道化者が歌う賛美歌



人々の間で「雪女」「総帥の犬」などと恐れられ、嘲笑される鉄仮面の彼女がかつては純粋無垢に笑う年相応の少女であったことを知るのは、例外を除けばもはや自分一人だろう。
両親を一度に失って妹と二人孤児院に身を寄せた幼い頃。総帥に見出され、鬼道家の養子として引き取られた少年は、まだ幼い自分の支えとなるようにと総帥からとある少女と引き合わされた。総帥に背を押されて鬼道の前に進み出た彼女は、少しだけ恥ずかしそうに俯きながらも照れたように微笑む。

『はじめまして』

一香、と名乗った彼女はその幼い見た目に似合わず類い稀ない頭脳を有するギフテッドだった。総帥はそんな彼女の才能を見抜き、他人ながら引き取ったのだという。…そんな彼女は頭脳だけでなく、その心でさえも大人びていた。
まだ幼い鬼道が、亡くなった両親を思い出したり、引き離された妹のことが恋しくなって心細くなったりしたとき、彼女は決まって彼の隣に並んで拙い手つきで背中をさすって慰める。「大丈夫」と舌っ足らずな口調で呟いた言葉で、彼女は鬼道の折れかけた心を何度も支えてくれた。恐る恐る切り出せば、彼女は嫌な顔一つせずに手を握って寄り添ってくれたこともある。
…しかし自分とは違い、義理とはいえ父親であるはずの総帥のことを他人行儀に「総帥」と呼んでいることに鬼道が気がついたのはそう遅くは無かった。だから鬼道は一度だけ彼女に尋ねたことがある。何故総帥を父と呼ばないのかという子供ながらに残酷な問いかけに対して彼女は曖昧に微笑み、やがてやはり曖昧な答えを返した。

『…わたしは、そうすいのおやくにたつの』

それでも彼女はまだ子供だった。
鬼道の隣で無垢に笑うことを許されていた。
普通の子供とは違う歪を持ちながら、それでも相応に笑う彼女を守ってやりたいと、いつしか願い始めた自分の初恋がきっと彼女だった。総帥と話すたびに俯く寂しそうな顔も笑顔に変えて、総帥や父が許す限り自分が側に居て助けてやりたい。…そんな理想を夢見て、現実の本当の残酷さを知らなかったあの頃の自分を今の自分は嘲笑う。

『鬼道様』

絶望はランドセルと一緒にやってきた。その年で七つになる鬼道と彼女は、総帥の勧めで帝国学園の初等部に入学することになっていた。同じ学び舎に通えることが嬉しくてたまらなくて、入学式の前日は父に窘められるほどに浮かれてしまって。…だから鬼道家に迎えに来た彼女と相対した時、はじめはそれが別人だと思った。感情を全てこそぎ落としたかのような無表情で、鬼道を他人行儀に呼んでみせた彼女はもうその年で子供であることを許されなかったらしい。

『鬼道、一香はお前のサポート役だ。上手く使え』

そしてそれが自分のためであったことに気がついてしまうくらいには、鬼道は幼い子供ながらに優秀だった。暗い瞳でジッと鬼道を見つめる彼女に湧いたのは、どうしようもない罪悪感。自分の存在が他でも無い彼女を変えてしまったのだという絶望。
彼はそのとき、自分の心で大切に育てていたはずの初恋が軋む音を聞いたような気がした。

『鬼道様』

自分が居なければ彼女はきっとまだ子供のままで居られたのに。昨日までの無垢な笑顔が今日もそこに在ったはずなのだ。頭の良い彼女は鬼道に話を語るのが上手で、彼が続きを請うたびに嬉しそうに目を細める。そんな彼女の笑顔を見るのが、自分はたまらなく幸せだった。

『鬼道様』

少年は知らなかった。彼女から子供である権利を奪い、大人であることを強いた敬愛するかの人が自分のためを思ってそうしたのだと信じて疑わない。だってそんなこと分かるはずが無かった。まさかあの人がただ、鬼道を己の元に繋ぎ止めるためだけに義理とはいえ自分の娘にそんなことをするだなんて欠片さえ思わなかった。
そしてそれに彼女は、一言だって鬼道にも誰にも助けを求めはしなかったから。

『どうして、泣いておられるんですか』

鬼道有人は彼女を手放さない。己の存在があったばかりに彼女が失ってしまったものの重さを、己の罪を、償い方を。彼は全て正しく理解して肚の中に飲み込んでしまった。
そしてそれは皮肉にも、あの人が望み描いた理想図の通りになって。
影山一香は養父を裏切らない。
影山零治は己の手駒である鬼道を縛り付けた。
そんな雁字搦めの鎖の中で、今日も彼は息をしている。それが唯一、彼女を救い贖うための手段なのだと信じていた。





