながらもその背中に声をかけてみれば、不動さんは黙って手をひらりと振られた。それを見送り、私も今度こそ歩き出す。私が向かう先は、日本エリアの一角にある小さなお店。いわゆるコンビニエンスストアに良く似た形態をしたそのお店は、様々な品物を取り扱っている。目当てのものはすぐに確保できた。私はビニールを揺らしつつ、宿泊所の方へ帰らんと足を向ける。

「…?」

しかし歩いている途中、やけに立派なリムジンが小さな屋敷の前に止まっているのが見えた。しかもそれは日本エリアには珍しい外国製のもので。けれど私には関係の無いことだと首を振って、私は何でもないような顔で歩き出す。
…するとそこで、その屋敷の扉が突然開いた。私は誰が出てきたのだろうかと、何の感慨も無しにそちらへ目を向けて。
その人物を見て、一瞬世界から音が失われたような錯覚に陥った。


「…そうすい?」


目を見開いて、私の口から滑り落ちた言葉が紡いだ名前は、間違いなくあの人のものだった。思わず手放してしまった卵は地面に落下し、ぐしゃりと歪な音と共に粉々に割れてビニール内を黄色に染める。…何故、何故、何故。何故ここにあの人が居るのだろうか。人違いじゃ無かった。髪型や格好は変わっていようとも、私にあの人が分からない訳がない。間違いなくあれは影山総帥だ。
呆然とするしか無い私の目の前で、総帥らしきお人は何やら意味ありげに口角を上げて僅かにこちらへ目を向ける。そして、その唇が音も無く呟いた言葉が、私にはハッキリと理解できてしまった。

「久しぶりだな」と。

やはり私の勘違いじゃ無かった。だって今、間違いなく目が合った。サングラス越しでも分かってしまうほど、はっきりと合ってしまった視線の先、愉快そうに笑んだあの人はたしかにその口で、私に「久しぶりだ」と言ったのだ。

「…うそ」

嘘だ、ともう一度口の中で呟いて私は膝から崩れ落ちた。心臓が嫌に痛くて苦しかった。何故今さら、私の目の前に現れたのかと責め立ててしまいたくもなる。ガンガンと痛む頭に、止め処なく涙が溢れてアスファルトの色を変えた。
…けれど、それよりも私が嫌だったのは、苦しかったのは、絶望したのは。

「…もう、やめるって、決めたのに」

あの人の姿を見て僅かでも安堵し、歓喜してしまった心が私の中に存在していたことだった。
ショックだった。あれだけ皆さんに迷惑をかけておいて、それでもなお手を差し伸べていただけるという幸福を享受しておきながら。この愚かな心はまだずっと、あの人の影を追い求めていたというのか。そう思うと、たまらなく死にたいような衝動に駆られた。こんな今の私の姿を、誰にも見られたく無かった。今すぐ消えてしまいたくて、こんな馬鹿でどうしようもない私の願いを誰かに懺悔してしまいたいとさえ思う。
その途端、呼吸がだんだんと苦しくなってきた。まともに息さえ吸えないような現状に、過呼吸だ、なんて頭はまるで他人事のように今の私の状況を分析している。思わず前屈みになって何とか呼吸を元に戻そうと、ぐちゃぐちゃな思考の中でも必死に息をしていれば、誰かの慌てたような足音が聞こえた。

「一香ッ!!!」
「…ゆう、と、さ」
「過呼吸か…」

顔を上げればそこには、どこか焦ったような表情でこちらに駆け寄る有人さんが居る。その後ろからは佐久間さんも来ていた。私の様子が可笑しいことに気がついて走ってきたのだろう。有人さんの手が私の口元を覆い、余分な酸素を吸わないように制限してくれる。…実際には五分程度だっただろうか。しかし体感的にはもっと長い時間が経ったように思えた。何とか呼吸を整え、瞳を涙で濡らしながらもようやく落ち着いた私に、有人さんが険しい顔で問いかけてくる。

