破滅を願った星の子



決勝戦当日の日、私が総帥に命じられたのは雷門中の方々へ施設を案内する役だった。様々なことを考慮したらしく、駅からここまで徒歩で来られたらしい雷門中の方々を私は建物の入り口で出迎える。私の姿を認めて、円堂守以外の選手たちが警戒したように足を止めた。

「…お待ちしておりました、雷門中サッカー部の皆様。本日皆様の案内役を務めさせていただきます、マネージャーの影山一香と申します」
「久しぶりだな一香!」

おい円堂、と誰かが円堂守を嗜める。それを気にすることなく気さくな様子で私に手を上げた円堂守に私は深々と頭を下げた。

「…お久しぶりです、円堂さん」
「今日はよろしくな!」
「えぇ、こちらこそ。…それではロッカールームの方へご案内いたします」

道中、私から三メートルほど間隔を開けて後ろを歩く雷門中の皆さんは、どうやら私たちからの妨害を警戒しているらしい。…無理も無い、何しろ冬海卓の件がある。命を奪うことを目的とした企みがたしかにあった以上、総帥の側に控える私のことも警戒しないに越したことは無い。
やがて控え室にたどり着くと、そのタイミングで何故か中から鬼道様が姿を表した。反射的に入り口横へと身を引きながら思わず目を見開く私に、背後から鬼道様を咎めるような声が聞こえた。

「何してたんだ!」
「…鬼道様」
「…何も無いか見ていただけだ。少なくともここには何も仕掛けられていない」

その場を去る鬼道様の背中を勘繰るように見つめる雷門中の方々。私はその背中を追いかけたいのをギリギリで耐えて、この案内を終了させるために控え室へと皆さんを通す。そして途端に中を調べ始めた皆さんを一瞥して、私は入り口で苦笑いしながらその様子を見ておられたある方の名前をお呼びした。

「…土門様」
「!あ、あぁ…久しぶりだな」
「少し、お話する時間をいただいてもよろしいでしょうか」

それを聞いて他の選手の方々が騒めいたが、私はそれを黙殺する。その誘いを受けるも受けないも全ては土門様次第だ。そして土門様はどうやらその話に乗られるらしい。引き止める他の方々を嗜めて、私に続いて控え室から出た。
聞かれて困ることでも無いが、土門様のプライバシーに配慮して少しだけ歩いてロッカールームから距離を取る。そして控え室からある程度の距離を取ったところで、私は話を切り出した。

「…総帥は、土門様のことを最初から眼中に入れてはございません」
「!」
「どうなろうが知ったことでは無い。…そうお考えになっていると思われます」

それを聞いて目を見開いた土門様は、少しだけ安堵したように笑われた。…総帥の意志に逆らうということは、反逆と何ら変わりないことだ。総帥の命を遂行しきれず、罰を受けた人間を見たのも一人や二人では無い。…そして私が土門様の寝返りを聞いたとき、最初に思い至ったのはその罰のことだった。しかし総帥は土門様の名前を出すどころか話題にすら上げない。
つまりは見逃すということ。…要らない世話だったかもしれないが、土門様がそのことで気に病んでいたらと今回お伝えさせていただいたのだ。

「…変わったな、マネージャーは」
「…私は別に、変わってなんて…」
「いや、変わったよ。前はそんなこと何があっても言わなかった」

ありがとな、と土門様は笑われる。それに対して私は何の返事も返すことが出来ず、ひとまず頭を下げればまた笑われてしまった。
そして僅かな時間とはいえ、土門様をお借りしたことをお詫びするために再び控え室を訪れれば、選手の皆さんはまだ部屋の中を検めている様子だった。入り口付近に居た豪炎寺修也と目が合い、目礼だけ返す。あちらも軽く頭だけを下げて会釈し返してきた。

「円堂さん、土門様を少しお借りさせていただきました」
「何もしてねぇだろうな…」
「何もされてないって!むしろ気遣われただけだからさ!」
「気遣い?」

…余計なことはあまり話さないでいただきたいのだが、私はその不思議そうな顔に答えず退出しようとした。するとそこでまた円堂守に呼び止められる。振り向けば彼は、私に対して何の疑いも抱かぬような目をして笑っていた。

「案内ありがとな、助かったぜ」
「…私の仕事ですので」

たったのそれだけだ。彼らからお礼を述べられる資格なんて私には無い。…天井に巣食う脅威を知っていて、知らない振りをしている私なんかには。
だから無愛想になっても簡潔にそれだけを返して私は今度こそ踵を返す。控え室の扉を開けたとき、背後で雷門中の選手である風丸一郎太が私と円堂守の関係性を問う声が聞こえた。
円堂守はその問いかけに、どこか嬉しそうに口を開いて答える。

「俺の友達なんだ。良いやつなんだぜ!」

ガツンと。強かに頭を殴られたかのような錯覚に陥った。それくらい、今の円堂守の言葉は衝撃的だった。…今彼は私を、友人だと呼んだのだろうか。敵であるはずの私を、たった一度サッカーを共にしたくらいの私を。
現在進行形で彼らに迫る危機を見て見ぬふりしようとしている、薄情者でしかない私を。
思わず振り返ればそこには、何の思惑も無く本心で私を友人だと呼んだらしい笑顔の円堂守が居た。きっと今、誰よりも酷い顔をしている自信のある私へ彼はもう一度手を振って笑う。

