孤城の月に夢を見る



無機質な白い壁。
シミひとつない白いシーツ。
二度と目覚めない母にかけられた白い布。
扱いに困る子供を見つめる大人たちの白い目。

『____君が、××一香かね』

貴方だけだった。そんな薄情で寂しいものしか残らなかった私の世界の中で、私に手を差し出してくれた貴方だけが鮮明に色づいて見えた。





私はそのまま刑事だという鬼瓦さんに連れられて詳しい事情を尋ねられた。鬼道様はせめて決勝が終わるまでと言ってくださったし、鬼瓦さんもそれを了承してくれたものの、私自身がその申し出を断らせていただいた。こんな精神状態であの場に立ったとしても、私が役に立つことは無い。…それにもう、総帥が立たれない場所に居られるほど、私の心は強く無かったから。

「何か一つでも良い。影山に関することで何か覚えてることは無いのかね」
「…申し訳ありません。お答えすることが、できません」

必死にそう尋ねてくる警察の方々には申し訳ないと思っている。あちらも仕事なのだ、総帥のこれまでの余罪を洗い出すために最も近くに居たであろう私から情報を聞き出したいのに違いない。けれど私は何度聞かれてもその問いかけに拒絶を示した。私からは話せないし、話さない。

「私は総帥の命に二度も背きました。鉄骨の件を鬼道様にお伝えしたことでさえも、今は後悔しないことで精一杯なのです。…ですからどうか、ご容赦ください。これ以上私に、総帥のことを、裏切らせないでください…」

深々と頭を下げる。そうすればもう鬼瓦さんたちは何も言えないようだった。…だって、総帥が本当に私のことをもう必要としていなかったとしても、私にとってあの方は今でも絶対で唯一の存在なのだ。
あの方が居たから私はここに居る。
あの方の差し伸べてくださった手を私は選んだ。
たとえ、総帥が私の中身を利用するためだけに私という人間を選んだのだとしても。それでも、私を孤独から救い上げてくださったのは、この世界で総帥ただ一人だった。

「気が変わったら、いつでも連絡しなさい。…気を強く持つんだぞ、お嬢さん」
「ご心配、痛み入ります。…それでは、失礼しました」

警察署を出る前に一度、総帥へ面会していくかと尋ねられたものの私はそれを断った。…総帥はきっと私とはお会いにならない。たとえ面会が叶ったとしても、総帥が私にどのような目をお向けになられるのかを考えたら、もう駄目だった。
そして私はどうやら年齢がまだ未成年であったことと、総帥の行われた策略に深くは関わっていないということもあり、情状酌量の余地があるということで不問にされるらしい。…いっそ私も共に罰して欲しかった。総帥と同じ場所で同じ罪を被れたならばきっと、私の心はもっと楽になれたのだろうから。
そしてそんな私だから、もうこの場所に居座ることは出来ない。

「…辞める?」
「…はい、今回の一件を受けて、退部と共に帝国学園も自主退学しようと考えております」

帝国学園はどうやらあの後雷門中に惜敗し、地区優勝を譲る結果になってしまったらしい。学園に戻れば既に雷門中の皆さんは帰られた後で、私は心配そうなご様子の鬼道様とこちらを窺う他の方々に出迎えられた。そんな鬼道様に話があると告げて、会議室で私は退部届けを差し出す。しかし鬼道様は頑なにそれを受け取ろうとはなさらなかった。

「お前が何故辞める必要がある」
「私も総帥の指示に従い、何度か妨害活動への関与をしたことがあります。…私は裏で、皆様の誇りを傷つけるような行為を働いていたのです」

冬海のことしかり。私の手は決して綺麗ではない。皆様の手に比べれば、随分と薄汚れてしまった犯罪者の手だ。それに私はきっとこれから先、鬼道様のお側には居られなくなるのだろう。鬼道家の御当主様は彼なりに血の繋がらない息子を大切に思っていらっしゃる。だからこそ、私のような前科者もどきを鬼道様に近づけるとは思わない。

「私は総帥のお役にも立てなければ、鬼道様のお側にも居られません。…どうぞお受け取りください。私の居る場所は、もうここには在りません」
「…一香」

鬼道様が何と仰ろうと、私はこの意見を変えるつもりは無かった。全て本当のことだったからだ。私はこれ以上誰かの役に立つどころか、迷惑ばかりをかける疫病神として疎まれるのだろう。そうすればきっと、たとえ今この場所にいられたとしてもいつかは追い出される。今か、先か。それだけの話であるのだし、それなら私はいっそ初めから自ら孤独の道に身を投げよう。
…そう考えて再び退部届けを持つ手に力を込めた、そのときだった。