「どうした、何があった」

一瞬、報告するか迷ってしまった。話さなければいけないことは分かっている。けれど、総帥の話をして、有人さんたちがどんな顔をするのかと想像したら、恐ろしくてしかたなかった。また私が総帥に与するのではないかと、疑われるかもしれない可能性が怖くて。
…だけど、それでも言わなくてはいけない。そもそもこんなことを、私一人だけで抱えられるほどこの心が強いはずが無いのだ。だから私は有人さんに縋りつき、震える声を叱咤して告げる。

「そうすい、が」
「!」
「さきほど、そうすいのすがたを、みかけました」

息を飲むお二人に、私は何を言われるのかが怖くて縮こまる。…しかし、お二人は私に何も言わなかった。まるで怯えた子供を慈しむように抱き締めてくれた有人さんに、思わず目を見開く。ぎこちない手つきながらも背中を撫でるのは、佐久間さんのものだろうか。

「よく話してくれたな、ありがとう」
「…ぁ、わたし、は」
「怖かっただろう。…不安がるな。俺は、俺たちはもう、お前を疑わない」

お前を信じると決めた、と囁くように呟かれたその言葉に、止め処なく溢れ出した涙が頬を伝って落ちていく。唇を戦慄かせながら、何か言わなくてはと口を開くものの、代わりに漏れ出してくるのは情けない嗚咽ばかりで。
だって嬉しかった。何の迷いもなく、私を疑わないと、信じると言い切ってくれたその言葉が私の救いだった。間違ってばかりだった過去の私を知っているくせに、それでもなお手を差し伸べてくれる優しさが幸せでたまらなかったのだ。





あの後、安堵のせいか力が抜けて立ち上がれなかった私を背負って宿泊所まで連れ帰ってくれた有人さんたちは、どうやら監督に私のことを体調不良と説明してくださったらしく、私は今日一日の静養を命じられた。私ばかりが練習を休んで申し訳ない気持ちに駆られるが、さすがに今回ばかりは無理をする気分にもなれない。

「一香さん、気分はどう?」
「…すみません、少しずつですが、快方には向かっています」
「なら良かった!」

木野さんはどうやら昼食を持ってきてくださったようだった。体調の悪い私を気遣ってくださったのだろう。お盆の上には雑炊が乗っていて、食欲が無い私としても食べられそうなメニューに思わず安堵する。そのまま二言三言話して部屋を退出しようとした木野さんに、私は意を決して口を開いた。

「…あの、有人さんは、もう戻っていらっしゃいますか…?」
「…鬼道くん?それなら、さっき突然グラウンドを飛び出して…」

木野さんの説明に、思わず頭が冷えていく。動揺を悟られないように繕いながら詳しく話を聞いてみれば、佐久間さんや不動さん、そしてその三人の後を追いかけて行かれた円堂さんまでもが現在外に出ているのだという。…嫌な予感がした。けれど願わくば外れて欲しいと祈る。
…私は知っていたくせに。あの総帥が計画されたことに寸分の狂いは無く、いつだって正確に、完璧に達成されることを。他でもない、あの人の一番近くに居た私が良く理解していたはずなのに。

「…戻られて、いない?」
「あぁ、今夜は知り合いのところに泊めてもらうらしい。…心配する必要は無い。あいつらも明日には戻ってくる」

夜になってもまだ戻られない有人さんたちに不安が募り、思わず話を伺いに行けば響木さんは、まるで私を安心させるかのような手つきで肩を叩いた。私もその配慮を受け取って、ぎこちないながらも頭を下げてから部屋に戻る。…けれど、眠れなかった。不安でたまらなかった。こんな大会の最中、有人さんたちが何の理由も無しに他所へ外泊するなんてありえない。そこには何か、どうしようもない理由があるはずなのだ。そして今、こんな時に外泊しなければならないような理由とは。

(総帥のことだ)

きっと有人さんにも何かしら総帥からのコンタクトがあったのだろう。だって有人さんは慎重な方だ。あの人が自ら窮地に飛び込むような真似をするとは思えない。そして有人さんの他に、外泊しているのは円堂さん、佐久間さん、不動さんの三人。私を除けば皆、総帥との因縁が浅からずとも存在している人ばかりだった。

