貴方の指先が触れる



総帥の抱えている過去については、とうの昔に響木さんからお話は伺っていた。総帥の全ての目的は、父親であり日本を代表するサッカー選手であった影山東吾を挫折させ、自分の人生をめちゃくちゃにしたサッカーというスポーツへの復讐。それが今のあの人を突き動かすものだと知って、私は妙な親近感を覚えてしまったことを今でも思い出すことができる。
生まれてから一度も顔を見ることのなかった私の父と、家庭を崩壊させた総帥の父。
私も総帥も、父親には恵まれて居なかったのかもしれない。たとえ愛していたその気持ちは本当でも、最後までその愛がこちらへ返ることなく、全てがめちゃくちゃになって。

『同情はできん。それでも奴は、何人もの人々を苦しめてきた』

分かっている。総帥の行ったことは決して許されることでは無い。後から伺った豪炎寺さんの妹さんの件でも分かるように、関係の無い人々を巻き込んでまで達成される願いに救いなんて存在しないのだ。
それでも私はなお、総帥を憎めない。血は繋がらなくとも父であるあの人が、確かに私の救いだったことに変わりはないのだから。

「一香」
「…すみません、ぼんやりしていました」

ぼんやりとベンチに座り込んでいれば、有人さんに声をかけられた。少し訝しげな顔をしていた彼に謝れば、有人さんは僅かに安堵したような表情で目元を和らげる。いつのまにか他の皆さんもアップを終えて久遠監督の元に集まりつつあるところだった。私も立ち上がり、他のマネージャーの皆さんの元に歩む。…そうして、反対側のベンチを見遣った。
イタリア代表監督としてあちらのベンチに佇む総帥は、今もただ無関心な様子でフィールドを見つめている。

『本当にあれで良かったのか』

あの日、総帥へ決別を告げた日。有人さんたちはどうやら、総帥の策略によってイタリア代表の座を追われかけていたフィディオ・アルデナたちの手助けをすべく、助っ人としてあの試合に臨んでいたらしい。総帥が何かを企んでいる可能性を睨んで、それを阻止しようとしていたのだとか。
しかし総帥の狙いはそうやって有人さんを始めとしたイナズマジャパンの有力選手をチームから引き剥がすことだった。何故かアルゼンチン代表との試合が一日繰り上がってしまったせいで、私たちは試合に間に合わず、参戦が不可能になってしまって。唯一の頼みの綱だった連絡船にも間に合わず、監督たちもなぜか引き離されてしまっていた。
そんな中、イナズマジャパンは残されたメンバーで奮闘したものの、あえなく敗北。厳しくも激しい予選の中で黒星を刻んでしまった私たちにとって、この予選最後の試合であるイタリア代表との戦いは負けられないものとなってしまった。
そんな試合前日の昨夜、私の部屋を訪ねてこられた有人さんは、少しだけ言いづらそうに視線を彷徨わせながら私にそう問いかけてきたのだ。

『それは総帥のこと、でしょうか』
『…あぁ』
『…後悔は、しています。今も苦しくてたまりません』
『…』
『ですが』

もう二度と総帥とは分かり合わないという道を選んでしまった私はこれから先、総帥に振り返ってもらえることは無いのだろう。そうと分かって私はこちら側であることを選んだのだけれど、それでもやはり悲しいものは悲しいし、辛いものは辛い。…それでも、私は何度あの日に戻ってもこの選択肢を違えることは無いと、それだけは断言できた。

『皆さんを裏切って得る後悔よりも、ずっとマシだと思ったから』

皆さんから何の見返りもなく差し出されたその好意を、私は甘んじて受け入れよう。そして代わりに私も信頼を返すのだ。彼らを裏切らない。そうすることできっと、得られる何かがあるのだと私は信じていたから。
そう言い切れば、有人さんは黙って微笑みながら私を抱き締めてくれた。まるで私の心の傷ごと優しく包むようなその温もりに、私はもう安堵を覚えてしまっていた。

「不安か」
「!…はい」

ポジションにつく皆さんを見送っていれば、久遠監督がこちらを見ないまま声をかけてこられた。それに気まずさを覚えつつ返事を返す。久遠監督も、総帥とは因縁がある。そしてそれは響木さんも。私だけじゃない、この試合はイナズマジャパンにとってとても重要な試合でもあった。

「お前は過去に、影山にケリをつけてみせたんだろう。それなら前を向け。顔を上げろ」
「はい」

その言葉に顔を上げて、真っ直ぐに背を伸ばした。確かにまだこの胸には、総帥への未練と決別への後悔が渦巻いている。けれどもう、私はその心から目を背けない。有人さんたちだって、あそこで戦っていらっしゃるのだから。
戦えない私こそ、目を逸らさずにまっすぐこの試合の展開を見届ける義務があるのだ。だから。

