愚か者よ、恋を贖え





「ところで、貴女は何故ここに?」

…それは、あまりにも唐突すぎる質問だった。ちょうど八点目を決められて差が七点に開いた直後、野坂くんは私を見ないまま薄い笑みを浮かべてそんな言葉を言い放つ。私はそれに対して、なるべく平穏を装いながらここに訪れた元々の理由であるスパイクの件を答えた。…急に、何を聞きたいのだろう。

「へぇ、元はマネージャーだったのにスパイクを持ってるんですね。じゃあ今もサッカーを?」
「…してないよ。サッカーは、嫌いだから」
「ではどうして今もスパイクを所持してるんです?」

…その質問に、私は答えられなかった。ただ真っ直ぐ、まるで逃げ道を探すようにして元のポジションに戻っていく稲森くんたちを見つめ続ける。そんなこと、私の方がよっぽど知りたかった。
ボールも、雑誌も、ノートも、スパイクも、仕舞い込むことしか出来なかった私が、どうして捨てるという確実な選択肢を取れなかったのかなんて、そんなこと。
…そうだ、嫌いなら、捨てて仕舞えば良かったんだ。勿体無いからなんていう言い訳が使えないほど、それはもうボロボロになってしまっているのだから。明らかにどう見たって「使い込まれた」それは、私が嘘で塗り潰した本音を表してしまっている。
…そうだ、私は結局、口でサッカーへの憎悪を語っていながら、サッカーを捨てられなかった。

「…円堂さん?」

思わず歯噛みして黙り込む私に、訝しげな声音で野坂くんが声をかける。何か、答えなきゃ。彼らに不審に思われない理由を、サッカーを嫌いだと言える理由を。あのスパイクはそのまま稲森くんにあげてしまえばいい。どうせ私は、もう二度と履くことはないのだから。けれど、言葉は一つだって見つからなくて、私はたまらず席を立つ。
…もう、帰ったって良いはずだ。少なくとも前半は見守った。後半はあと少し残っているけれど、稲森くんたちだって最後まで見ろとは言ってない。それにこれ以上、ここに居ると惨めな気分になりそうだった。
野坂くんたちからの無言の視線を感じつつも黙殺して、踵を返そうとする。…そしてあの言葉が聞こえたのは、そんな時だった。


「あきらめなければ、必ずチャンスは来る!!」


微かだったけれど、たしかにその稲森くんの声が聞こえた瞬間に、私は大きく目を見開いた。振り向けば雷門中のベンチ、遠くから見ても彼の目は必死で、それでも勝利を最後まで信じた光に満ちている。…どうして、君の目は死んでいないの。そしてみんなも、どうしてまだ立ち上がろうとするの。
点差は絶望的。残り時間もあと僅か。相手はランキング一位の強豪で、スポンサーさえついていない君たちを応援する人間はゼロに等しい。
…そんな非情な現実の中で、彼らはひたすらに前を見据えて食らいついて、最後まで勝利に手を伸ばしている。

嗚呼、そんなのまるで、私がずっとずっと大好きだった、かつての雷門中のみんなみたいじゃないか。

試合終了のホイッスルが鳴る。点差は一対十の九点差という圧倒的な結果。星章学園の勝利だけを祝う会場中の熱狂的な歓声をぼんやりと耳にしながら、ただ私は突っ立って黙ったまま見つめ続けていた。そこにスッと差し出されたハンカチに、私は思わず戸惑う。いつのまにか真横には、訝しげな顔で私にハンカチを差し出す野坂くんが居た。

「…どうしましたか?」
「どうした、って、なにが」
「…気づいていないんですか?」

さっきから、泣いていますよ。
…そう言われて初めて私は、ようやく思い出したかのように瞬きをした。その拍子にこぼれ落ちた涙が幾筋かの痕を残して頬を伝う。…涙をこぼしているのだと認識した途端に、それはまるで止まることだけを忘れてしまったかのように溢れ出した。思わずこぼれかけた嗚咽を、口元を両手で押さえるように飲み込んで、ずるりとその場にへたり込む。
…あぁ、馬鹿だな私は。やっとようやく、こんなところで気づいてしまった。


『円堂先輩は!今もサッカーが好きです!!見ていれば分かります!!』


…あぁ、そうだよ稲森くん。認めるよ。苦しみから逃れたいばっかりに吐いた嘘を本当にしたくて足掻いていた日々こそを、私は今こそ否定する。
どうにも守と似過ぎている君が、私の嘘で固めた本音を引き摺り出してしまったから、私は目を背けることが出来なくなってしまったじゃないか。

「…すき、だよ」
「…?」
「サッカーを、嫌いになんて、なれなかった」

それは、私から全てを奪ったもの。愛おしい日常の全てを壊して、崩して、ゴミ屑のように引き裂かれた絶望だけを私に残した。
それは、私の全てを与えたもの。最初は守のために、けれどだんだんとそれは、私自身が何よりも大切にしたい宝物になってくれた。仲間も、夢も、希望も。…私の、好きな人だって。


