処刑台にて君を待つ



土門様が雷門中に寝返られた。そのことを鬼道様から報告された時、過ぎった思考は「やはり」という納得だった。
それは、日が経つごとに鬼道様へ送られてくる情報が量を減らし、精彩を欠いていたのは目に見えて明らかだったから。総帥も鬼道様も何も仰られなかったけれど、きっと裏切りの予兆は感じておられたと思われる。私でさえ気がついたのだ。あの方達がお気づきにならない訳が無い。

「総帥、冬海様が総帥への面会を望んでおられますが」
「追い返せ」
「承知致しました」

そして加えてもう一つ。総帥はあの日の雷門中との練習試合後、彼らの顧問である冬海卓をスパイとしてこちら側に抱き込んだ。雷門中への訪問の日、私に向けて媚びたような目を向けていた男だ。彼に直接交渉してこちら側に引き込む役目は私が請け負っていた。ほんの少しの端金、それさえチラつかせれば一も二もなく頷いた冬海に軽蔑の視線を向けたことを今でも覚えている。
教師という職業は随分と崇高な思考を持つ方が就かれるものなのですね、と思わず皮肉と嫌味が出そうになった。
それにしても彼は昨夜、一度総帥からはっきりと直接切り捨てられたというのに、まさかここまでして縋ってくるとは。

「お待たせ致しました」
「あぁ、あの、総帥は何と」
「…総帥からの要求はただ一つ。どうぞお引き取りください」
「そんな!」

分かりやすく退出を促すように扉を開けば、冬海は私のような子供の足元で必死に許しを乞う。大人が恥じることなく私のような子供に頭を下げるこの光景に私は息を吐いた。…どうしようもなく、救いようの無い男だと思う。
たとえそれが「雷門中が決勝戦に出場できないようにしろ」という総帥の指示であったとしても、それは他者の命を弄んでも良い理由にはなり得ない。そんな彼は仮にも教え子であるはずの彼らの乗るはずだったバスに細工をしたらしい。それを告発したのが土門様だったのだとか。

「…冬海様、今私は総帥のお言葉を携えてここにおります」
「…?」
「お引き取りを、と申しました。…総帥の意思に背かれるおつもりでしょうか」
「ひっ」

冷めた目で見下ろせば、冬海は覚束ない足を必死で動かしながら応接室を出て行った。それを見送り、形ばかりで中身は一滴だって手をつけられていない紅茶を片づけて私は総帥の元に引き返す。先ほどと変わらず書類に目を通されていた総帥の目の前まで歩み寄り、私は少しだけ躊躇いながらそっと口を開いた。

「…総帥、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「…何だ」
「何故、冬海卓に雷門中サッカー部への妨害を命じたのでしょう」

雷門中サッカー部はとうとう準決勝で秋葉名戸中サッカー部を下し、帝国学園の待つ決勝戦への切符を手に入れたらしい。戦いを一つ終えるたびに強くなる雷門中の底力は、たしかに警戒すべきことかもしれないが、それでも私は帝国学園が遅れを取るとは思えない。
鬼道様も前とは違う雷門中と再び戦うことを心待ちにしていらっしゃる。いつもの思慮深い顔がなりを潜め、まるで待ち遠しい日を心待ちにする子供のような目をして雷門中の試合を見ていた鬼道様を見てそれは分かった。あの方もまた、円堂守という選手の在り方に惹かれているのだろう。

「私の計画に異分子は必要無い」

総帥はにべも無くそう言い捨てられた。いつも通りのそのお言葉が返ってくることは頭のどこかで既に分かっていたけれど、それでも何故か納得がいかない。そのおかげでよりにもよって総帥のお言葉に苦言を呈するという、私にしては珍しいどころか自分でもあり得ない行動に出てしまった。

「…お言葉ですが、このようなことをしなくても鬼道様たちならば、たとえ雷門が相手であっても十分に勝機は見えていると思われます」

総帥はそんな私を一度だけ一瞥し、サングラス越しに私を冷たく見据える。それを見て私は急速に頭が冷えていくのを感じた。…可笑しい、どうして私は今、総帥のやり方に口を挟んだの。

「私のやり方に不満か?」
「……いえ、出過ぎた真似をしました。申し訳ありません」

頭を下げながら混乱する。これまでならこんなことは絶対に無かった。総帥の仰ることならと、無条件に信じて盲目でいられたはずなのに、今はただ不思議でならない。
鬼道様たちは強い。あの方達はどんな誰であっても敗北を許さない。何故ならそんなあの方達の練習に励む姿を一番近くで見てきたから。だというのに、あくまでも相手を排除することで勝利を確実にしようとする総帥を疑問に思ってしまった。

「頭を冷やしてまいります。…失礼しました」

ここに居ても総帥に醜態を晒してしまうだけだ。そう思って私は一度総帥のお部屋から退出する。背後から突き刺さる視線が私の戸惑いを咎められているような気がして恐ろしかった。