「わたしは、どうすれば」

まるで総帥の影から逃げるような形で、私はここにいる。有人さんたちの優しさに甘えて、いつか向き合わなければならない過去に背を向けたまま、私は果たして本当にここに閉じこもったままでも良いのだろうか。…その判断だけが、私の頭を酷く鈍らせてしまう。
私は一番、私という人間が恐ろしいのだ。どれだけ忘れたいと願っていたとしても、嫌というほどに記憶へ焼きついてしまったあの日の総帥の手の温もりが、残酷なまでに私の心を揺さぶるから。
もう裏切りたくない。
もうあの優しい人たちを失望させたくない。
今の私が望むのはたったのそれだけなのに。それなのにどうして、私はこんなにもいつまでも、弱いままなの。





たとえ何があっても結局、私は心の底から総帥を拒絶できないのだろう。だってあれだけ道具として扱われ、最後には簡単に手放されてしまったという現実があったとしても、それでも確かに過去で享受した温もりが私の心を生かしたのだから。
そして総帥はそれを分かっていて、きっとまた私に接触してきたのに違いない。汚い言い方をすれば、私を引き込むことで有人さんに揺さぶりをかけようとしたのだろう。有人さんが私に一線を超えた好意を抱いていることは、私もとうの昔に理解していたから。

「いっそ、憎んでしまえたら良かったのに」

着替えたばかりの制服を整えて、私は鏡の向こうの自分へ自嘲するようにそう溢してみる。同じ唇の動きを返した向こうの私は、酷く寂しそうな顔をしていた。…今から私がしようとすることを、まるで引き止めるような顔。それは言外に、後悔しても良いのかと私自身を脅している。…でも、後悔なんて今さらでしょう。

「これまでもずっと、後悔ばかりの人生だったくせに」

お母さんに何も返せないままで一人逝かせてしまったこと。
かつて敬愛していた人を、私の身勝手な思いで裏切ってしまったとき。
愚かな私の欲で、何の罪も無い人たちに怪我を負わせてしまったあの瞬間も。
むしろ後悔しか無い人生だと心で苦く笑う。だからこんな胸の痛みなんて今さらでしかないのだ。何度も経験し、心を抉るようにしてついた傷のいくつかは、そんな私の愚かさが立てた爪の跡。…それでもそんな傷だらけの私を、救い上げてくれた人がいるから。

「いかなきゃ」

宿泊所を飛び出して走り出す。無断で出て行ってしまったその咎めは、必ず後で受けるから。だから今だけはどうか私を止めないで欲しい。この足が今、がむしゃらに前へと駆けていられるうちに私は進まなくちゃいけない。
目的地へと向かうバスに飛び込むようにして乗り込んだ。激しい運動になんて慣れないせいで、咳き込むように呼吸をしながらずるずると蹲み込むようにして座席に腰を下ろす。…意外に走れるものなんだな、と一人感慨深く思った。そんなことを、あの人は知っていたのだろうか。

「…知ってても、知らずとも」

どちらだってきっと、結局あの人にとってはどうでも良いことかもしれないけれど。
やがて車内で揺られる私がたどり着いたのは、イタリアエリアのバス停。昨夜、自分なりに調べていくうちに、イタリア代表の監督について、突然不審な交代が行われたことを知ったのだ。選手名簿にも俊敏に差し替えられていた、新しいイタリア代表監督の名は「ミスターK」。…影山総帥の、イニシャルだった。
何の証拠も無い。昨日の朝に見た総帥が、本当にイタリアに居るとも限らない。有人さんたちがここに居る可能性だってきっと低いのだろう。
これは私の勘だ。「総帥はここに居る」という勘でしかないその考えは、皮肉にも私が総帥という人間の考え方を、一番近くでよく見ていたから分かる。…だから。

「一香、お前が何故ここに…!」
「…来たか」

イタリア代表の使用するグラウンド。そこで試合を行っているのは、有人さんたちが入っている本来のイタリア代表と、総帥が率いる新しいチームなのだろう。そんな推測を頭の中で立てながら、私は総帥に顔を向けた。
…対峙するのは、いつぶりなのだろうか。面白そうに口角を上げた総帥と、私たちを見比べて愕然とする有人さんたちの目の前に、私はゆっくりと一歩ずつ歩み寄る。