『…話がしたい、俺も、みんなも』


…ごうえんじくん。
ごうえんじくん。ごうえんじくん。
ごめんなさい、いっぱい酷いこと言ってごめんなさい。サッカーを好きにならなきゃ良かったなんて、嘘だった。サッカーを好きになったからこそ出会えたものの価値の尊さに、私は気づいていなかったから。君が居なくなって初めて、私は随分と君に助けられていたことに気づいたよ。
朝、学校に行っても君は居なくて。
移動教室で私を待ってくれているのは友人たちになった。
君の「おはよう」の声も「また明日」の声も聞こえない日々で静かに絶望して、そしてようやく私は気づけてしまった。…気づいてしまった。

私は、豪炎寺くんのことが、好きなんだ。

「…が、したい」

…でも、気づくにはきっと遅すぎた。ずっと綺麗な友情だと思っていたこの心が彼に対する恋心だと気づいた頃には、私はどうにも彼を傷つけすぎていて、謝るための顔も言葉も勇気も失われていて。
だからさらに、自業自得を正当化して私はサッカーを遠ざけた。思い出さないように。私がしてしまったことを、あの日閉まるドアの向こう側で傷ついたような顔をした豪炎寺くんの顔を記憶の底に押しやって。

「サッカーが、したい」

だけどもうこれ以上、嘘をつきたくなかった。だって稲森くんたちはあんなに真っ直ぐ、サッカーをしているじゃないか。
降りかかった試練を恐れて顔を背けた私なんかと違って、ガムシャラにここまでたどり着いた彼らが、伊那国イレブンが、私は眩しくて仕方ない。
そう思ったら最後、その光をもっと近くで見ていたいと思った。サッカーを心から愛する彼らが高みに行ける手伝いを、したいとさえ思う。…でも、それが私に許されるだろうか。
激戦を戦い抜いたかつての仲間たちから一人離れた裏切り者が、そんな身分不相応な願いを抱えてしまっても、良いのだろうか。

「それなら、すれば良いのでは?」
「…のさか、くん…?」

腕に顔を押し当てて泣く私の顔を、半ば無理やりに上げさせた野坂くんは、ハンカチを私の手に持たせてから静かに微笑んだ。

「僕も貴女のサッカーに興味はありますし…何より面白そうですから」

…下手に慰められるよりもよっぽど、そんな答えの方が遥かに私の心を軽くした。それにしても興味、面白いときたか。こんな、選手経験も無い少しボールが蹴られるだけの女なんかに。

「…ありがとう、野坂くん。西蔭くん」
「西蔭もですか?」
「ふふ、だってさっきから、後ろ手にハンカチ握ってるし」
「!い、いえ、これは…!」

狼狽える西蔭くんに少しだけ笑みをこぼして、私は立ち上がる。ハンカチは、もう少しだけ借りておこう。返すのは次で良い。
私が勇気を出して一歩進めたその先で、再会することができた、その時に。

「じゃあ、またね」

返事もろくに聞かず、私は無人の観客席を飛び出した。向かう先は、選手たちが出てくるであろうゲート。…そしてそんな一般人用のフロアと区切るための柵の向こう側に、私は趙金雲監督を見つけた。思わず名前を呼び止めれば、監督はあの胡散臭さを潜ませて、何やら意味深な笑みを浮かべて私と向き直る。

「おーや、どうしましたかね?」
「私」

言え、言うんだ。覚悟は決めたでしょう。たとえ雷門中のみんなに許されなくても、それでもまたサッカーをしたいと願った私は、もう二度と嘘をつかないって決めたはずだ。
野坂くんに借りたハンカチを握りしめる。…ごめんね、今日はずっと助けられてばっかりだけど、もう一度今だけ、勇気が欲しいから。

「私は、サッカーが、好きです」

吐き出すように言葉を絞り出した。きっと今、泣いてしまったせいで私の目は赤いし、緊張のせいで手足は震えてしまっている。今更か、と笑われてしまうかもしれない可能性だって臆病な私は恐ろしくて仕方がない。
だけどそれでも、皮肉なことに私の心は本当の願いを叫んでやまないのだから。


「私も、稲森くんたちと一緒にサッカーがしたいです」


私にサッカーへの想いを自覚させてくれた彼らと一緒に、私は頂上を目指してみたい。そしてそれはベンチや、応援席なんかではなく。
共に肩を並べてピッチを見据えられる、フィールドの上で。
私の情け無い決意を、監督は深く頷いて飲み込んで、そして次に浮かべたのはあの胡散臭い笑みだった。やっと素直になりましたねぇ、などと冗談めかした言葉を口にした彼は、しかし次にはカンフーらしきポーズを交えて私に向けて口を開く。

「ようこそ、新生雷門中サッカー部へ」
「…はい」

もう、私は逃げないんだ。好きなものを好きと、胸を張って心の底から言えるように。
そしていつか謝りたい。私が犯した間違いの先で傷つけてしまった人たちに、たとえ許されなくたって良いから。
…そんな風にして、私が誰にだって誇れるような人間になれたなら。
その時こそ、この手遅れすぎた恋心だって、報われてくれるような気がするんだ。