憎悪が抉り穿つ心臓



資料塗れの部屋の真ん中で、私は一心不乱にキーボードを叩く。時折資料に目を通し、開き癖のついた本を捲って、その度に得た知識と情報をデータ上に並べ立てていった。そしてふと、耳に誰かの足音が聞こえて私は顔を上げる。そこには面倒そうな顔で入り口に寄りかかりこちらを見つめる不動様がいらっしゃった。

「おい、影山サンがお呼びだぜ」
「…かしこまりました」

どうやら彼は総帥からの言伝を運んでくださったらしい。お手数をおかけしたことをお詫びし、私は不動様の横を通り過ぎるようにして総帥のお部屋へと向かった。無機質で暗い、足元を仄かな光が照らすような廊下を歩む。場所が場所であるせいで息苦しさを感じたものの、私は小さく息を吐いてその苦しさを飲み込んだ。
真帝国学園とは、愛媛県の沖に潜伏する潜水艦の中に存在した。総帥の命により不動様が集められた各地の精鋭をして生まれたこのチームは、各々が自らの力に誇りを抱いていながら日の目を見ること無く落ちぶれてしまったという不遇な境遇を抱えた方ばかりが集められている。

『こいつらは負け犬の集まりってとこだ。あんたも含めた、な』

不動様はそう言って私のチーム入りを歓迎された。他の方々も明らかに選手では無い私に訝しげな目を向けたものの、総帥の意図であると不動様が仰ればその視線はすぐにかき消えた。
…そんな私とは実に一月ぶりの再会と相成ったはずの総帥は、私の顔を見ないままただ一言私へ命令を下される。

『お前が指揮を執れ』

私が総帥より任された仕事は真帝国学園チームを指揮し、いずれここへ辿り着くという雷門を撃破すること。雷門へ異様な執着を抱いていらっしゃる総帥は彼らを倒すことで、過去の敗北を払拭しようとしていらっしゃるのだろう。それを無感動に淡々と、他人事のように理解しながら私はただ黙って頭を下げた。
これは、私にとっての試練だ。総帥のご期待に今度こそ応えられるかと、総帥は私をお試しになられている。だからこそ私はこの命令を確実に遂行し、裏切りを挽回してみせなければならないのだ。
たとえそれが、鬼道様や円堂さんの居る雷門を破滅に追いやることだと分かっていても。

「!失礼致しました」
「…お前か」

部屋に戻る途中、廊下の角で危うくぶつかりかけた方の顔を見て私は即座に身を引いて頭を下げる。そこに居らっしゃったのは、佐久間様と源田様のお二人。前よりも随分顔立ちが荒んでしまわれたこのお二人もまた、不動様の勧誘によって再び総帥の軍下に下った真帝国学園の選手だった。そんな私を見て一瞥だけされてお二人は、何も言わずにその場を立ち去られる。

(…変わってしまわれた)

少し前までは確かに近づいていたはずの距離が前よりも深く絶望的に遠のいて、その間には修復しようの無い亀裂を生んでいた。佐久間様たちはもうきっと、私を仲間だとはお思いになられていない。源田様が私を気遣うように笑いかけてくださることも二度と無い。
けれど私はそれでも良いと思った。私だってお二人と同じだったから。今の私にとって、最も優先すべき人は総帥ただ一人。佐久間様たちと同郷だからという理由で馴れ合う暇も、必要性も感じられなかった。

「…不動様、あまり資料に触れていただきたく無いのですが」
「お前、こんなのばっか見てんのかよ。頭痛くなりそうだよなァ」
「勝利の為に出来ることならば幾らでも力を尽くす所存です。この身を賭けてでも、私はこのチームを勝利に導く義務があります」

総帥に与えられた部屋には、様々な戦術のデータが記された書類や本が所狭しと並べられていた。総帥曰く、練習から何までチームのことは全て私に一任してくださるらしく、私はその重責を担う為にありとあらゆる文献を読み漁り始めた。
今の私にはとにかく時間と情報が足りない。従来通りのままでは、指揮どころかまともな選手さえ育てられない最低のチームが出来上がる。総帥からチームを預けられた身として、それだけは何としても避けなければならない事態でもあった。

「…この身を賭けてでも、ねェ…。それはつまり、こんなことでもするのか、よッ!」
「…ッ!」

引き倒されて私の身体は地面に転がる。辛うじて後頭部は庇えたものの、下手くそな受け身のせいで強かに打ちつけた背中が鈍く痛んだ。苦悩の声を漏らして顔を上げれば、そこにはニヤニヤと楽しそうなお顔をして私の上に覆いかぶさる不動様がいらっしゃった。その手が、私の制服の隙間に潜り込んで腰のラインを指でなぞる。…それが何を意味しているのかを理解して私は思わず瞠目したものの、私は悲鳴を飲み込むかのように唇を噛み締め、耐えるように顔を逸らして目を閉じた。…拒めない。今総帥をお支えしていらっしゃるのは私でなく不動様だ。立場が違う。
それにこのチームの要である不動様に、私が逆らう訳にはいかない。