『そのプレーをやめろ!私の全てを壊したあの男のプレーなど!!』

あんなに取り乱した総帥の姿を、私は生まれて初めて目にした。フィディオさんのプレーを目にした瞬間に激昂した総帥が、あの時彼に重ねていた人物の名前を私もよく知っている。
影山東吾。総帥の実の父親で、かつて日本のサッカー界を牽引していたスーパープレイヤー。けれどあの人は、父親のことを憎んでいるのだとずっと思っていた。サッカーを憎むのと同じくらいには、実の父親である彼のことを。…だけど私は結局、総帥のことを何一つだって理解していなかったのだろう。

『いいえ、やめません!!』

総帥の凍てついていた心にヒビを入れたのは、たった数日程度を共にしたくらいの、フィディオさんだったのだから。私じゃなかった。あれだけあの人を渇望しておきながら、結局はあの人の望みも心の奥底に棲む憎悪の訳も、知らないままでいた私はあのとき、いったいどんな顔をしていたのだろうか。

『あなたが求めていたサッカーは、あなたの父影山東吾が中心に来ることで完成するのですから!!』

そんなの知らなかった。誰も教えてくれなかった。あの人の悲しみも苦しみも、私は何一つ知らないまま今日まで生きていたのか。
俯いたままの私に気がついたらしい響木さんがどこか気遣わしげに私の名前を呼ぶ。泣いているとでも思われてしまったのだろう。…でもそれは全くの逆だった。私は自分でも不思議なくらい、今は心がなぜか喜んでいる。

「…初めて、見ました」
「…初めて?」
「はい。総帥が、あんなに晴れやかなお顔をされるのを、私は初めて」

何故だか分からない。それでもあの人が今、憎しみからも悲しみからも解き放たれて、自由な心でサッカーを愛せるようになったことが、何故か自分のことのように嬉しかったのだ。
総帥に救ってもらった心を持ちながら生きているくせに、私じゃ総帥を救えなかった。その結果が変わることはないまま、それはとても寂しくて、苦しい現実でしかなかったけれど。それでもきっと、私でなかったからこそ総帥が今ここでようやく救われたというのなら。私の無力さも、今は少し悪くないような気がした。

「総帥は、あんな風にも笑える方だったんですね」

思わず綻んだ口元は、笑みの形を彩っていた。心から微笑むことができたのはいつぶりだっただろう。ただ何となく、今だからこそ私は心から笑っても許されるような気がした。
その理由はきっと、少しずつ変わっていく総帥の姿に、私も少しだけ前に進みたくなってしまったからだった。





「私にとってこれは最後の試合だ。楽しかったよ」

試合が終わった。結果は同点という痛い結果に終わったものの、あとは明日のアメリカ代表とアルゼンチン代表の試合結果次第という待ち遠しいことに。しかし試合を精一杯やり切られた皆さんはとても眩しくて、そんなチームに関われたことを私は誇りに思う。…そして。

『今日を最後に貴方の試合は見られなくなる。違いますか』

その言葉を告げたのは、イタリア代表の本来のキャプテンだというヒデ・ナカタだった。
…総帥は、これまでの行いの全てを償われるつもりなのだ。ご自分の起こした事件に巻き込まれたせいで怪我を負った、ルシェという女の子を襲う目の病気を知って手術費用を送ったように。総帥は自分の罪を受け入れ、何らかの形で誰かに報いようとしていたのか。…そして改めて今日、過去から解き放たれた総帥は自ら罪を精算する道を選ばれたのかもしれない。
そう思ったとき、会場の外からパトカーの音が聞こえて、鬼瓦刑事さんを始めとした警察の方々が総帥を連れていこうとしたとき。私の足は無意識のうちに自然に動いて、総帥の腕を掴んでいた。後ろから驚いたような声があがる。総帥も僅かに目を見開いて私を見ていたものの、私はそれに構うことなく口を開いた。

「私も、連れて行ってください」

ここで離れ離れになんてなりたくなかった。まだ私はこの人のことを何も知らないで、あの日決別したまま別れるなんて嫌だったから。
今ならちゃんと総帥と向き合えるような気がした。それは今までのように歪な関係性ではなく、正しく親子という形で最初からやり直すために。

「…お前は私を恨まないのか。散々に利用し、都合よく切り捨てた私を」
「恨みません。…私は、貴方を憎むことすら、できなかった」

総帥の手を握る。振り払われなかったことに安堵しながら握り締めた総帥の左手は、あの日のように温かく、けれどあの日よりも少しだけ小さく感じた。…それはきっと私が大きくなっていたからで、そんな些細なことを実感してしまうほど、私たちの間には隔たりがあったのだ。