「ちょっと待てって!」
「お、おい佐久間!」
「あの馬鹿本当に行きやがった」

突然会議室の扉が開いたかと思えば、そこには猛然とした怒りを目に宿してこちらを睨みつけていらっしゃる佐久間様がいた。その背後にはどうやら今の話を聞いていたらしい他の皆様方も。
そして佐久間様は私を睨めつけたままこちらへ歩いてきたかと思えば、突然思い切り胸倉を掴む。その暴挙にただただ戸惑った。制服が首元を絞めて酷く苦しく、思わず顔を歪めて呻いた私を見て鬼道様が咎めるように佐久間様の名を呼ばれる。しかし佐久間様はそんな鬼道様のお言葉を聞かぬ振りでやり過ごし、私へ向けてもの凄い剣幕で怒鳴られた。

「さっきから聞いてればなんなんだ!!総帥が総帥が総帥が総帥が総帥が…お前にとってのサッカー部は、結局総帥だけなのか!?」

…息が苦しいのも忘れて思わず目を丸くする。そんなことを言われるとは、思っていなかった。むしろ佐久間様ならば「さっさと辞めてしまえ」と鼻で笑うのだろうと、そんなことさえ思っていたからなおさら。
しかしそんな私の考えなんて簡単に読み取られてしまったらしい佐久間様は、私を馬鹿にするように鼻で笑って嘲るように言葉を重ねた。

「良いよなお前は!俺たちのことなんて一切考えなくても辞めれば忘れられるもんな!?どうせお前にとって俺たちサッカー部は影山の付属品程度なんだろ!!」
「ち、が」
「違わないだろ!!」

まるで叫ぶように。まるで私を責め立てるかのように。佐久間様の怒号が胸に突き刺さって消えない。

「お前は俺たちのことなんて最初ッからどうでも良かったんだ!!」

…その言葉に湧き上がってきたのは、一体何だったのだろう。ただ腹の底からぐわりと湧き立ったそれは一瞬で私の理性を奪い、冷静な判断を狂わせた。思わず手にしていたバインダーを振りかぶって私は佐久間様の脳天目掛けて振り下ろす。痛ぇ!と声を上げられた佐久間様に対して私はそれでも辞めず、何度もバインダーを力任せに振り下ろした。しかし途中でそれは、鬼道様が私の手首を抑え、源田様が佐久間様を羽交い締めにしたことで止められてしまう。

「痛いだろうが!!」
「どう見てもお前が悪いだろ」

涙目でこちらを睨んでこられるものの、私は肩で息をしながらもこの激情に任せて佐久間様を睨み返した。それを見て何故かその場にいる皆様が揃って息を飲む。私はそれに構わず、言葉を振り絞って佐久間様に向けて口を開いた。

「…どうでも、よくなんて、ありません!!」

誰かが小さく声を上げた。私は、ぐちゃぐちゃで纏まらない思考を無理やり引っ掴んで、何とか言葉にしようと考える。
…どうでもいい訳が、無かった。どうでもいいならば私はきっとここまで苦しまない。何か一つだけを唯一にして、大事に出来たなら私はきっともっと幸せになれたのだ。
総帥のことだけを信じ、総帥の仰ることだけに耳を傾け、総帥に盲目的な心を抱いていられたなら私は悪党にさえなれた。…なれなかったのは、私の心を弱者に引き摺り落としたものがあったからなのに。

「総帥のことは関係無しに、私は私で、皆様のことを、大事に、してたつもりでッ…!」

嫌われても、遠ざけられても、疎まれても。
それでも私は皆様のサッカーが好きだった。最強の名を欲しいままにするくせに、驕ることなく高みを目指そうとするその姿勢に何度だって尊敬の念を抱いた。…それを知らないくせに、何度私が歩み寄ったって拒んでこられた佐久間様がよりにもよって私の在り方を否定したのだ。

「う、うぅ、あ」

そしてとうとう涙腺が決壊して、ぼろぼろと溢れ出した涙の重力に引きずられるようにして私もその場に蹲み込む。それに合わせるようにして同じく蹲み込んでくださった鬼道様は、私の手を取ったまま宥めるように背中を撫でた。
小さく嗚咽を溢して泣く。もう、何もかもが悲しくて、苦しくて仕方なかった。

「…ちゃんと言えるじゃないか」
「…」
「俺はそうやって、何でもないような振りするお前のすました顔が大嫌いなんだ!!」

佐久間様はそのまま源田様を振り切って出て行ってしまわれた。それを見て皆様が呆れたように息を吐かれた。何がどうなっているのか分からず呆然とするしか無い私に、鬼道様が苦笑いで口を開かれる。