「…間違いのはずが、無い。総帥は、正しい」

自分に言い聞かせるようにして廊下を歩む。グラウンドに向かおうと思った。今ならこの時間はまだ皆様が練習の準備を始めている頃だろう。その仕事を手伝わせていただければ、このぐちゃぐちゃな思考も少しは纏まるような気がした。
しかしグラウンドへ続く角を曲がる直前、向こうから聞こえてきた聞き覚えのあるお声に私は思わず足を引っ込めて影に隠れる。

「どうしたんだ、部室じゃ駄目なのか」
「何処で聞かれてるか分からないからな…」

…源田様の声だった。そっと窺えば、そこには一軍レギュラーの皆様が揃っている。何故ここに、だとか練習の準備は、だとかの疑問が次々に浮かんでは消えていく。皆様の中心に居られる鬼道様の表情から、どうやらこれは総帥には知られたくはない話なのだということが理解できた。
そして、次に鬼道様が仰られた言葉を聞いて私は言葉を失うことになる。

「…俺は総帥のやり方を否定する。みんな、俺たちのサッカーをやりたくはないか」

…あの鬼道様が、総帥に反旗を翻す意を示された。それを悟って思わず口元を覆う。たしかに最近鬼道様は総帥に対してあまり良い顔をなされなかった。一度御当主様から相談を持ちかけられた総帥が鬼道様とお話をされたときも、鬼道様はどうやら総帥に疑問を抱いていたらしい。
そしてそんな鬼道様が今、皆様に対して反逆の提案をなされた。この中では一番総帥を崇拝していたはずの鬼道様のその言葉に、皆様は戸惑われた様子だったもののそれに異を唱える方は居ない。

「…総帥に逆らうということか?」
「あぁ、俺はもう、総帥のやり方に疑問しか抱けない。相手のチームを試合前から引き摺り落として得る勝利を、俺は本物の勝利だとは認めない…!」

…それを聞いて皆様は覚悟を決められたらしい。次々に頷いて同意を示される中、私の胸中はただただ絶望が占めた。
総帥の作り上げた完璧なチームがバラバラになってしまう。総帥の積み上げてきた何もかもが崩れ去ってしまう。鬼道様と総帥が離れていく様を見せつけられたような気がした。幼い頃から総帥のことを師と慕う鬼道様を見ていたからこそ、そのショックは大きい。
そしてそこで「待て」という声が鬼道様を咎めた。

「あいつにも話すのか」
「…佐久間」
「俺は反対だぞ、鬼道。あの女には絶対に話すべきじゃない」

佐久間様は半ば鬼道様を睨みつけるようにして異を唱えた。…ここ数日、源田様からのアドバイスを受けて皆様への対応を変えていたのだが、戸惑いながらも同じく気遣うような素振りを返してくれた皆様に反して最後まで一貫して冷たい対応をなされていたのが佐久間様だった。そんなあの方は、私を信じないと吠えて言い捨てる。それを聞いて何故か、心臓がツキリと痛んだような気がした。

「あいつは所詮総帥の犬だ。鬼道、たとえお前があいつを信頼していても俺は信じられない。最近態度が柔らかくなったくらいが何だ。それも俺たちの油断を誘う罠かもしれない!」
「佐久間、彼女はそういう人間じゃない」
「お前は優しすぎるんだよ源田!」

…その通りだと思った。私はこうして総帥のやり方に疑問を感じつつあってもあの方を裏切れない。総帥は私にとっての絶対で唯一だ。あの方の理想とする世界を私は正義だと仰いだ。
たとえその影に巣食う恨みや呪いに睨まれても、私はそれで構わないとさえ思っていた。総帥の仰ることに間違いは無く、全て正しいものだ。
…そう思ってずっと、私は生きていたから。

「…たしかにあいつには、俺も不安がある」
「鬼道」
「一香には俺から、決勝戦を終えてから話す。…それなら構わないか、佐久間」
「…あぁ」

私はそっと音を立てないように踵を返して総帥の部屋に戻る。今の会合を報告しなければならないと冷静に考える頭と、動揺と悲しみと絶望に揺れる心が乖離しそうな苦しみを抱きながら、私は総帥のお部屋に入室した。引き返してきた私を見て、総帥が怪訝そうに顔を上げる。私はそれに何も無かったかのような振りをして総帥の元へと歩み寄った。

「そろそろお前は練習の時間のはずだが?」
「…鬼道様たちはミーティングを行われているようでしたので」
「何か問題でもあったか」

…今日、ミーティングの予定は何処にもない。つまりはイレギュラーな鬼道様たちの行動に対して総帥は私を射抜くように見つめてそう尋ねられた。そして私はその問いかけに対して、いつも通り平坦な声音を装ってこう答える。


「いいえ、何も」


総帥は少しだけ考えるように黙り込み、しばらくして「下がれ」と短く私に告げた。私はその言葉に一礼し、私の執務室へと下がる。そうして備えつけの小さなソファに座り込んで、私は顔を覆った。小さく震える唇を噛み締めて、たった今犯した一つの罪を懺悔する。

