神よ、私は救えない



全てが狂い出したのはフットボールフロンティア本戦で帝国学園が世宇子中という何の情報も無いチームに完全なる敗北を喫してからだった。鬼道様はそのとき、雷門中との決勝の際に痛めた足を慮られてベンチに居られていて。彼が動き出されたときには既に何もかもが手遅れだった。
誰もが帝国の勝利を疑おうとしなかった。
それは観客も、選手の皆様も、鬼道様も。…そして私自身だって。
しかし帝国は、世宇子中の圧倒的な力を持ってねじ伏せられた。重傷を負われて倒れ臥す皆様が運ばれていく姿が、目蓋の裏に焼きついて今も消えてくれない。重傷者は佐久間様と源田様のお二人。しかし幸いながら他の方々は重くても軽傷寄りの中傷で済んだし、お二人も決して致命傷では無いのだと言われた。

「鬼道様、あの」
「…すまない、少し一人にしてくれないか」

鬼道様は深く傷つかれ、私も遠ざけて一人塞ぎ込まれてしまった。選手では無い私にかけられる言葉は一つもなく、私はその言う通りに身を引くしかなくて。
そして私は自己判断ではあるのだが、せめて鬼道様のためになるのでは無いかと考えて世宇子中について調べてみることにした。幸い、私は総帥から情報収集のスキルを仕込んでいただいていたため、その手に関しては自信があった。…しかし、その自信とは裏腹に情報は少しだって見つからない。その上、私は気がついてしまった。

「…うそ」

情報の隠蔽具合が、やり方が、何もかも全てに既視感があって目眩がした。ガンガンと痛みと共に鳴る頭を抑えながら、私はいつのまにか震える手で刑事の鬼瓦さんに電話をかけていた。たっぷりと三コール鳴った後、向こう側で聞こえた返事に対して私は謝罪もそこそこに本題を切り出す。どうか、その予想が私の杞憂であることを願って。

「あの、つかぬことを、お聞きしたいの、ですが。そ、総帥、総帥は今、その、どうされて」
[…勘が良すぎるのも考えものだな、お嬢さん]

…総帥は、既に本選前には釈放されていたのだという。証拠不十分として囚われの身から解き放たれたのだとか。
ショックだった。しかしそれは、総帥が釈放されたことに対してでは無い。釈放された後、総帥が一度だってこのお部屋に戻られることの無かったという事実に愕然としたのだ。
私に文句を言う資格は無い。自分の感情を優先して総帥を裏切ったのは私だ。だからこそあの時、総帥は私の呼びかけに振り向かれなかった。もう既に証明されている。私は総帥に必要とされていない。要らない。お役に立てない。
…それでもまだ、私には鬼道様のお側という救いが残されていた。それなのに。

「…雷門中に、転校を…?」
「あぁ、俺は必ず世宇子中を倒してみせる」

鬼道様は帝国から離れる道をお選びになられた。たしかにあの時ベンチで見ていることしか出来なかったご自分を誰よりも責めていたことを、私は一番良く知っている。佐久間様たちの無念を晴らしたいとお考えになられるのも無理は無い。
けれど私はそれでも嫌だった。鬼道様が遠くへ行かれてしまえば、私はお側に居られない。どうせならば命令してでも私も共に雷門中へと誘って欲しかった。離れたくなかった。なのに。


「一香、俺が戻るまで帝国を頼む」


そう仰られたとき、私は何と言ってその言葉に返事を返したのだろうか。私が帝国から離れていく鬼道様に縋ることも出来ないまま、鬼道様は赤いマントを脱ぎ去られ、空のように青いマントを代わりに身に纏われてしまった。預けられた赤いマントを私はロッカーにしまい込んで、「大丈夫だ」と自らを叱る。
鬼道様は一時期雷門中に身を寄せるだけのこと。本当に帝国から、皆様から、私から離れていく訳では無い。いずれ帰ってくることを鬼道様は約束されたのだから。

「…大丈夫、だから」

鬼道様は置いていかない。決して私をお捨てにはならない。まだ私はお役に立てる。何より、私が必要だと仰ってくれたのは鬼道様自身なのだから。
…けれど、鬼道様を仲間として加えた雷門中が勝ち進み、鬼道様が少しずつ雷門中に溶け込んでいくにつれ、私の心は暗く澱んでいくのを感じた。
鬼道様の居場所はそこでは無いのにという醜い嫉妬と苦悩が心を焦がし、私の張りぼての余裕は一枚一枚丁寧に引き剥がされた。

