それが私の愛だった



目を覚ませば、天井が白くて。
壁も、何もかもが残酷なまでに無垢の色で染まっていたから。
嗚呼、これはやはり私の大切なものばかりを奪っていく色だと、あの日二度と帰らなかった母の死に顔を脳裏に過ぎらせて、空っぽの右手で誰かの手のひらを探しながら、私は黙って静かに涙をこぼした。





事故だったのだという。何もかもが不運な、悲しむべき事故。たまたま大型トラックのブレーキが壊れていて、突っ込んだ先に私たちが立っていて。咄嗟に避けることも出来ないまま、私はまともにぶつかったのだという。
けれどもその結果、私の負傷は右足と左腕の骨折と地面を転がった時の擦過傷程度で済んでいる。当たり前に考えれば即死でも可笑しくなかったその状況で私が命を長らえたのは、他でも無い総帥に庇われたからだった。

『ですが、彼は』

まるで抱き締めるような形で、庇われていたのだという。総帥がその身体を使って私を守ってくださった。けれど私はその言葉に感動を覚えることも、憤りでさえも感じないまま無感動に返事を返す。…何もかもがどうでも良かった。たとえ、総帥に庇われたことが事実であったとして。それを他の人々が美談だと讃えて涙したとして。
総帥はもう二度と、かえってこないのに。

「体調はどうだ、一香」

ぼんやりと寝転んだまま、外を眺める私に声をかけてくださった有人さんは、ここ最近練習の合間を縫って見舞いに来てくださる。無気力なおかげでろくに返事をしない私に根気強く声をかけてくれるけれど、私はやはり、何もかもがどうでも良かった。

「あと三日で退院らしいな」
「…」
「円堂たちも、お前が帰ってくるのを心待ちにしているぞ」
「…こころまち…?」
「あぁ」

心待ちに、しているのだろうか。私を。総帥の命を犠牲にすることで生き延びてしまった、愚かで罪深い私を。
そう思うと、何だか可笑しくなってきた。とても矛盾している。人の命を踏み台にして生き延びた人間が、その帰りを渇望されている。そんなのはあまりにも滑稽で、あまりにも最低で、あまりにも絶望的なことだと思った。

「ならどうして、総帥はしんだの」

死なないで欲しかった。これから先、一緒に幸せになりたかった人だった。まだ総帥と何も話せて居ない。私の気持ちも、総帥の気持ちも、これから先の未来の話だって、私はたくさんのことを話してみたかったのに。
そんな機会は永遠に奪われてしまったのだ。総帥はもう二度と帰ってこない。あの時のお母さんのように、いつも私の大事な人は、幸福にならないままで死んでいく。

「いっそ、わたしがしねばよかったのに」 
「一香!!」

ぱちん、と渇いた音が左頬の上で鳴った。有人さんに叩かれたのだと理解したのは、ゆっくりと目を向けた先に居る彼が、誰よりも傷ついたような目で私を見ていたから。…何故、叩いた貴方の方がそんな顔をしているのだろう。

「死ねば良かったなんて、そんなことを間違ってもお前は口にするな」
「でも、わたしがいなければ」
「居なくても変わらなかったかもしれない!」

…違うよ、有人さん。私は今、貴方に否定して欲しいんじゃない。私が欲しいのは肯定だ。私が一番傷つく言葉をちょうだい。そうして、この喪失の痛みが分からなくなるくらい、ズタズタになるまで心を引き裂いて。
それでも有人さんは、優しすぎた。私の欲しい言葉は一つもくれないまま、無造作にゴーグルを外したかと思うと、やはり私よりも泣きそうな顔で私の肩を掴んで私の瞳を覗き込んだ。有人さんの赤い瞳。それが今、この白い部屋に絶望する私にとっては、どこか救いの色のように思えた。

「お前自身が死ねば良かったなんて、そんなことを思うな」
「…」
「そうでなければ、お前の無事を喜んだ俺たちの気持ちは、いったいどこに行けば良い」

どこに。どこに行けばなんて、そんな。じゃあ私のその思いだって、誰にも受け止めてもらえなかったなら、いったいどこへ行けば良いの。

「お前だけでも生きてくれて良かった。本当に心から俺は、そう思ったんだ」

そのまま抱き締められて、その温もりに思わず涙が溢れる。私の身体を庇うようにして抱き締めていたという総帥の体温も、これくらい温かかったのだろうかなんて、どこか他人事のように考えた。…傷つけて欲しいという先ほどまでの気持ちは今も変わらない。それでも、こうして有人さんに泣かれてしまうのはやはり困ってしまうから、それ以上は何も言えなくなってしまうのだ。





三日後、私は松葉杖と共に病院を追いやられるようにして退院した。命に別状が無い以上、退院するのが当たり前なのだから仕方ない。私は補助としてついてきてくださった有人さんや佐久間さんの手を借りながらイナズマジャパンに復帰。皆さんからも労わるような言葉をいただいたものの、誰一人として総帥のことに触れる方は居なかった。

