安寧の守り人




美濃道三中との試合を終え、無事に勝利を得た雷門中。学校でも初勝利はそこそこ話題になったらしく、今まで伊那国の全員に向けられていた少し厳しかった目が少しだけ柔らかくなったように思える。そんな中、昼休みになって自分の教室を訪れた人物を見て、海腹のりかは思わず目を見開くことになった。

「あの、のりかちゃん、ちょっと相談しても良いかな…?」

一大事である。少しだけ困ったような、躊躇うような表情で自分を手招きする薫の姿に、海腹は慌てて教室を出た。自分が彼女に相談するならまだしも、サッカー部としては大先輩である彼女からの相談ごと。きっとただ事では無いはずだ。固唾を飲みながらも、薫と一緒に並んで歩き、やがてたどり着いたのは空き教室。そこに二人して入り込み、それぞれ椅子に腰を下ろすと、薫はさっそくその「相談」とやらを打ち明け始めた。

「…実はね、あの…」
「…はい」
「…み、みんなのことを、名前で呼びたいんだけど、のりかちゃんはどう思う…?」

少しだけ恥ずかしそうに告げられたそれに、海腹は一瞬理解し損ねたものの、やがてその言葉の意味をしっかり把握し、とりあえずは笑顔で一つ頷いてみせた。

「喜ぶと思いますよ!」

特に、明日人が。薫を前々から先輩として慕う彼ならば、彼女が距離を縮めようとしてくれるというのは純粋に喜ぶのだろう。だがしかし、分からないのはその理由である。何故いきなりみんなの名前を呼びたがるのか。女子勢は同性だからと、あっさり名前呼びに移り変わったが、彼女は男子組に対しては苗字呼びを徹底していたはずだ。それだというのに何故。

「…私、ちょっといろいろ、自分で思うところがあって一度はサッカー部を辞めちゃったの」
「そういえば、そうでしたね」
「うん。…それで、何がいけなかったんだろうって考えて、私は、ちゃんとみんなのことを信頼しきれていなかったんだなぁって、思って」

そんなこと無いとは言えなかった。そう言い切ってみせるには、彼女との付き合いも浅すぎたし、何より彼女自身が否定してほしくなさそうに見えたのだ。きっと薫は彼女なりに過去を悔やんで、見返して、どうすれば次は同じ過ちを繰り返さないのだろうと考えたのだろう。そして本人なりに出した答えが、名前呼びだったらしい。

「私なりにみんなと距離を縮めて、今度は選手とマネージャーっていう間柄じゃなくて、選手同士としての絆を深めたいの。…そうすればきっと、少しでもみんなの心に寄り添えるような気がするから」

そう言って笑った彼女の出した答えに、海腹は満面の笑みで肯定してみせた。
そして放課後になり、練習前に昼間のことを提案してみれば、案の定明日人は飛び跳ねるように喜んだし他の面々も嫌な顔はしなかった。まだ慣れなさそうに呼ぶその辿々しさに、揶揄う素振りさえみせる後輩組に対して彼女も笑う。

「それなら、私もぜひ名前で」
「監督は監督のままでお願いしますね」

和気藹々とした雰囲気に突っ込んできた趙金雲に対してやんわりと、しかしはっきりと断ってみせた薫に、その場は楽しげな笑い声で溢れていた。





みんなへの呼び方を苗字から名前呼びに変えて見て、変化したことがいくつかある。一つ目はみんなとの距離感。前までも仲は良かったけれど、どうしても島で培っていたみんなの絆に私が割り入ることはできなかった。しかし名前呼びに変えて距離が縮まったことで、その微妙な疎外感も徐々に消えつつある。そしてもう一つは、そのおかげで自分の過去の話をみんなにきちんと話せたこと。私の一方的な憤りで退部届けを叩きつけた、あの自分勝手な行動を聞いて、それでもみんなは私を仲間として認めてくれた。それがとても幸運だということを噛み締めて、私は今いる場所を大事にしたいと改めて思う。

「…あの、円堂先輩」
「…?どうしたの、杏奈ちゃん」

そんなことを考えつつ、職員室から教室までの廊下を歩いていれば、途中で杏奈ちゃんに呼び止められた。少しだけ緊張したような顔をしながら私を見つめて、彼女は手にしていた一枚の紙を私に差し出す。…それは、私が前に達巳くんに手渡したはずの入部届けだった。

「…これは?」
「必要ありませんので、先輩にお返しします。こちらで処分しようか迷ったのですが、あなたに返した方が良いと思って」
「必要無いって…一度退部したんだから、入部届けは必須だよね」

それが規則でもあったはずだし、生徒会長である杏奈ちゃんがそれを知らないはずがない。だから彼女の言いたいことが分からず、思わず眉をしかめれば、杏奈ちゃんは僅かに躊躇いがちな様子になりながら口を開いた。

