運命にはまだ早い




騒がしいスタジアム前の人混みの中を、私は帽子のツバを軽く下げながら下を向いて真っ直ぐに入り口を目指す。あちこちに見える企業の宣伝看板やテレビ局が、今の中学サッカー界の賑わいを証明していた。

[実は、俺のスパイクが壊れてしまったんです!予備なんて持ってないし、買いに行く余裕も無いし、頼れるのはもう円堂先輩だけで!!]

稲森くんからの悲痛な要望はつまり、スパイクの予備の当てはないか、ということらしい。…しかも残念ながら、私の身長と稲森くんの身長は同じくらいだから、きっと私のスパイクなら履けるはずだった。
嫌なら断れば良いと思う。けれど、ここまで関わっておいて、土壇場で突き放すなんて私にはもう出来ない。…サッカーをしろとか、サッカーに関われと言われている訳じゃないんだ。私はただ、スパイクを届けるだけ。…それだけだから。

「あっ!円堂先輩!!」
「おい来たぞ明日人!」

稲森くんの付き添いらしい伊那国イレブンのうち、氷浦くんと万作くんが私の姿を見つけて大きく手を振っている。あまり人混みの中で名前を呼んで欲しくは無いんだけどな。ほら、今も「円堂」の名前に反応して辺りを見渡している人がチラホラいるし。

「声が!大きい!!」
「す、すみません…」

一応注意しつつ、稲森くんにスパイクの入った袋を手渡せば途端に安堵したように彼は笑った。これで試合に間に合うとはしゃぐ彼らを見つつ、私は腕時計に目を落とした。帰りの電車は、今すぐここを出れば歩いても間に合うだろう。

「えっ!?先輩帰っちゃうんですか!?」
「うん、もう用事終わっちゃったし」
「せっかくだから、俺たちの試合を見ていけば良いじゃないですか」
「…それは」

正直、ここに長居さえしたくないのだ。彼らの相手である星章学園にはたしか鬼道くんが派遣されていたはずだし、その実力から偵察に来る人たちも少なくはない。
…そして、その中にきっとみんなも居るだろう。そんなみんなに、私はいったいどんな顔を合わせれば良いと言うんだ。

「えぇー!!見て行ってくださいよ!俺たちの勇姿を!その目で!!」
「テレビ中継してるでしょ…」
「先輩絶対見ない!!」

うん、よく分かったね。見ないよ。最近はテレビや雑誌でも少年サッカー特集なんかやってるみたいだけど、私はそれらを視界に入るたびに即目を逸らすくらい拗らせてるんだから。
見る、見ない、見る、見ないのしょうもないやり取りを繰り返し、稲森くんはもどかしそうに言葉をぶった切って口を開く。

「どうして先輩はサッカーをそんなに拒むんですか!?」
「…サッカーが嫌いだからだよ」

私が守りたかった日常をいとも容易く壊して奪っていったサッカーを、私は今も許すことができない。今もきっとみんなで笑ってサッカーをしていたであろう幻想じみた未来を、私は心の底で渇望していたから。
サッカーが憎い。もしも人の形を取っていたならば、ぐちゃぐちゃな感情の全てを込めて叩き潰したくなるくらいには、私はサッカーの全てに失望し、憤っていた。…でも。

「それは嘘です!」

でも、それでも。

「円堂先輩は!今もサッカーが好きです!!見ていれば分かります!!」

…どうして君はそんなに、眩しいんだろうね。
かつて私が信じて、盲目的に愛を捧げた最愛の片割れをどうしても思い出す。離れてしまった日々は嫌でも、私が守の居ない世界でだって生きていけてしまえることを証明してしまった。私たちは所詮この世界では替えのきく歯車でしかなくて、私が欠けたって、守が欠けたってこの世界は規則正しく回っている。
そしてそんな残酷な真実を知ってなお、こうして私は生きていた。それが何だかずっと、虚しくてたまらなくて。