前よりも少しだけ一香の雰囲気が変わった。鬼道がそう思いはじめたのは、ここ最近彼女に対する違和感が積み重なって弾けた瞬間に気づいた、彼女の目元の柔らかさを見つけたとき。
最初は源田との会話が増え、あまり確執の少ない成神や洞面が側に寄るようになり。チームの中でも一番と言って良いほどに彼女を嫌悪する佐久間が微妙そうな顔で彼女を見つめるようになった。

「…あいつ、最近可笑しいぞ」

前まではただはっきりと、鋭く尖ったナイフのようにグサリと刺してきていた彼女の正論が、ほんの僅かな戸惑いと共に柔らかくなった。何か言いかけても一度は口をつぐみ、場合によってはこっそりと源田に何事か相談を持ちかけているその姿を鬼道も見たことがある。

「そういやマネージャー、最近書類より練習見てることが多くなったな」
「あれは見てるっつーより睨んでるだろ」
「本人は観察のつもりらしいぞ」

観察、と誰かが不思議そうに呟いた。彼女を擁護する言葉を吐いた張本人である源田は制服のシャツに腕を通しつつ朗らかに告げる。先ほども練習終わりに何事か彼は彼女と会話をしていた。そのことを突然ふと思い出す。

「最近思うところがあったらしい」
「…フン、今更何を取り繕ったって遅いんだ」

…佐久間は彼女のことを異常なほどに嫌悪する。本人曰く、あのピクリとも動かない鉄仮面が気持ち悪いとのことだが、その訳を知っている鬼道としてはその言葉に何度でも心を刺されるような心地になった。もう遠い記憶の底、今や写真だけでしか会えなくなった彼女が脳裏を過ぎる。…それを首を振って遠くへ追いやり、鬼道は制服の最後のボタンを留めた。

「…あまりグズグズするな。下校が遅いと総帥に余計な迷惑をかけるぞ」
「すみません!」

今日は週に数度訪れる彼女との下校の日であった。表向きは自分の幼馴染として、裏では彼女を婚約者として迎えようと考えているらしい養父は彼女をよく晩餐へと誘う。当然、鬼道家の誘いを断るはずがない彼女は養父の考えを悟っているはずでもそれに応えた。…それを自分は喜ぶべきなのだろう。一方的にとはいえど、自分が恋い慕う彼女が婚約者になるのならそれは幸せなことなのかもしれない。もちろん鬼道だって喜びたかった。…そこに、彼女自身の意思があれば。

『総帥は私が鬼道様のお側に在ることを望まれておりますから』

それは「総帥の望みであるなら」という彼女にとってたった一つの行動理念が元だった。鬼道を異性として好意的に捉えているからでは無い。
そしてそんな虚しい想いを抱えてなお彼女のことが未練がましく今でも好きな自分が、鬼道は哀れでならなかった。

「最近、源田や成神たちと仲が良いようだな」
「…申し訳ありません。何か不都合でしたでしょうか」
「…すまない、言い方が悪かった。咎めるつもりは無かったんだ」

少しだけ刺々しくなった物言いに顔を青ざめさせた彼女の顔を見て鬼道は即座に取り繕う。幼い嫉妬だと自嘲して、今度こそ身勝手な感情を握り潰した。言葉の通り自分はただ最近の彼女の変化に対する理由が知りたいだけで、彼女の個人的な都合に口を挟む権利は自分には無い。
そんな鬼道の思いを知らぬまま、彼女は安堵したように息を吐いた。そして鬼道がその訳を知りたがっているものだと判断して口を開く。

「最近、真正面から話をする機会がありました。その際、源田様には私の思うことを忌憚無く伝えさせていただいたつもりです」
「…そうか」

鬼道とて、彼女が帝国サッカー部を大事に思っていることなど分かっている。乏しい感情表現やあくまで総帥の指示を絶対的に遂行することから、自分たち部員のことが二の次三の次になっているように見えているだけだ。そしてそれを、帝国サッカー部の中でも人が良いと言われる源田に伝えたのなら、あのお人好しが世話を焼きたがるのも分かる。彼は自分の次ほどに、部内で孤立する彼女を心配そうに見ていたから。

「…それと、サッカーというスポーツを改めて知る良いきっかけもありましたから」
「きっかけ?」

たしかに最近は、プレーに関する指摘が減っていると佐久間たちもボヤいていた。言われるにしろ、少しだけ躊躇いが見えるようになったらしい。鬼道のプレーにだけは絶対な信頼を寄せる彼女が彼のプレーにアドバイスも注意も挟んだことは無いため気がつかなかったのだが。鬼道はそのことについても尋ねてみた。彼女はその問いかけに対して、少しだけ気まずそうに目を逸らして答える。