「…つまんねー女だなァ、一香チャンは。悲鳴一つ上げねェとか、淫乱かよ」
「…」
「人形みてェなやつ」

…何とでも仰れば良い。そんなこと私が一番良く分かっている。こうして帝国を見捨てて鬼道様のご指示ですら放り投げてこの場にいる私は、総帥の命令ならば幾らだって叶えようと足掻く人形に見えるのだろう。
けれど私にだって、意思はある。たとえ私が総帥にとって都合の良い駒であり、いつだって切り捨てられるような存在であったとしても、私はあの方のための人形であることを選んだのだから。

「おい、何をしている」

ふとそこで、どこか苛立ったような声が私たちの距離を裂き、少々乱暴な手が不動様の手を引き剥がした。思わず目を見開いてそちらに目を向ければ、そこにはお顔を苛立ちで染められた佐久間様がいらっしゃる。彼は私を一度チラリと一瞥し、不動様へ向けて咎めるように口を開かれた。

「慎め不動。こいつは総帥の所有物だ」
「…本気にすんなよ、揶揄っただけだろ。俺だってこんな色気の無い女なんて最初からお断りだ」

不動様はそんな佐久間様のお言葉に皮肉で返し、あっさりと上から退かれてそのまま部屋を出て行ってしまわれた。その後ろ姿を無感動に見つめている佐久間様を他所に私は即座に身を起こし、乱れている裾を直す。微かに震える指を隠すように掌の中に握り込んで佐久間様に知られないように一つ深呼吸をした。

「…申し訳ございません、佐久間様にお手数をおかけしまし、」
「勘違いをするな、俺は別にお前を助けた訳じゃ無い。不動が目障りだっただけだ」

私からの感謝の言葉を遮られた佐久間様の冷たい視線に、何故か少しだけ高揚していた心が急速に冷えていくのが分かる。…分かっていた。佐久間様は私のことなどどうでも良い。そして私もまた、お二方のことを仲間だとは見ていない。彼らは私にとって総帥に私の能力を示すための都合の良い駒だ。互いが互いを利用し合う関係性。それが今の私たちの虚しい距離感だった。

「…失礼しました」
「…」

佐久間様は黙られたまま部屋を出ていかれた。私も散らばった資料を拾い集めてまたパソコンに向き直る。まだ、仕事は何一つだって終わっては居ないのだ。選手データの管理や現在の雷門の動向、幾つにも分けて組み立てた作戦の立案などすることは山程ある。時間が惜しい。休んでいる暇は少しも無い。

「…ばかみたい」

だから私はこの瞳から溢れ落ちた一粒の滴を意図的に無視して、今日も痛む胸の意味を考えないように目を逸らす。





総帥が世宇子中を見限られて真帝国学園の総帥としてこちらにおいでになった頃、世の中ではエイリア学園なる組織が各地で破壊活動を行なっているらしい。そしてかくいうこの真帝国学園もそんなエイリア学園と一部手を組んでおり、その一環として選手の皆様には「エイリア石」というドーピング効果のある鉱石を身につけることを義務づけられていた。

「いかがでしょう、これが私の目指す究極の戦士、ハイソルジャーたちです」
「…素晴らしいですな、閣下」

総帥の口ばかりのお褒めの言葉を丸々と飲み込んでしまった吉良星二郎が満足そうに頷く。彼ご自慢の戦士とやらは総帥の後ろに控える私からもよく見えて、その悍ましいまでの強力なシュートの威力に私は舌を巻いた。

『吉良星二郎と会う。お前もついて来い』

今朝、淡々と一方的にそう告げられた総帥に連れられて私は静岡の富士山麓までやってきた。人気の無いそこに存在した、宇宙船のような円盤型の施設が悪趣味だと感じたことを覚えている。そして樹海のすぐ側にひっそりと佇む彼らのこの本拠地は、どうやら研究所でもあるらしい。
研究対象はもちろん、そのエイリア石を用いた宇宙人たちであるけれど。
しかし宇宙人と名乗るそんな彼らが、実は普通の人間とかわらな只人であることを知る人間はきっとそう多くは無い。吉良財閥の企みにより、この国や世界を掌握することを目的として育てられた子どもたちは皆、吉良星二郎の経営する孤児院の子どもなのだという。彼を父と慕い、盲目なまでに崇拝する子どもたちを見ていると何故か吐き気がして仕方が無かった。

「影山さんのご息女である彼女が上げてくださる選手データも役に立っていますよ」
「恐縮です」

頭を下げておく。私のデータとは、エイリア石を用いて日々練習を行う真帝国学園の選手たちの能力のパラメータをまとめたものだ。総帥は吉良星二郎の計画に賛同し、エイリア石を受け取る見返りとしてそのデータを提出している。その受け取りの担当は剣崎という男なのだが、私はあまりその男が好きでは無かった。人体実験を厭わない非倫理的な人間であり、たとえその対象が子どもであったとしても躊躇なんて欠片も見せない。今もどこか下卑た笑みを薄らと浮かべてこちらを見ていた。
そして総帥と吉良星二郎の会話が一通り済んだところで、その剣崎がタイミングを見計らったように前へと進み出る。にこやかな笑みを浮かべて総帥に頭を下げた。