「…お久しぶりです、総帥」
「お前は来ると思っていたよ」

私が一番、総帥のことを理解している。
そして総帥もまた、私のことを一番誰よりも理解していた。
だから私はその言葉に驚かない。次に総帥が私に向けて投げかける言葉も、私はきっと頭のどこかで知っていたから。総帥は、私に向けて誘うように手を伸ばす。

「お前に再びチャンスをやろう。…私の元に戻ってこい、一香」

…きっとかつての私ならば、その言葉に喜んで飛びついていたのだろう。今度こそお役に立つのだと誓って、何の未練もなく有人さんたちを切り捨てていたのに違いない。その証拠に今もなお、私は心のどこかでその甘い言葉に縋ろうとしているのだから。そんな私の心を、手の甲に爪を立てた痛みで叱咤する。総帥の言葉に沈黙で答えたまま、私は有人さんの方を見遣った。私を引き止めるために、こちらへ走り寄ろうとしてくれたのだろう。中途半端に伸ばされた手はしかし、不動さんによって背後から肩を掴まれることで、私には届かなかったようだった。
それが少し可笑しくて、思わず小さく笑う。何だかんだで不動さんは、心根の優しい方なのだと今さらのように実感した。そして今もなお私へどこか強張った顔を向ける有人さんに、私は微笑みかけた。…どうか、心配しないでください。

『…不安がるな、俺は、俺たちは、もうお前を疑わない』

私を信じると。そう言ってくれたのは、貴方自身でしょう。
だから私も応えるの。その信頼に、優しさに、想いに、希望に。…たとえそれが、過去の私の全てを否定することになったとしても。


「戻りません」


ただ一言、小さくも毅然として言い放ったその言葉は、果たして震えていなかっただろうか。今にもふらつきそうなまでに震えた足で立つこの身体は、怯えて縮こまったりなんてしていないだろうか。
怖くて、恐ろしくて、泣きたくて仕方なかった愚かな私はそれでも、貴方を拒むと決めた。
優しい記憶も、貴方への愛情も、全ては遠い過去にしなければならない。もう二度と、訪れることのない温もりだと理解しなければいけないのだ。

「もう私は、誰の道具にもならない」

これからは、自分の足で立って生きていく。総帥の存在に縋ることも、手を伸ばすことも無いまま私は貴方を思い出にして歩いていく。
それはとても辛くて悲しくて、まるで心の半分を引き裂かれるような痛みを覚えたけれど。きっとこの先二度と消えない最大の傷として、この心に刻まれてしまったけれど。
それでも私を信じ、私の間違いを許して、何度だって手を伸ばしてくれた人に、私は寄り添っていたいと強く思ったのだから。

「…好きにすると良い」

総帥は、それだけしか言わなかった。何の興味も無さげに踵を返したその背中をじっと見据えて、私は僅かな未練を振り払うようにして背を向ける。そしてこちらへ今度こそ駆け寄ってきた有人さんの首筋に、私は強く縋り付いた。耐えていた涙が決壊して溢れる。そんな私を有人さんは抱き締め返して、少しだけ震えた声で私に言葉を贈ってくれた。

「よく、頑張ったな」

…うん、頑張った、私、頑張ったの。
ちゃんと、勇気を出して頑張れた。本当はずっと側に居たかったあの人との決別は、すごく胸が痛くて苦しかったけど、それでもちゃんと前に進みたかったから。
私から拒んだ以上、もうあの人が私を見つめることはきっと二度と無いのだろう。細く繋がれていた最後の糸は、私が自ら断ってしまった。…たった今私の胸を襲うそんな激しい後悔の痛みも、いつかは消えてくれるだろうか。この日を思い出にして、糧として、私は新しく歩めるだろうか。…それは分からない。何もかもが分からないままだけど。

「一香」

こうして崩れ落ちそうな私の心を抱き締めてくれる貴方がいるのならば、大丈夫なような、そんな気がしたのだ。


















「…馬鹿め」

たった一度、最後だけ。
こちらを振り向いたあの人の、物言いたげな視線には気づかないままで。




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