「…実は、先輩はまだサッカー部に在籍しているということになっていました」
「…え」
「夏未さんの手配で、退部という形ではなく、休部ということに」


『返さないでちょうだい』


部室の鍵を返しに行ったあの日、差し出したそれを受け取ることなく微笑んだ、夏未ちゃんのことを思い出す。もう二度とサッカーには関わらないと決めた私の決意のために、その鍵は、私が手放さなければならないものの一つだった。
退部届も受け取ってくれた。私の辞める理由も聞かないでくれた。そんな私の複雑な心にあえて触れない夏未ちゃんに、私は自分勝手な寂しさを感じながらも安堵して。…けれど、これはずるいよ夏未ちゃん。そんなの反則技だ。


『それは、貴女のものよ』


辞めさせる気なんて最初から無かった。それでもあのとき、精神的にも余裕が無かった私に逃げ道を用意してくれた夏未ちゃんは、優しいようでズル賢かった。
私がいつかこの場所に戻ることを信じて、たとえそのとき離れていようとも、私がまた何の憂いもなくみんなの元に帰れるようにと。そんなあるかも分からない可能性を、夏未ちゃんは疑うことなく信じていてくれたのだ。

「…円堂先輩」
「…ごめんね、ちょっと、なんか」

突然泣き出した私に、杏奈ちゃんは狼狽えながら声をかけてくれるけれど、あいにく私はそれに答える余裕が無かった。ただ、自分が情けなくて。夏未ちゃんに申し訳なくて。…でも、今すぐに、夏未ちゃんの声が聞きたくて仕方なかった。
「ありがとう」と「ごめんね」を、直接言いたかった。

「…あの、良ければ、夏未さんに連絡しましょうか」
「…良いの?」
「生徒会室であれば」

お願い、と頼んだ声は掠れていた。案内してくれる杏奈ちゃんの背中に続いて入った生徒会室、軽快な指使いで電話番号を押した杏奈ちゃんに手渡された固定電話の受話器を耳に当てる。しばらく続いたコールの間、私はまず最初に彼女に告げるべき言葉を探していた。
…何と、言えば良いのだろう。どうやって夏未ちゃんに声をかけようか。私の中に、夏未ちゃんへ手向けられる言葉は存在するのかさえ分からないから、ただただ言葉が詰まる。…それでも。

[はい、もしもし]
「…夏未ちゃん」
[!]

サッカー部で一緒にマネージャーをしたのは半年も無かった。仲良くなったのも二年になってからで。それでも、短くても、私たちの間で生まれた絆や思い出は私の中で消えない宝物になっている。
それを最初に手放そうと振り払って背を向けたのは私だ。だから夏未ちゃんは、そんな私に愛想を尽かしてしまえる権利がある。…けれど、彼女はそんなことしなかった。私が戻ることだけを信じていてくれたから、私は。


「待っていてくれてありがとう、夏未ちゃん」
[…待たせ過ぎよ、貴女]


涙混じりの声で絞り出したその言葉を、夏未ちゃんは優しい微笑みと共に受け取ってくれた。その微笑みも声音も、前と変わらない、夏未ちゃんそのままのものだったから。
それが嬉しくて、何だか愛おしくて。私は思わず泣きながら声を上げて笑ってしまった。

[聞いたわ、貴女よりにもよって選手として復帰したんですってね]
「…びっくりした?」
[驚いたわよ。秋も選手一覧に貴女の名前を見たってわざわざ連絡をくれたの]
「…秋ちゃんが」

そしてその日の夜に私は、改めて夏未ちゃんに連絡し直して、今までのことを語り合った。私がサッカー部から離脱した後、他のみんなは強化選手として各校へ散っていったし、夏未ちゃんは海外へサッカーの調査に飛んでしまっていたから、私も彼女もお互いの近況の詳しいことまでは知らない。
夏未ちゃんは今、海外で外国のサッカーのレベルを調査しているらしい。それを聞いて、あの惨敗したスペイン戦を思い出しかけたけれど、私は何とかそれを振り切った。…あまり思い出したくないな、あれは。

[他のみんなも、貴女を心配していたわよ。試合のときも心配してたみたい]
「そっか」
[…薫、貴女、円堂くんとは連絡を取った?]
「……取ってない」

というより、今私が連絡を取れているのは壁山くんと夏未ちゃんくらいだ。他のみんなに関しては、まだ気まずくてメールの一つすら送れていなかったりする。その代わりに増えたのは、今のサッカー部のみんなとの連絡の履歴。まるで昔の思い出を奥底に押し込めるようにして、私はみんなからまだ目を背けている。意気地なしだな、本当に。

「少なくとも、まだ、今は誰とも話す資格は無いと思ってる」
[…誰も貴女を怒ってないわよ]
「うん、壁山くんも言ってた。…でも」

今、まだこのままでみんなと顔は合わせられない。変化するための一歩を踏み出したばかりの未熟な自分のままじゃ、みんなに謝る言葉すら見つからないの。
だから私はちゃんと、今より胸を張れるようになった自分でみんなに会いたい。受け入れることができなかった現実から逃げることしかできなかった自分を捨てて、強い自分になれたそのときこそ、私は。

「ちゃんと変われてから、みんなに会いたい」
[…貴女がそう決めたのなら、私はもう何も言わないわ]

夏未ちゃんはそう言って、やっぱり私の意思を尊重してくれた。