幻影を穿て、真を暴けよA



次の日から監督の考えたらしい思惑は作動し始めた。早朝に呼び出されたという氷浦くんと岩戸くんは、明らかに雑用の域を超えている重労働に近い労働をさせられていた。
氷浦くんは、草花や建物問わず学校中の水撒き。
岩戸くんは、壁に無残にも描かれた落書きを消すための壁拭き。
岩戸くんがさせられている壁拭きの落書きなんて昨日までは無かったはずなのに、ここまであからさまな感じで突然現れるだろうか。何かの陰謀を感じるような気がする。

「少し手伝おうか?」
「いえ…一応、俺たちに割り当てられた仕事なので。円堂先輩も練習で大変でしょうし」

まぁ、たしかに。監督曰くあのくじ引きは、当たりの人だけ辛い特訓をサボれるという代物だったらしく、その言葉通りいつもより練習はハード。相変わらず守備主体の練習なものの、みんな毎日倒れるくらいにしごかれている。…そしておまけに私も、人の心配をしている場合じゃないのだ。何せ監督直々に命じられた「私だけのディフェンス技」を完成させなければならないのだから。

「…久しぶりに来たな…」

そんな私がやってきたのは鉄塔広場。かつて守と一緒に特訓してきた、今はもう誰も訪れない懐かしい場所。タイヤも放置していたせいかすっかり草臥れてしまっていて、それだけ時間の経過を感じさせてしまう。…守はきっと、もうここには来ていない。派遣された学校はここからじゃ遠いし、何より守のことだ。きっと既にあちらでも自分を磨く場所を見つけてしまっている。
少しだけ沈みかけた心を慌てて引き戻す。今は気にしている余裕は無い。みんなも試合に向けて頑張ってる。なら、私もそれ相応の努力をしなきゃ駄目だ。

「…ハァッ!!」

とりあえずタイヤを守のように向こう側へ押しやって、どれくらいの衝撃が来るのか試して見ることにする。私はキーパーじゃないから本当は手は使わないけど、少なくともこのタイヤを受け止めて踏ん張れるようにならないと次には進めない。
重いタイヤを精一杯の力で向こう側に押しやって、こちら側に戻ってきたタイヤの衝撃に備えるようにして構える。けれどやはり、勢いがついて戻ってきたタイヤは私の非力な体格じゃ受け止めることが出来ず思いっきり跳ね飛ばされてしまった。シンプルに痛い。

「…もう一回!」

腰を低く落として。
衝撃に耐えられないならそれを和らげるように受け止めれば。
お腹に力を入れないと。
踏ん張って、踏ん張れなくても踏ん張って。
…しかし、何度も繰り返したって身体は疲れるばかりで、タイヤを満足に止めることは出来ない。何十回目かのチャレンジもとうとう失敗し、私は地面の上に倒れ込むと、苛立ちのまま舌打ちをこぼした。

「くそったれ…」

あぁ、思わず汚い言葉が出てしまう。でも許して欲しい。あの監督の顔に直接言わないだけ私も気を遣っているのだ。何せあまりにも無謀過ぎる課題を突きつけられた。パワー系のディフェンス技を習得しろだなんてそんなの、絶対無理に決まっている。
だってこれまでだって努力をしてきた。少しでも筋力がつかないものかと足掻いて、もがいて。…そうして最後に分かったのは体質のせいだという何とも残酷な現実だったのだ。

「…男と女は、違うんだから」

小さい頃はさほど変わらなかった男子との体格差も、だんだん歳を重ねるほどにそれは無情にも開いていく。どれだけ努力したって、私は守みたいにゴールを守れないし、他の人たちみたいな強烈なシュートは打てない。私の使う技だって小手先のものばかりなのだ。私よりも上手く、私よりも速い選手が現れてしまえば、私に勝ち目は無い。

(稲森くんたちを、優勝に導きたいのに)

それが今の私の目標。勝利を目指し、かつての自由なサッカーを取り戻す為に戦っている伊那国イレブンの彼らを、私は何としてでも本戦まで進ませて優勝を掴ませたい。そうすれば、あの日。私の本当の気持ちに気づかせて、新しい一歩を踏み出すきっかけをくれた彼らに、恩返しができると思ったから。

「私は、どうすれば良いの」

呻くように暗い空を睨みつけて、私は悔しさに歯噛みした。それでも時間は止まってくれない。非力であるなら非力のまま、私はがむしゃらにプレーするしか無いのだ。





そして結局私は必殺技の片鱗も掴めないまま、とうとう美濃道三中との試合を迎えることになってしまった。一応監督には、まだ必殺技が完成していないことを伝えたものの、あの人はなぜかニコニコしたまま、さほど気にしていないような様子で「そうですか」と頷いただけだった。