「…無理はするなよ」
「大丈夫です。これでも、仕事をしていた方が気も紛れるので」

私が病み上がりだからと、なかなか仕事を渡したがらない監督やマネージャーの皆さんにそう言えば、後は黙って私の好きなようにさせてくれた。そして有人さんからすれば私はだいぶ危ういように見えたのだろう。私室や練習中を除いては、あまり私を一人にさせてくれなかった。死にたいという願望はあっても、死のうという意思は無いというのに。
そして私が退院してから、五日目。部屋で資料をまとめていれば、ノックと共に響木さんが顔を出された。そうしてどこか迷ったような素振りを見せて、やがて私の名前を呼ぶ。

「…一香、少し良いか」
「はい」

遠慮がちに響木さんに呼ばれて向かった先、会議室としてもよく利用する部屋に居たのは鬼瓦刑事だった。私の気力の無さを見て、少しだけ痛ましいものを見るかのように眉を下げたものの、すぐに切り替えて話を始める。

「もう、怪我の具合は大丈夫なのか」
「おかげさまで、骨も、折れただけですから」
「そうか…」

鬼瓦刑事はそこで言葉を詰まらせる。本題を切り出したいものの、どうやらそれは私には言い難いことらしい。恐らく総帥関連の調査で行き詰まったところがあり、私に協力を求めようとこちらにやってきたのだろう。…罪を償うことは、総帥の最期の意思でもあった。それなら私はいくらだって協力するというのに。
しかししばらく逡巡して、鬼瓦刑事はようやく腹積りを決めたらしい。私に差し出してきたのはいくつかの封筒だった。中身の便箋も入っている。

「…これは」
「…影山の滞在していた部屋から出てきたものだ。後生大事にしまい込んでいたらしい。…俺がお嬢さんに見てもらいたいのは、その差出人の名前だ」

差出人の名前。そう言われて、私は一番上の封筒を手に取ると何気無しに裏返す。そして、その名前を見たとき。私は一瞬、自分が何を見ているのか分からなくなった。半ば慌てて別の封筒の差出人の名前も確認する。
二通目、三通目、四通目、五通目、六通目。
どうやら全部で六通あったらしいその手紙の差出人は、みんな同じ筆跡で、同じ名前の人からのものだった。
そして私は、その差出人の名前が誰のものであるのかを、嫌というほど知っている。


「母の、名前です」


書かれていたのはお母さんの旧姓。使われていた筆跡は間違えようもなくお母さんのもの。だからこそ混乱する。どうしてお母さんが、総帥に手紙なんて出していたの。分からない。繋がりが何も読めなくて混乱するしか無い私は、それでも何とか頭を回転させてギリギリの瀬戸際で「読んでも良いですか」と辛うじて許可を取った。
お二人には神妙な顔で頷かれたものの「一人にした方が良いか」と尋ねられる。私もこの手紙は一人で読みたかった。だから頭を下げて肯定の意を示す。

「…おかあさん」

最初に取り出したのは、その中でも一番消印の古い手紙だった。震える手で中身を引き出して広げる。そんな手紙の書き出しに書かれた「影山零治様へ」の文字をなぞって、私はお母さんの記した文章を目で追った。
最初はお母さんから総帥へ、連絡を取ってしまったことへのお詫びが書かれていた。どうやらお母さんはかつて総帥の方から一方的に縁を切られてしまったらしい。何故なのだろう、と内心疑問に思いながら読み進めて、とある一つの文章を見て固まった。…悲鳴が出なかったのが可笑しいくらいに、私は衝撃を受けた。


『先月、貴方との子供を産みました』


…お母さんが、生涯、産んだのは。他でも無い私ただ一人のはずだ。だからこそその記述が信じられなくて読み進める。…読み進めても、それは、私が信じたく無い真実ばかりを照らし上げて白日の元に晒していった。
お母さんが産んだ総帥との子供は、娘だった。
母親譲りの目と、父親譲りの眉をもって生まれてきたその子供に、お母さんがつけた名前は。


『「一香」と名付けました』


私の、名前でしかなくて。
震える手で便箋を畳み、私は次の手紙に手を伸ばした。…正直に言えばこれ以上、私は何も知りたくなかった。だって、お母さんを捨てて不幸にした父親が、他でも無い総帥だったなんて事実を私は認めたくない。
手紙は毎年、私の誕生日の日に送られていた。生まれた時と、一歳から五歳までの六年間。毎年私の成長を綴ったそれはしかし、六通目の最後の手紙だけは、様子が違っていた。
書かれたのは、お母さんが亡くなる二ヶ月前。自分の辿る運命を丁寧に書き連ね、命が幾許も無いことを知らせたお母さんは、総帥へただ一言、「頼む」と記していた。