「ところで本日は影山総帥にご提案がありまして」
「…何ですかな」
「影山さんのご息女はギフテッドとして現在総帥の元、活躍されていますが…その才能を更に伸ばしたくはありませんか?」

隠し切れていない欲をちらつかせた目が私を見据える。思わずゾッとしながらも私は総帥の手前、何でもないような振りで平静を保った。そんな私の様子を知ってか知らずか、剣崎はまるで謳うようにしてエイリア石の素晴らしい効能とやらを口にする。

「そもそもエイリア石は人間の運動神経を大幅に向上させ、常人には有り得ないような素晴らしい力を手に入れられる夢の鉱物です。しかし私はそれだけでなく、この石をさらに活用すれば脳波を活性化させて知能の飛躍的な成長が見られるのではないかと睨んでいます」

…けれど、その夢のような話には心惹かれた。私自身、自分の知能が普通とはかけ離れていることを知っている。詰めれば詰めるほどに潤沢になっていく知識が私の武器だ。名門である帝国学園でも既に高等部卒業が余裕なレベルまでの能力を示したおかげで授業も全て免除されていた。
しかしそれでも私は今以上の力が欲しい。総帥のお役に立つための頭脳があれば、私は今よりもずっと素晴らしい作戦を立てることも可能になる。

「単刀直入に言いますと、我々はご息女にもエイリア石を使用していただきたいのです」

だからそう言って剣崎が総帥を窺ったのを見て、私は期待した。総帥のお力になるための術を手に入れられるかもしれない。そうすれば今よりもずっとさらに、私は総帥に信頼していただけるかもしれないのかと考えたら心が踊った。
総帥は何も言われないまま、何故か軽く鼻で笑われたかと思うとゆっくりと口角をあげられる。そして口を開いて、淡々と無情にもそう言い放った。

「必要ありませんな。これに使うのは無駄でしかない」

…何を言われたのか、はじめは分からなかった。何度も何度も今の言葉を繰り返してようやくその意味を飲み込む。総帥は今、私には、無駄だと仰ったのか。

「これに使用しても時間と労力の無駄でしかありません。その素晴らしい石を、これに使用する価値は無い」

崩れ落ちなかったのが不思議だった。
泣き叫ばなかったのが奇跡だった。
それくらい今の言葉が衝撃的で、心をズタズタに引き裂いて哀れな私を嗤う。…無駄だと、仰られた。あの石を私に用いる価値は無いとハッキリ申し上げられた。それはつまり、総帥が私を戦力として見ていないのと同義では無いのだろうか。

「次の仕事だ」

本拠地へと帰還してから、総帥は私を部屋に呼び立てて二枚の書類を手渡した。そこに書かれていたのは、とある二つの技。かつて帝国で試用した際、あまりにも危険だと判断されて封じられてしまったはずの禁断の技。それを渡されて、総帥は選手に習得させるようにと命じられる。

「佐久間と源田に使わせろ。良いな」
「…承知、しました」

捨てられたくない。置いていかれたくない。必要とされていたい。もう二度と、あなたに振り向いてもらえないままだったあの日の惨めな思いを繰り返したく無かった。だから一も二もなく頷く。その技の危険性も、使用者への負担も何かもを理解していてなお、私は総帥のご意志に従うことを貫いた。
これが上手くいけば、成功すれば、そして雷門を倒すことができたなら。そうすれば今度こそ総帥は私を認めてくださる。総帥のお役に立てることを証明して、私は総帥のための駒になる。まだ盤上にさえ立たせてもらえていなかったらしい私にとってそれは、ある意味一つの希望だった。


「必ず、成功させてみせます」


もう、全てどうにでもなってしまえば良い。構うものか。いっそ私でさえも滅茶苦茶に壊れてしまったって本望だ。総帥に私の存在を認めていただけるのならば、私にとってそんな犠牲は安いものでしかない。
一礼して部屋を出て、私は自分の部屋を目指す。引き攣る胸の痛みを掻き消すように心臓の真上に爪を立てて、抉るように握り締めた。歯を食い縛って何処にも居ない誰かを睨めつける。

「強くならなきゃ」

弱者でしかない役立たずの愚か者を呪う。お前が強ければ、お前が総帥の期待に応えられる力を得ていれば私はこんな思いをしなかった。
強さが欲しい。何もかもが私の前にひれ伏し、全てがさじを投げ打って逃げ惑うようなそんな力が欲しくてたまらなくて。だってそうすればきっと総帥は私を頼ってくださる。これまで以上の信を置いてくださる。私は自分の不甲斐なさに呻くことも無いまま、生きることもできたに違いないから。
そんな理想論を脳裏に浮かべて、私は小さく喉の奥で嗤う。
無謀な希望だけに縋りながら、私はこの胸の内を憎悪が焼いていく音を聞いていたのだ。




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