「お互い頑張ろうな、一香!」

心からの笑顔で手を振る円堂守の顔を真っ直ぐに見られないまま、私は頭を下げて踵を返す。感情が、胸に巣食う感情が激しくぶれて定まらない。
かつて一度は考えた。私と円堂守の関係性についてを。
彼を利用したことは無い。利用されたことも無い。私にとって円堂守は脅威にすら思えず、そしてそれはどうやらあちらにとっても同じのようで。
ただ一度サッカーをし、時折メールのやり取りをするだけの、いつ切れても可笑しくはないほどに細い繋がり。
それを今、彼は友達と呼んだのか。

「…どうして、そんなッ…!」

覚悟を決めたはずの私の心を揺さぶるの。どうして非道にさせてくれないの。貴方が私をただの知人と呼んだなら、私はきっと少しの罪悪感に痛む胸を堪えて悪者になれた。そんな風にまるで、私を対等な人間だと言わんばかりに笑われて手を差し伸べられて、簡単に振り払えてしまうほど私は非情になれない。
…いつのまにか私は走り出していた。ギリギリで堪える涙を振り切るように、ぐちゃぐちゃな思考をクリアにしたくて。そうしてやがて驚いたような声と共に腕を掴まれる。

「…どうしたんだ」

…鬼道様だった。総帥の部屋からこちらへやってきたらしい鬼道様の顔を見て、その心配そうな声を聞いて。私はギリギリ我慢していた、喉の奥で渦巻いていた願いがぼろりとこぼれる。
鬼道様の名を呼ぶ声は、どこか縋るような情け無い色をしていた。

「…きどう、さま」

言ったらいけない。口を閉じなきゃ。総帥をこれ以上裏切るな。私を見出し、居場所を与えてくれたあの方のためになりたいと願ったのは、他でも無い私のはずだ。…けれど口は止まらなかった。
離さなければならないはずのこの手は、鬼道様の腕に縋り。
遠ざからなければいけないはずの足は、まるで地面に縫いつけられたかのように動かない。
たとえ頭が、理性がやめろと叫んでも。私の本心がそれを掻き消すほどに、止めてくれるなと泣き喚いていたから。

「…総帥、は。…昨日、業者を呼ばれて、簡易的な工事を行いました…」
「…何処のだ」
「………雷門中側の、グラウンドの、天井です」

その途端、私は鬼道様に抱き竦められた。突然の抱擁に訳が分からず狼狽えていれば、鬼道様は私の背中を撫でて小さく感謝の言葉を述べられる。

「ありがとう、一香」
「…きどうさま」
「お前のおかげで、円堂たちを救える。…総帥の企みも暴くことができる」

…それを聞いて、私の瞳からは止め処なく涙が溢れ出した。しかしそれは嬉しさのためでも、喜びのためでも無い。たった今この瞬間、私は自らの意思で総帥への裏切りを決定的なものにしてしまったのだという激しい罪悪感が、私の心臓を貫いて激痛に苛んでいたから。
分かっていた。このことを鬼道様に、誰かに報告すればそうなることくらい考えなくたって簡単に分かることだった。…それでも、言わないことを選択出来なかったのは。

『お互い頑張ろうな!』

私を友人だと呼ぶ愚かにも無垢で優しい彼を、切り捨てられない私の弱さのせいだった。
私に悪党の才能は無い。この手を悪に染めてしまうためには、どうも私は他人からの肯定に飢えすぎている。
だって、友達だなんて言われたのは初めてだった。みんな私が総帥の娘なのだと知ればすぐさま遠ざけて、怯え、擦り寄ってくるのは総帥に媚びを売るための人間ばかり。何の打算も無く、同情も無く、これまでの確執も因縁も飛び越えて隣に並び立ってくれたのは、円堂守が初めてだったから。





鬼道様に嗜められ、何も知らない振りでベンチにいるよう言われた私は大人しくベンチに腰を下ろして試合開始の瞬間を待つ。どうにかする、と仰られた鬼道様を信じて待つことしか私には出来なかった。
先ほど雷門中側では、上からボルトが落ちてくるというハプニングがあったらしい。帝国の皆様も私に何か物言いたげな目を向けていたけれど、私はそれに答えることも見返すことも出来ないままに俯いていた。

「選手整列!」

やがて選手の皆様が呼ばれ、センターラインに両チームが並ぶ。鬼道様と円堂守が何やら会話をなさっているのをぼんやりと眺めていれば、いつのまにか皆さんはポジションについていた。試合に集中しなければ、とバインダーをのろのろと開いて試合開始のホイッスルを待つ。何事も起きないまま試合が始まって、何事もなく終わって欲しい。ただそれだけを願った。
審判がホイッスルを咥えるのが見えた。私は祈るように手を組んで、固唾を飲んで目の前のグラウンドを見据えた。大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。何も起こらない。起こるわけがない。鬼道様がどうにかすると仰った。だから大丈夫、大丈夫なのだ。
そして審判が高らかに試合開始を告げるホイッスルを吹く。試合を盛り上げるための実況の声が高らかに響き出して。