『あの子が、一香が。これから先、幸せになれるように』


…お母さんが死んだ日、初めて姿を現した総帥の姿を思い出す。あれは偶然でも、何でも無かった。総帥は私が自分の娘であり、何の思惑があれどお母さんの遺言を達成するために、あの病室に足を運んだのだ。…そこでふと、そう言えばと思い出す。あのとき、総帥に連れられて病室を出る前、総帥は確か最後に一度だけお母さんの顔布を取り去って、ジッとその死に顔を見つめていたのだ。何故そんなことをしているのかなんて、あの時の私には分からなくて。それでも何故か見てはいけないようなものを見たような気がして、私は黙って目を逸らしたのだった。

『…馬鹿な女だ』

そんな言葉も幻聴なのだと思い込んでいたけれど、あれはきっと総帥が呟いた言葉だったのだろう。信じられないようなことが、全て現実なのだと思い知って思わず呆然とする。…つまり私は総帥の養女でも何でもなく、本当に血の繋がった正真正銘の親子で、だけど総帥はお母さんを捨てた父親だった。…何を憎み、何を許せば良いのかも分からず、私は混乱したまま顔を覆って呻く。今更ながら、一人にしてもらって良かったと心の底から思った。

「…知らなきゃ、よかったのに」

そうすればこんなにも苦しむことは無かった。あの人をずっと綺麗なまま、養父として慕うことができたのに。…そんな苛立ちも混えて私は封筒に便箋を仕舞い込もうと袋を広げた。しかしそこに入っていた一枚の写真を見つけて取り出す。
今度こそ、呼吸が止まってしまうのではないかと思った。思わず自嘲じみた笑いがこぼれて、とうとう決壊した涙が頬を伝って落ちていく。それを拭わないまま、私は返事の返ることのない問いかけを口にした。

「どんな思いで、貴方は、こんなものを」

それは私と母が幸せそうに笑って寄り添い写る写真だった。少しだけ古くなってしまったそれを捨てることも無いまま、総帥はまるで宝物を扱うかのように大事にしまい込んでいたのだろうか。…何のつもりで。
今まで、娘としてまともに扱ったことも、父親のように振る舞ったこともないあの人が、こんなものを大事に仕舞っていただなんて思いもしなかった。…本当に私は、総帥のことは表面ばかりで、その中身は何も知らなかったのだろう。あまりの情け無さに自分で反吐が出そうだった。

『一香』

貴方に愛された記憶なんて無い。
覚えているのはたった一度繋いだだけの手の温もりばかりだったけれど。
そんな一欠片程度の温もりにも、貴方の愛情はあったのだろうか。少しだけ普通とは違うやり方で、私は愛してもらっていたのだろうか。不器用なりに貴方は、総帥は、たった一人の娘を大事にしてはくれていたのだろうか。
そんなこと、今となってはもう分からないことだけれど。

「おとうさん」

結局、ただの一度も呼べなかった名前で貴方を呼んで見る。何度も間違え過ぎた私たちの関係で生まれた記憶の中に、貴方の見えない愛を探してみた。
そうして幾つも、幾つも。ひっくり返して見せれば途端に姿を表すその数々に総帥の面影を見て、私はとうとう声を上げて泣いた。まるで癇癪を起こした子供のように泣き喚いてみせる。せいぜい困ると良いのだ。私なんかを庇って、自分は私を置いて逝ってしまったのだから、それくらい許されたって良いでしょう。

「どうした一香!?」

私の泣き声を聞きつけてきたらしい有人さんが響木さんたちの制止を振り払って真っ青な顔で部屋に押し入ってきたのを、私は腕を伸ばして縋りつくように抱きつく。私が感情を露わにして泣くその姿に有人さんは驚いたような顔をしたものの、決して私の手を振り払うことのないまま、落ち着かせるように抱き締めてくれた。
それが何だか、どうしようもなく胸を締めつけてきて、私は請い願うようにして泣き噦りながら口を開く。

「もっと、つよく、だきしめて」
「!」
「どこにもいかないように、だきしめて」

その途端に強まった腕の中、息苦しさに眉をしかめながらも、そんな苦しさが嬉しくて堪らなかった。ちゃんと私はここに存在しているのだと証明してくれる人が、私にもちゃんといる。だから、もう、それだけで生きていけるような気がしたのだ。
お母さんの無償の愛も、総帥の見えない愛も。私はずっと享受して生きてきた。本当に愛されたかった人たちに、私はちゃんと愛されていた。
それを少しだって返せなかったことが、きっと私の後悔で、死んでしまいたかった理由だったのかもしれない。…だけどまだ、死ねない理由を私は見つけてしまったから。

「わたしは」

お母さんが産み落とし。
お父さんに生かされた。
そんな命であったのだと知った。だからこそ私はもう、自ら死にたいとは思わない。…そしてこうやってまだ、私を愛してくれる人がいる。私に生きて欲しいと強く願い、死を望んだ私に泣いてくれるこの人を、私も同じ気持ちで愛したいと思ったから。
 

「あなたといきていたい」


生きていたいと思う理由なんて、それで十分じゃないかと。私は一人、そんな思いに耽ってもう一度、目の前の愛しい人を抱き締め返してみせたのだ。




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