「鬼道様たち雷門中の方々は、無事に木戸川清修中に勝利なされたようです」
「…そうか、それなら次はとうとう世宇子中か…」

鬼道様という存在が遠く離れた私は、その穴を埋めるように佐久間様たちの病室へと足を運んだ。今の帝国サッカー部は私にとっては眩し過ぎる。純粋な心で鬼道様の奮闘を応援される皆様とは違う醜い心を抱いた私は、あそこには居られない。
幸い、マネージャーである私がお二人のお見舞いに足繁く通うことに対しては違和感さえ抱かれることなく快く送り出された。
本日の見舞品である林檎を剥きながら、佐久間様が思わず漏らした一言に私は唇を噛み締める。

「鬼道は、雷門中で上手くやっているんだな…」

…そんな佐久間様たちのお顔に私は救われた。他の皆様方とは違い、言葉にはせずとも鬼道様のご活躍を見て「寂しい」と感じていらっしゃるお二人に、私は自分勝手に仲間意識を抱いてしまう。
そしてその度に、この心は墨で染まるかのように黒く沈んでいった。ドロドロとした名づけ難い感情の息苦しさに叫び、痛む心は傷を拡げて日毎に膿んでいく。
早く帰ってきて欲しい。
私を側に置いていて欲しい。
私の存在を認めて。
愛さなくても良いから、私に生きる価値を与えて。
そんな私のエゴばかりを詰めた願いを心臓の裏に秘めて、今日も帰らない貴方の帰りを待ち続ける。前よりもずっとご自分らしさを魅せるようになってしまった彼の人の、年相応の笑みを何度も脳裏に蘇らせながら。









「さびしい」









無音で私を認証した扉が音を立てて開いていく。私は中へと入り込み、背後で扉が閉まる音を聞いてからさらに奥へと歩み寄った。
前よりも随分と入り浸るようになってしまったこの部屋は、帰るべき本当の部屋の主を喪ったままがらんどうに成り果ててしまっている。私は静かに総帥の机へと歩み寄り、ホコリひとつさえ積もらない表面をそっと撫でた。…虚しくて仕方がない。
分かっているくせに。この机に座るべきあの方はもう二度とここにはお帰りにならない。いくらこの部屋を隅々まで掃除してしまったって、総帥はきっと惜しみすらなさらないのだろう。…それでも私はこの部屋から目を背けられなかった。
いつかまたあの方がここで、私に様々な指示をくださるのではないかと無謀な望みばかりを抱いてしまう。

「…どうして、私は、ここに居るの」

私の存在意義が分からない。鬼道様は私に帝国サッカー部をお任せになられたけれど、皆様は私が居なくてもご立派にやっていらっしゃる。むしろ私ばかりが気遣われて、皆様の重荷になってしまっているのは側から見ても明白だった。
しかも鬼道様はお帰りになる気配どころかまるで帝国という居場所を手放しかねない危うささえ感じ取れる今、私がこの場所に居続ける理由などあるのだろうか。
…そして、そのときだった。私しか入室を許さないはずの扉の入り口の開く音が背後で聞こえて、私は思わず反射的に振り向く。そこには特徴的な髪型をした少年が立っていた。モヒカン、とあれを世間一般ではそう言うのだろうか。

「へぇ、本当に顔だけは美人じゃねぇか」

そしてそんな少年は、どこか私を楽しそうに見つめてまるで蔑むように嗤った。明らかにこちらを馬鹿にしたような口調に対して、私はあくまで淡々と冷たく返事を返す。…何故、この少年はこの部屋のパスワードを知っていた。
今となっては私しか知らないはずの、秘密のパスワードを。

「…どちら様でしょうか。ここは関係者以外立ち入り禁止の場所です」
「その関係者サマだよ俺は」

少年は私の横を軽やかに通り過ぎ、よりにもよって総帥の座られていた椅子へと乱雑に腰を下ろした。思わず語気を荒くしてその行動を咎める。そこに座って良いのは、少なくともこの少年では無いのだから。

「お立ちください。そこは貴方の座るべき椅子じゃ無い」
「へぇ、じゃあ誰が相応しいんだよ」
「…それは、影山総帥ただお一人です」

少しだけたじろいでそう告げれば、少年はまるで可哀想な子供を見るかのような目を細め、口角を歪に上げて見せた。…そして次の瞬間、椅子を背後に蹴倒す勢いで立ち上がり、目にも止まらぬ速さで机の上に乗り上がったかと思えば私の胸倉を掴む。意表を突かれ、引き摺られるようにして机へと上半身を打ちつけた衝撃に思わず呻き声を漏らせば、彼は私の耳元で楽しげな嘲笑と共に残酷な言葉ばかりを吐き捨てた。