「はいこれ、薫さんのユニフォーム!」
「ありがとう、つくしちゃん」

先代雷門イレブンと分ける為か、デザインの変わってしまったユニフォーム。しかし全体的に黄色いのは変わっていないそれを、私はつくしちゃんから受け取った。番号は13番。一之瀬くんと同じ番号だった。のりかちゃんと更衣室で着替えてからみんなと合流すると、みんなも既に着替え終わっていたらしく、誰もがやる気に満ち溢れている。

「よくお似合いですね」

そして実は今回から、このユニフォームにはとうとうスポンサーのロゴが入れられることになった。雷門中のスポンサーについてくださったアイランド観光の社長さんである島袋さんが、みんなのユニフォームを見てとても微笑ましげな顔をしている。
するとそこで、何故か控え室のロッカールームから退出していたつくしちゃんが帰ってきた。その声はやけに弾んでいる。

「さぁみなさん!他にもお知らせがありまーす!」

…お知らせ、とは何だろう。何か重要なことでもあるのだろうか。そう思って、つくしちゃんが示した先に目をやった。そしてそこに立っていた女子生徒を目にして、私は思わず目を見開く。
そこに立っていたのは、あの神門さんだった。

「神門杏奈ちゃん!今日から私と一緒にマネージャーをやってくれまーす!」
「ええええええ!?」
「じゃあ杏奈ちゃんから一言!」
「いや、別にそういうの…」
「はいどーぞっ!」

ふとそこで私と目が合った。しかし神門さんはそんな私から少しだけ気まずそうな顔で視線をパッと逸らし、つくしちゃんからの有無を言わせぬ声に諦めたような顔で口を開く。

「このサッカー部が雷門に相応しいかどうか、自分の目で確かめることにしただけ。それだけだから」

…いつものように表情は硬いものの、どうやら怒っているわけでも嫌味を言っているわけでも無いらしい。彼女は彼女なりに、このサッカー部と向き合おうとしている。あの取り巻きを侍らせて、冷たくサッカー部の排除を口にしていた頃の彼女を思えば劇的な進化だ。どんな心境の変化があったのだろうか。
しかしどうやら、私は神門さんに嫌われているらしい。まぁそれも仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。何せ私は、あの伝説の雷門イレブンから離反した裏切り者なのだから。

「円堂先輩?」
「…ううん、何でもないよ」

思考を切り替える。自分で撒いた種なのだ。どっちにしたって私自身がどうにかするしか無い。それにもう選手登録してもらった以上、私が雷門中サッカー部として試合に出ることはみんな知ってしまっているだろう。ならもう、後には引けないじゃないか。

「…円堂先輩、写真よろしいでしょうか」
「うん、お願い」

つくしちゃんから「初仕事だ」と渡されたカメラを持ってこちらへやってきた神門さんに写真を撮ってもらう。これは、選手の身分証明書になるイレブンライセンス用の写真になるらしい。会場のロッカーのカードキーにもなるものだ。紛失したらいけないやつ。

「…私じゃないみたい…」
「そうですか?何かカッコいい感じですけど」

さっそく出来上がったそのカードに映る私はやけに凛々しい顔つきをしていて、私からすればどこか強張っているようにしか見えない。しかもこれはこの後、プレイヤーズカード、通称プレカとして一般にも販売される。まさか私も売られる側に回るとは思わなかった。つくしちゃんは全選手のものをコンプリートしているらしい。

「かっこいいですよね〜」
「全っ然興味ない」
「えぇ〜!?薫さんは!?持ってないの!?」

いきなり話がこっちに飛んで思わず肩が跳ねる。頼むからその話題はこちらに振らないで欲しかったんだけどな。しかしどこか興味深そうにこちらへ目をやったみんなに思わずたじろぎながら、私は目を逸らして小さく答える。

「…持ってないよ」
「嘘だろ」
「嘘ですね!」
「嘘じゃないですか」

何で分かるんだ。そんなに断言しなくても。しかし嘘なのは大当たりであり、それが分かるや否やつくしちゃんからの期待の視線が痛かった為、私は正直に答える。

「……………二枚だけ持ってる」
「推し選手だね!誰のカード?」
「……い、言わない!」

つくしちゃんが不満そうな声を上げたものの、そんなの言えるわけが無いじゃないか。
私の机の引き出しの中に眠るたった二枚のカード。駅前で売っていたそれを、私は思わず反射的に買ってしまったのだ。一枚は、守のカード。そしてもう一枚は。

(…豪炎寺くん、の)

好きな人のカードをこっそりと、後生大事にしまい込んでいるだなんて、我ながら女々しい人間だと思った。