「…佐久間も素直な奴じゃ無いんだ。嫌わないでやってくれ。あれでもお前が帰ってくるまで一番気にしていたのはあいつだ」
「…佐久間様、が」

本当だろうか。たしかに私が過呼吸を起こしたときも背中を撫でて落ち着かせてくださったのは佐久間様だった。…でも佐久間様は私のことがお嫌いだ。先ほども私のことを嫌いだと叫んで出ていかれたのに。

「俺たちみんなも同じ気持ちだ。誰もお前を責めない。誰もお前と影山を同一視はしない。…俺は、俺が知っているマネージャーの姿を信じたい」
「…源田様」

辺りを見渡す。こちらを窺う皆様のお顔は、誰一人私を睨みつけてはいらっしゃらなかった。まるで仕方がないと、手のかかる子供に向けるかのような優しい目が、私に向けられていて。それを目にして、何故だかまた胸が苦しくて私は嗚咽をこぼす。…どうしてこんなに、皆様はお優しいのだろう。

「…これは俺たちのわがままだ。だが、それでも俺たちは、お前にここにいて欲しい」

私は誰のお役にも立てないのに。ただ一人私を見つけて手を差し伸べてくださった総帥からの恩さえ手酷く裏切って、私の都合を優先させてしまうような自分勝手な人間なのに。
そして何よりもこうして今も皆様からの優しさを利用して、自分の居場所に手を伸ばそうとする。そんな最低で愚かなことしか出来ない人間が私であるというのに。
…それでも今、こうして差し伸べられた鬼道様の手を私は取るしかないのだ。
その優しさに漬け込んでしまわなければ、私はこの足で立つことさえままならない。

「…ありがとう、ございます」

また一つ、私は嘘を吐いた。
自ら失ってしまった居場所を嘆いて、新しい可能性に手を伸ばして縋りついて。そんな生き汚い私はきっと、誰かに肯定されていたかった。

(総帥、私は)

そしてそれは誰よりも、あの方に。
だって誰も私を必要としてはくれなかった。愛してはくれなかった。私を大事に育ててくれた優しく美しかった母が病で死に、一人ぼっちになった私に手を差し伸べてくれた大人は一人だっていない。皆、誰よりも大人に近い子供の私を気味悪がって、忌避して遠さげた。
そんな時、私を拾って居場所を与えてくださったのは総帥だけだったから。

「精一杯、皆様のお役に立てるよう努めます」

総帥は私を愛そうとはなされなかった。私を娘としながらも、その距離感は忠実に、そして残酷にも他人以上を許さない。
けれどそれでも良かった。たとえ伸ばしたこの手があの方には届かなくても。
たとえ笑うことも、憤ることも、泣くことも許されることなく、全てを廃して鬼道様にお仕えすることを求められたとしても。
それでも私の世界はいつだって、あの方だけが。私の世界に光を差し込んでくださった総帥だけが、私の希望で、唯一だった。
そしてそんなあの方を裏切ってここに居る私の本性を、醜い心を皆様が知れば、今度こそ私は全てを失うのに違いなかった。鬼道様だってきっと今度こそ私を手放される。…それだけは嫌だ。私はもう孤独な世界は欲しくない。
愛なんて要らない。この身も頭も何もかもを、いくらだって利用してくれて構わないから。役に立ってみせるから。今度こそ誰も裏切らず、忠実な人間になってみせるから。


きどうさますてないで


…もう私には、お優しい鬼道様の慈悲に縋るしかそれ以外に方法が無かった。





新しい居場所が欲しかった。
私を肯定し、愛してくれる人の側に居たかった。
そんな傲慢な考えがいけなかったのだろうか。他には何も要らないからと私の全てを犠牲にするつもりで願ったその望みが叶わなかったのは、所詮私が唯一の恩人を裏切った罪人であったからだろうか。
まるでそれは突然に、私に現実を突き付けるかのような残酷さをもって訪れた。…目の前には、グラウンド上で倒れ臥す帝国の皆様がいらっしゃる。

「…佐久間、様」

少しずつ歩み寄り、悪態を交えながらもたしかに心を開いてくださっていた彼は、地面に横たわったまま動かない。

「源田様」

いつだって私を気遣い励ましてくださった彼は、先程の強大なシュートを真正面からお受けになってから、仰向けのままやはり動かない。

「きどうさま」

そして私の隣に立たれる鬼道様は、私の呼びかけにお答えになられなかった。ただ目の前でたった今起きた惨劇を呆然と見つめているばかりのこの方に、私の言葉は届かない。
遠くで神と名乗った少年が嗤う。
天罰を下す天使のように美しく笑んだ。
その微笑みが、まるで私の不義理を嘲笑うかのような冷酷な色に染まっているのを見て。

(…嗚呼)

私は、このときようやく私という存在が不遜な願いを抱いても良いような高尚なものでは無いのだと思い知った。
心臓を抉るような痛みを伴う絶望を得て、ようやく理解することが出来たのだ。




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