「…もうしわけ、ありません」

嘘をついた。嘘をついた。嘘をついた。
総帥に対して私は、報告すべき皆様の反逆を隠蔽したのだ。心が痛い。決して消えはしない裏切りに耐えきれない罪悪感が私を襲う。…私はいったい、どちらの側に立ちたかったのだろう。
総帥のやり方に疑問を持ちながらも、その全てを肯定する私。
鬼道様をお側で支えながらも、あの方の反逆を悪だと感じてしまった私。
二つの私が対峙して、もみくちゃにされて、何が正しいのかさえ分からない。…でも、そんな私が鬼道様たちを選んでしまったのは。

『鬼道を守り支え、あいつの半身となれ』

だってそう仰ったのは、他でも無い総帥だ。私の全ては総帥のものでありながら、私の存在意義は鬼道様のためにある。あの方を支え、私の持ち得るもの全てをかけて導いてさしあげることこそが、総帥に与えられた私の使命だから。





鬼道様たちはそれからも何事も無いような顔をされて練習に励まれていた。少しだけ源田様たちの私に対する態度がぎこちないものに変わられたけれど、私はそれに気づかない振りでいつも通り過ごす。
あれからたくさんいろんなことを考えた。私という存在は鬼道様のためにあるけれど、私は総帥のことを裏切ることは出来ない。そう考えたとき、私がとった手段は「沈黙」だった。どちらに味方することもなく、一歩離れた場所で傍観者になりながらどちらにも与しない。…ずるいだろうか。ずるいのだろう。何せこれは逃亡なのだから。私はどちらかに味方し、どちらかを失ってしまうことが怖い。

「明日の決勝戦の会場設営が終了しました」
「そうか」

しかし不思議なことに前日になっても総帥が動かれる気配は無く、鬼道様をはじめとした他の皆様は総帥や私の動きまで注意深く警戒していらっしゃったものの、やはり拍子抜けしつつも戸惑われているようだった。鬼道様だけは、その警戒を緩めることは無かったけれど。…それにしても敵視されることは慣れているが、少しだけ溶け込めたのかもしれないと思っていた方々にその目を向けられるのは少し辛い。それが仕方の無いことだと分かってはいても。

「…総帥…?」

ふと、私の報告に対して何事か黙り込んでいた総帥はそこでニヤリと口角を上げられた。それを見て心の中で渦巻く不安に思わず呼びかければ、総帥はそんな私からの声を黙殺し、どこかへメールを打つ。やがて送信し終わったらしい総帥は携帯を机の上に放り出し、愉快そうに私を見て嗤われた。

「…今、どちらへ連絡を」
「業者だ。今夜手配した」

告げられた業者の名は、この帝国学園の校舎の改修を請け負う工事会社。総帥の息がかかった帝国お抱えの業者だった。嫌な予感がする。何故今このときに、そんな方々を呼ばれるのかが分からなくて震えそうな手を必死に握り締めて堪えた。
そして総帥はまるで、そんな私の疑問に答えるかのように。楽しそうに肘をつかれて、何でもないような声でその理由を話された。


「何、少し天井を調べさせるだけの話だ。…崩れて鉄骨が落ちるかもしれないからな」


…喉が乾く。背筋が冷える。目眩がする。総帥の意味深な笑みが頭にこびりついて離れない。察してしまった。総帥が何を考え、何を手配したのか。今のやり取りの全てで察してしまった。
雷門中を狙い、帝国学園の無敗を継続させるための総帥のご計画。止めなければならない。人命を蔑ろにしてはならない。分かっている。それが正義で、常識で、当然で、普遍だから。…でも!

「…人払いを、済ませておきます」
「早急にな」

私にとっての正義は総帥だ。
私にとっての常識は総帥だ。
私にとっての当然は総帥だ。
私にとっての普遍は総帥だ。
ならば私は、何をもってその総帥の行いを悪だと決めれば良い。だって総帥が「良し」としたことを私が止める権利は何処にもないのだ。部屋を出て、暗い廊下を一人歩く。誰もいない、孤独な私の行くそこはまるで、処刑場に続く長い長い道に見えて仕方なかった。
ふと足がもつれてその場に崩れ落ちる。散らばった書類をかき集めようと手を伸ばして、その上に小さなシミが出来ていることに気がついた。また一つ、滴がシミを増やす。

「…あぁッ…!!」

それは私の涙だった。何もかもにも中途半端で、心でさえ一つに定まってくれない私のこの絶望に、限界だった心が弾けてそれは雨になる。…いったいこれは、何が正しくて何が間違っている。
恩に報いて悪を正義と掲げるか。
正義を選んで裏切り者の汚名を着るか。
私が取らなければならない選択はもはやどちらかしか無かった。今の総帥の話を聞いてしまった以上、私はもう傍観者にはなれない。

「どうすればいいの」

その日、私は一人嗚咽をこぼして子供のように泣いた。ずっと昔、鬼道様に仕えることを命じられたあの日以来忘れたはずの涙は何故か、今更思い出したかのように溢れ出て私の膝を濡らす。
救いは何処にもなく、あるのは二つの地獄のみ。
選べた突きつけられた選択はどちらも、私を絶望へ誘うには十分に過ぎたのだ。




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