「…勘違いだよ」
「じゃあどうして先輩は俺たちに『頑張れ』って言ってくれたんですか!」
「!」

…思わず黙り込んだ。だってそれは、言い訳のしようが無いことだったから。
嫌いなら、そんな優しい言葉なんてかけなきゃ良かった。どうでも良かったなら、徹底的に無視して突き放して、「負けてしまえばいい」と吐き捨ててやれば良い。…でも、そんなのたとえ演技だったって私には出来ない。
弱くたって、馬鹿にされたって足掻いてもがいてやってきた苦しみも憤りも、私は知っていたのだから。

「俺たちのサッカーを見てください!俺…俺たちのこと馬鹿にしないで『頑張れ』って言ってくれた先輩に見ていて欲しいんです!!」

…違う、馬鹿にしなかったのは、そうすることで過去の私を守りたかったから。
かつては弱小だと馬鹿にされていたみんながいつか、花開く時が来るのだと信じて疑わず一緒に走り続けていた私は、たとえその終わりが離別であったとしても、決して間違ってはいなかったのだと信じていたかった。

「お願いします!円堂先輩!!」

…その目をしないで欲しい。誰も彼をも信じるようなその目は、私がかつて自分勝手に突き放して切り捨ててしまったものなのだ。
…でも、だからこそ。
守とよく似た心を持つ彼を、私は二度も切り捨てられなかった。

「…見るだけ、だから」
「!先輩!!」
「サッカーを嫌いなことは否定しない。…でも、君たちの勇姿は見届ける。…それで良い?」
「はい!」

時間だからと駆けていく嬉しそうな三人に手を振りながら、応援席を目指す。…仕方ない、ここは私が折れてしまおう。こんな人混みの中で知り合いに会うわけもないし、見かけたら逃げてしまえばいい。そう思って、顔を上げた。
…そして、見かけてしまったドレッドヘアに、ヒュッと喉奥で小さな音が鳴る。

「…きどう、くん」

どうして、だって、星章は、鬼道くんたちは今から稲森くんたちと試合のはずだ。だからよりにもよって、彼がいるわけが無い。
鬼道くんは制服姿のまま、どうやら観覧する席を探しているようだった。…帝国でも雷門のものでも無いブレザー姿に、痛み切った古傷だらけの心が痛む。
雷門中でない鬼道くんを見て、静かな絶望が蘇った。…そうだ、もう鬼道くんは、みんなは、雷門中サッカー部じゃない。

「…っ!」

踵を返す。ここに居ればきっと、鬼道くんに見つかる。…そうなった時、冷静に話ができる自信が私には無かった。
話に耳を傾けることも無いまま、衝動的にみんなを振り払って背を向けた私を、みんなはきっと許さない。仲間だったのに、と責め立てられるかもしれない当然の罪を私は受け入れられなかった。…だから。

「…薫!」

背後から鬼道くんの声が聞こえて、私は即座に駆け出した。…そんなことしたら、声をかけられたのが私だと認めてしまっているようなものなのに。
人混みを掻き分けて、何度も必死に私の名前を呼ぶ鬼道くんから逃げた。…ごめんね、鬼道くん。
私はサッカー部から逃げたくせに、サッカーとは関わらないと決めたくせに、稲森くんたちを拒めない。
何もかもが中途半端でどうしようもない私は、今君に、君たちに合わせる顔なんて一つも持ってないんだよ。

「っ!?だれ!?」
「シッ」

突然、通路の途中にある物陰に引っ張り込まれたかと思えば、まるで子供を諭すような穏やかな口ぶりで人差し指を口元に添えられる。静かに、と無機質な目で微笑んだその顔に、私は見覚えがあった。思わず呆然とする私を、これまたやはり見覚えのある大きな男の子の背後に押し込んで、彼は知らん顔で追いついた鬼道くんを窺っている。

「…行ったみたいですよ」
「…ありがとう」

鬼道くんはしばらく辺りを見渡して私を探していたようだったけど、やがて諦めたのか悔しげな顔で歯噛みして戻っていった。
物陰から出て、微笑む彼とその側に控える大きな男の子に向けてお礼を言ってから、私は自分の中で出した正解を確かめる。

「…野坂くんと、西蔭くんで良いんだっけ」
「あれ、ご存知でしたか」

王帝月ノ宮中サッカー部の中心人物にして、昨今話題を呼んでいる「アレスの天秤計画」の被験者でもある彼らを、私は一方的に知っていた。