「ずっと、ずっと、貴方をお父さんと呼びたかったんです。私は、たとえ血が繋がらない偽物であっても、貴方と家族になりたかった」


嗚咽がこぼれる。周囲には人がいて、私の言葉も涙も何もかもを見られているというのに、それでも言葉は溢れて止まらなかった。そんな風にみっともなく声を殺して泣いていれば、私の頭に誰かの手が触れる。ぎこちない手つきで私の頭を撫でるそれは、紛れもなく目の前の人のもので。私はずっと、そんな小さな触れ合いを望んでいたから、また涙は溢れて、頬を伝って落ちていく。

「…行かせてやってくれませんか」
「鬼道」
「お願いします。…せめてギリギリまで、一香を側に居させてやってください」

お願いします、と深く頭を下げた有人さんを振り返ってみて、また涙が溢れてくる。私のわがままでしかないこんな願望を叶えてようとしてくれるその優しさが堪らなく嬉しい。私も同じように震える声で頭を下げれば、刑事さんたちは顔を見合わせると、少しだけ仕方ないとでもいうように微笑んで、許可を出してくださった。

「一香!」

刑事さんに囲まれたまま、総帥と並んで会場を出る前に円堂さんに呼び止められる。振り向けばそこには満面の笑みを浮かべた彼が、まるで私の背中を押すかのような大声で、私に向けて叫んだ。


「待ってるからな!!」


どこで、とも。誰が、とも言わなかった。それでも円堂さんの後ろ、皆さんが頷きながらこちらを真っ直ぐに見つめてくれたそれが答えだったから。総帥の左手と繋がれたままの右手とは反対の左手で小さく手を振りながら「いってきます」と唇だけで伝えてみせる。…帰りを待ってくれる人の存在があること。それだけで人は、こんなにも幸せになれるのだということを教えてくれたのも、このイナズマジャパンだった。





歩く途中も、護送車に揺られる間も。ずっと手は繋がれたままだった。私はどうしてもこの温もりを離したくなくて、総帥はそれを拒まないからと無言の許容に甘えて。
静寂が支配する車内で、私は半ば独り言のように総帥へ向けて口を開いた。

「…いつか、また」
「…」
「総帥が戻ってこられた、そのときは」

一つだけ、わがままを言っても良いだろうか。最後にたった一つだけ、貴方を困らせるかもしれない、私の精一杯のわがままを。少しだけ緊張しながら手を握り返して、私は窺うように口を開く。

「…総帥を、お父さん、と。呼ぶことは、許されますか」
「…好きにしろ」

…しかしその願いは、私の恐怖とは裏腹に拒まれなかった。その現実が嬉しくて、私は泣きそうになるのをギリギリで堪える。…お父さんと呼ぶのは、今じゃなくて良い。いつかまた、この人とやり直せる日が来たそのときにこそ、私は何のしがらみも無くなった関係性で、堂々と呼びたかったから。
やがて護送車は警察署に到着した。入り口を開けてくださった刑事さんは、まだ繋がれたままの私たちの手を見て苦笑しながらも、やはり仕事であるからと真面目な顔で私に注意を促す。

「付き添いは入り口までです。良いですね」
「はい」

むしろここまで付き添わせてくださった分、私は感謝するべきだ。文句なんて何一つ無い。だからその言葉に私は素直に頷いて、総帥と共に車を降りた。そして入り口前、別れの言葉くらいはと時間をくれた刑事さんに頭を下げて私は総帥と向き合った。…きっともう、しばらくは総帥とお会いすることは出来ない。面会は可能かもしれないけれど、それだってきっと限りがあるはずだから。

「…お体に、気をつけてください」
「…あぁ」
「面会に行かせていただきます。そのときは、またお話していただけますか」
「あぁ」

単調に返されるその声は、どこまでもぶっきらぼうでしかなかったけれど、そこに含まれた優しさを感じ取ってしまえば怖くも何とも無かった。そしてとうとう言葉が尽きて黙り込んで私に、総帥は最後にもう一度、やはりぎこちない手つきで頭を撫でてくださってから、ぼそりと呟くようにして言葉を吐き出す。

「…私もお前に一つ、言わなければならないことがある」
「…?」
「…私は」

お前の、と総帥がそこまで言いかけた。…そのときだった。
総帥が開きかけた口を閉じたかと思えば何かに気づいたように顔を上げる。…背後から、何かを壊すような衝突音とブレーキ音が聞こえた。その視線を追って顔を上げればそこには、猛然と、大きなトラックが、突っ込んで、き、て。


「そうす」


総帥、と呼びかけた言葉は、体全体を覆うような物凄い衝撃によって、意識と共に刈り取られた。私は何が起きたのかも、全身を襲う衝撃と痛みの意味さえ分からないまま、まるで電源を落とされた画面のようにブツリと意識を引きちぎられる。
…そんな私は意識を失う直前、引き寄せられた腕の力強さと、抱き締められたらしい誰かの温もりを、何故だかずっと最後まで鮮明に覚えていた。















それが、私が最初で最後、最愛の父に抱き締められた唯一の記憶となった。




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