「惨めだなァ、その影山総帥サンはいつ帰ってくるんだよ。自分が手塩にかけて育てたチームを尽く放り捨てて別の計画を練るような奴だぜ?」
「何をッ…?」

ふと、そこで違和感を抱く。今、この少年は何と言った?自分が手塩にかけて育てたチームを「尽く」放り捨てて、と言いはしなかっただろうか。その言い方だとまるで、総帥が帝国を除いた他のチームですらこれから手放すかのような、そんな揶揄にさえ聞こえる。…そしてどうやら、私の予感は彼にとって想定どおりの答えであったらしい。少年は私の胸倉を手放したかと思えば愉快そうに、そしてわざとらしく両手を広げて自らの役目を告げてみせた。

「俺が影山サンからの使いだって言ったら、どうする?」

絶句した。けれどその代わりに納得もした。この部屋に入る為のパスワード。顔認証で自由な出入りを許されているのは私と鬼道様のお二人だが、鬼道様はこの部屋のパスワードをご存知では無い。私だけに告げられたその数字の羅列を、私以外にご存知なのはただ一人。…総帥ご自身だ。
そんな動揺することしか出来ない私を揺さぶるように、少年は仄暗く甘美な言葉で私を惑わさんと囁きかけるようにして嗤った。

「総帥はお前の力を欲しがってんだ。チチオヤ思いの一香チャンなら、聞き逃せない話だよなァ?」

…総帥が、私を、求めていらっしゃる。
それを聞いて心が期待に跳ねた。全てが終わってしまったあの日、私に背を向けて二度と振り返ることの無かった総帥の後ろ姿が脳裏を過ぎった。私は一度、あの方に不必要だと切り捨てられた。役立たずの烙印を押されて二度と私を見てはくださらなかった。
けれど今、そんなあの方が私の力を欲していらっしゃる。ならば今度こそ私は総帥のお役に立てるのだろうか。…けれどその代わりに過ぎったのは、やはりあの日雷門中側のフィールドに突き立った鉄骨の雨。
分かっている。総帥が行われてきたことは全て、世間に歓迎されることの無い犯罪行為ばかりだ。円堂さんという私にとっての光ですら躊躇いもなく奪おうとする。それが総帥のやり方。それがどうしても嫌で、奪われたくなくて、失いたくなくて。だから私はあの日、自分の中の葛藤を持って総帥のご意志に背いてしまったのだ。…けれど。

「真帝国学園が上手く行けば、どうやら何でも願いを叶えてくれるらしいぜ。…どうだ、悪い話じゃねぇだろ」

その言葉が止めだった。麻薬のように私の心を瞬く間に蝕んでみせたその言葉が、私の冷静な思考を狂わせる。
総帥のご期待に今度こそ応え、総帥のご計画なされる野望を叶えることが出来たならば、私は私の望む願いが果たされるというのだろうか。二度と叶わないと諦めた、とうに捨て置いてしまった心からの願いでさえ許されるというの。


「俺と一緒に来い、影山一香」


掴んではいけなかった。
突き放してしまうべきだった。
私が真に鬼道様や他の皆様方を思えば、私はそうして然るべきだったのだ。
…けれど私は悪魔の囁きのようなその誘いに、瞠目しながらも手を伸ばした。だってここに、もう既に私の居場所は無い。私を必要としてくれる方も、縋りたかった私の最後の砦でさえ、今は遠く離れてしまったのだから。
冷たい手で私の手を強く握り込んだ目の前の少年が楽しそうに嗤う。


「ようこそ、真帝国学園へ」


___これが正しい道だったのか、奈落への近道だったのか。今となっては分からない。けれど少なくともあのとき、崩れ落ちて失っていく私の平穏と幸福の何もかもに絶望していた私にとって。
たとえそれが破滅へと向かう愚かな選択であったとしても、唯一の救いに思えて仕方が無かったのだ。





既にその顔は記憶の中で朧げなくせに、私は今でもそのことを良く覚えている。私と母の二人だけで交わされた、二人だけの秘密の会話のやり取りを。私の頬を撫でた母の痩せ細った手指の儚さを。息の詰まるような胸の痛みを。絶望を。
私を諭すように、珍しく真面目な顔で私を見据えた母は私へ向けて口を開く。

『誰かに必要とされるような人間になりなさい』

それが、母が私に遺した最期の言葉だった。たった一人で私を産み落とし、育てた母は孤独な人だったからきっと、それは私への注告だったのだろう。
誰かの役に立てなければ、私という存在に価値は無いという。
だから私は必死に足掻いた。総帥のお役に立つことが出来れば、鬼道様を導くことが出来たなら、帝国サッカー部の勝利に貢献出来たなら。

『愛しているわ、一香』

___この世で最も私を慈しんでくれた母に、私は愛される価値はあったのだと。この世の全てに証明出来るような、そんな気がしたのだ。




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