____降り注いできたのは、鉄骨の雨だった。

轟音が地を揺らす。取り落としたバインダーとシャープペンシルが地を跳ねる乾いた音を耳が拾った。けれど今は、そんなことどうだって良い。…重要なのは今この目の前。たった今起きてしまった惨劇から、私は目を逸らせない。

「え、んど、さ」

鉄骨が刺さる。砂埃を上げて雷門側のグラウンドに深く突き刺さった。落下の衝撃で巻き起こった暴風がベンチにまで届いて、血の気が引いた私は思わず一歩踏み出しかけた足に力が入らずその場に崩れ落ちた。
…どうして落ちてきたの。だって、鬼道様は任せろと仰られた。それならこんなこと、あり得るはずが無い。けれど顔を上げてもそこには変わらず鉄骨が刺さっている。無機質に、無遠慮に。…センターサークルには、雷門中のフォワードである二人が立っていた。そんな二人を中心にして他の選手たちも居た。それなら、あの下には。
あの鉄骨の下に居る人は、きっと、もう。

「ハ、ハッ、ァッ…!」

呼吸が苦しい。目の前が滲む。早く、早く助けなきゃいけないのに。怪我をした。絶対に軽くは無い怪我をした。まさか総帥がここまで容赦無いとは思っていなかったのだ。せいぜい、足場に散らばる程度の威嚇だと思って。…あぁ、違う。
私は、威嚇であって欲しいと願っていたのだ。

「おい、マネージャーが!!」
「誰か袋持って来い!!」

誰かの声が聞こえる。背中を撫でて、落ち着けと叫ぶ声が耳元にぶつかる。けれども私はなんとか呼吸を宥めようとして、それでも何故か出来なくて息は苦しいままで。一度自分でも分かるほどに大きく可笑しな呼吸音がした。…そのときだった。袋らしきものが口元に当てられて「息を止めろ」と誰かが囁く。言われた通りに一度呼吸を止めた。そして五秒ほど経った頃、その声は次の指示を出す。

「吸え」
「…」
「吐け」
「…ァ」
「吸え」
「…」
「吐け」
「…ァッ」

淡々とした指示に従って、私は呼吸を取り戻した。けれどもまだ酸欠でぼんやりする頭の中、背中を撫でていた手がバシリと一度強く叩いて離れる。そして立ち上がったその人を見上げれば、そこには顰め面で私を睨むように見下ろす佐久間様がいらっしゃった。

「…ありが、と、ござ、ま…」
「まだ喋るな。また過呼吸起こしたいのか」

ぶっきらぼうながらに、どこか気遣うような色があって私は思わず戸惑う。優しくされる理由なんて、私には無い。しかし佐久間様はそんな私の疑問に答えるつもりは無いらしく、他所を向いて離れて行ってしまわれた。呆然としていれば、成神様と洞面様が手を貸してくださり、何とか立ち上がる。そこでハッと前を向いた。雷門中の安否をまだ、私は確認していない。

「大丈夫っスよ。鬼道さんが何とかあっちに注意するよう言ってたみたいで」
「誰も怪我はしてないですから」

左右から聞こえる落ち着かせるような声に応えることも出来ないまま見据えた先、たしかに雷門中の皆さんは無事だった。…そして、鬼道様が私に告げたことは嘘偽り無く、皆さんを救ってくださったのだとようやく安堵する。
しかしそこで、鬼道様の姿が見えないことに気がついた。源田様と辺見様の姿もここには見えない。嫌な予感を胸に成神様に三名の所在を尋ねれば、彼は少しだけ神妙そうな顔をなさって「総帥のところに行きました」と仰った。それを聞いて私は立ち上がる。

「す、みま、せ、私、行かなきゃ」
「どこ行くってんだよ」

それに答える余裕も無いまま、私は後ろからの呼びかけを振り切って走り出す。目指したのは総帥のお部屋。…言い訳をするつもりは無い、庇うものも庇えない。総帥が犯したことは犯罪だった。
けれどあそこでジッとしていることだけは出来なかったから。

「総帥!!」

部屋に飛び込めば、そこではちょうど総帥が警察の方々に挟まれて連れて行かれるところだった。鬼道様が私を見て名前を呼ぶ。私をチラリと見た刑事が窺うように総帥の方を見たものの、総帥は私を一瞥さえしなかった。それどころかまるで、私なんか要らないとでも言うような、そんな様子をして。

「総帥、私は」

一歩前に踏み出しかけた私の腕を、鬼道様が掴まれる。振り向けば鬼道様は痛ましい目をしながらも首を横に振って今の私の行動を咎めた。それにくしゃりと顔を歪めて、私はもう一度総帥の背中を仰ぐ。そして小さく口の中で、請うように総帥の名を呼んで。
…結局一度も振り返らないまま無機質なドアの向こうへ消えてしまった総帥に、私はまた小さく嗚咽をこぼして崩れ落ちた。




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