「…普通の方ならば、ボールをまともに蹴ることさえ出来ないような素人などに指摘されれば腹も立つものだということを、ようやく最近理解しました。…知ってしまえば最後、これまでのように無遠慮に声をかけることが、どうにも憚られてしまって」

…彼女のサッカーの知識は総帥である影山から直々に教え込まれた本物であり、総帥もその場に自分が居ない場合の代役として彼女を置いているような節がある。その頭の回転の速さから作戦の意図を正確に迅速に読み取り、有効な戦術を導き出すことの出来る彼女は決して素人と言っても良いレベルではない。しかし彼女はどうやら今の話を本気で口にしているようだった。
それを聞いて、鬼道は思わず口元が緩む。こんな風に彼女が落ち込む姿を見るのは何年ぶりだろうか。少なくとも、いつもの鉄仮面がわずかに剥がれてしまうくらいには、彼女はどうやら変わってきているらしい。…いや、この場合は戻ってきているとでも言うべきか。
そしてだからこそ鬼道は、彼女にもっともらしい言葉を投げかける。

「…ならば、まだこれから学べば良い」
「…鬼道様」
「今週末に雷門中の試合を観に行く。…お前も来るか」

前よりも少しだけ和らいだような彼女の口調に懐かしく思う。かつてもこうしてこんな柔らかな声で、彼女は自分の名前を呼びながら手を繋いだ。…今はもう、手を繋ぐことも彼女が無垢に笑うことも無くなってしまったけれど。

「…ぜひ、お供させていただきます」

それでも今、こうして彼女が少しずつ世界を仰いで羽ばたかんとしている姿を見られることが、たまらなく嬉しくて仕方がなかった。





鬼道様も注目しておられる雷門中は、どうやらフットボールフロンティアの地区予選を順調に勝ち抜いているらしい。そして鬼道様は一軍の予備メンバーでもあられた土門様をスパイとしても送り込んでいるようだが、なかなか彼から情報は上がらないようだった。
私はといえば一度だけ総帥にお供させていただき、雷門中が次に戦うであろう御影専農中へ訪れた。データ管理を徹底したサッカーはほんの少ししか情報が無いはずの雷門中の弱点を正確に見抜き、もう既に策は練られているらしい。それを見て「つまらない」と無感動に感じてしまった自分に少し驚く。

「あのチームを見てどう思う」
「負けるものと思われます」
「そうか」

ただ帰り道の車内で総帥にそう問われたときは間髪入れずにそう答えた。御影専農は、雷門には勝てない。彼らは試合の中で進化する雷門中サッカー部の底力を計算に入れてはいなかった。まだ始まってすらいない試合への批評として、彼らの敗北原因をあげるならきっとそれだろう。

「明日は鬼道と雷門の試合を観に行くそうだな」
「…はい、偵察の一環としてお供させていただきます」
「雷門に情でも湧いたか?」

思わず心臓が冷えた。脳裏に過ぎる円堂守の顔を動揺ごと捻じ伏せて何でもないように答える。

「…興味深いチームであるとは思いました」
「そうか」

笑いを含んだその返答に、私は心苦しい胸に力を込めた。…円堂守とは結局、あれからときどきメールを交わすようになった。大抵は円堂守からの取り留めもない報告じみたものばかりで、「雲がドーナツの形をしていた」だとか「転んだ拍子に四葉を見つけた」だとか。そんな普通なら下らないと鼻で笑って切り捨ててしまっても良いようなことばかり。
けれど、そのどれもを私は切り捨てる気にはなれなかった。写真を律儀に保存なんてしてみせて。時折空を見上げるたびに、野の花に目を向けるたびに。円堂守も見たであろう景色を探してしまう。

『またサッカーしような!』

円堂守という人間が私の世界に構築されていく。私の拙い話もサッカーも何もかもを笑顔で肯定してくれた彼が、何故だか眩しくて仕方ない。
…だからなのだろう。それと同時に雷門中のサッカーに無意識のうちにも惹かれていく。いつだって全力で、敗北を省みずに前へと走る彼らの姿を見て胸が暑くなった。

「あまり深入りはするなよ」
「はい、申し訳ありません」

総帥がゆっくりと私に釘を刺される。私はそれに答えつつも、総帥のお言葉に対して一瞬だけ躊躇ってしまったことに自分でも驚いてしまった。
総帥のお言葉に間違いは無い。いつだって私を正しく導いてくださる。そのことを私は誰よりも知っていた。…だから私はこれ以上、円堂守に、雷門中に関わることなく目を背けなければならないというのに。

(それは少しだけ、寂しいような)

たとえ大人にも負けない頭脳を持ち得ていたとしても。授業なんて受けずとも、教科書を読むだけで何もかもが理解できたとしても。
ズキリと疼いた胸の痛みの意味さえ知らない私はいったい、心の底で何を望んでいたのだろうか。




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