爪先にスタートライン




サッカー部にプレイヤーとして再入部するにあたって、私はまずお母さんに頭を下げた。勉強も今の成績を落とさず頑張ること、家の手伝いだってしっかりすることを条件にして、サッカーをさせて欲しいと頼み込む。…お母さんは、そんな私を見つめていたかと思えば仕方なさそうにため息をついた。

『…顔を上げなさい、薫』
『お母さん』
『好きにしなさい。…前みたいに死んだような顔で勉強されるよりも、お母さんはずっとマシだわ』

…たくさん、心配をかけただろう。ある日突然守と仲違いでもしたかのように会話すら止めて、目すら合わせなくなった私のことをどうしたら良いのかも分からず、随分と手を焼かせたのだろう。
成績が上がったって、そこに私の喜びは無かった。免罪符のようにして机に向き合い続け、時々帰ってくる守とは短な会話しかしなかった。

『守と喧嘩でもしたんでしょうけど、ちゃんと仲直りしなさいよ』
『…うん』

お母さんは、とても優しい。間違え過ぎた私のような愚かな娘が、それでもちゃんと前を向けるまで待っていてくれた。
お母さんがこれから先、サッカーを好きになることはきっと無いのかもしれない。それでも私までサッカーをすることを許してくれたお母さんに対して、私は恥じないような試合がしたかった。

「おはようございます円堂先輩!一番乗りじゃないですか!!」
「おはよう、稲森くん。これでも早起きは得意なんだ」

私の朝は早い。つい最近までは六時起きにしてあったのだけれど、道成くんに話を聞けば新生サッカー部はどうやら朝練を行うらしいので時間を一時間早くずらした。
六時に家を出れば、たどり着くのは二十分。集合時間は六時五十分だから、その三十分間は個人練習を行う。私はチームの中でも特にカンを取り戻さなきゃいけないので、人一倍練習する必要があった。

「のりかちゃん!」
「ナイスパスです!」

とりあえずは初日ということで、私は同じ女子選手であるのりかちゃんと組むことにした。この前までは呼び方も「海腹さん」だったのだが、チームメイトになったからには距離を取るわけにはいかないと許可を取って名前呼びに変えさせてもらっている。つくしちゃんも同様だ。
遠くでは登校中らしい生徒会メンバーが何やらヒソヒソしているが、気にしている暇は無い。口だけの人間に何かを言う資格は無いのだ。

「稲森くん今日は調子良いね」
「え、そうですか?」

休憩中にふと、稲森くんが今日は楽しそうに練習に励んでいたことを思い出してそう声をかけてみる。稲森くんは思い当たる節が無かったのかキョトンとした様子だったが、道成くんは私の言葉に思い至ることがあったのか一つ頷いて微笑んだ。

「たしかに。明日人、いつもより飛ばしてるな」
「はい!本当にサッカーを取り戻したんだなって」
「ああ、そうだな。俺たちのサッカーを」

氷浦くんが頷くのを目にしながら、そういえば彼らがスポンサー制度のせいで島のサッカー部を廃部に追いやられたと聞いたことを思い出す。サッカーを続けたくて雷門中に転入したことも。それならばなおさら、今のこの状況は彼らにとって感慨深いのかもしれない。

「自分たちのペースでしっかりやっていくぞ」
「はい!」

道成くんのしっかりとした声に、思わず笑みが溢れる。道成くんは、守とは違うタイプのキャプテンだ。守がチームの先頭に立ってみんなを引っ張っていくタイプだとすれば、道成くんはみんなを後ろから追いかけて支えていくタイプ。なんだか新鮮な気持ちになった。





まぁ、そんな何とも新鮮で新生な雷門中サッカー部。前の部員たちと同じくらいかそれ以上に個性豊かなメンバーが揃っていて何とも賑やかだ。前より随分と後輩が増えた上に、同級生がマネージャー含めて全部で三人となかなかアンバランスなチームだけれど、この様子なら上手くやっていけるかもしれない。…あとは監督の方さえどうにかなればの話だけどね。

「ほーっほほほほ」

何故かゴールの上で無駄にキレの良いクンフーのポーズを決めている趙金雲監督。今まで絶対居なかったはずなんだけど、この人今どこから姿を表したんだろ。しかしそんな監督、わざわざ高みによじ登って練習を中断させたのには訳があるらしく、何だ何だと集まってきた私たちに向けて高らかに言葉を言い放った。

「ここで問題!」

突然のシャウト。それと同時に素早い動作でスマホのカウントダウンアプリを起動させた監督に思わず半目になりながら様子を窺っていれば、監督はそんな視線をものともせずとある問題を口にした。

「間も無くあなたたちに新たな試練が訪れます。さてそれはいったい何でしょう?」
「試練?」
「なんだ?」

みんなそれぞれ顔を突き合わせて首を捻り、何故か最終的に私の顔を見る。いや、分かる?みたいな顔でこっちを見られても私には分からない。つくしちゃんも何でこっち見てるの。雷門中サッカー部歴が長いとはいえども、私は何でも知ってるわけじゃないんだぞ。

「ブブ〜ッ!時間切れ」
「イラッとくんな…あれ」
「どうどう」

剛陣くんが口元をひくつかせて構えようとした拳を横目にスパンと叩き落として、監督の発言の続きを問う。「いてぇ!?」という悲鳴はあえて黙殺した。ここで怒ってたって意味は無いでしょ。時間はどんどん過ぎるだけだし。そう思って続きを促したのだが、何故か監督はごくごく当たり前の事柄を口にする。

「さて、その試練とは…フットボールフロンティアの本戦に進めるかどうか!あなたたちにはチャンスがまだ残されてるんです!」

そう言って特徴的な高笑いを上げる監督。なんでそんな当たり前のことを言っているのだろうか。みんなが負けたのはまだ一度、残りの予選で全勝すれば本戦に上がることは不可能じゃ無い。だからこそ私はみんなを優勝までサポートしたくてサッカー部に入ったのに。
可笑しいね、という共感を求めるつもりでみんなを振り返る。しかしそこにあった顔に浮かぶ驚愕の色を見て、私は思わず口元を引きつらせた。それをみんなはどうやら知らなかったらしい。

「…え?」
「えぇーッ!?」

…大会規定読もうよみんな…。いや、それくらいこの前の試合に全てを賭けていたのだろう。私は会場で一冊買ったから持っていたのだけど、一応チームに一冊は大会規定は配られているはずなのだが…え、受け取ってない?なんで?持ってるのは…。

「監督」
「ほーっほほほほ」
「…」
「円堂さん抑えてくれ気持ちは分かるが!!!」

持っていたボールでシュートの構えに入り、監督に向けて照準を定めようとしたら道成くんに羽交い締めで止められた。どうか止めないで、監督の最低責任を果たさせる為に私は抗議することを厭わない。通りでこの前の試合でみんなが背水の陣みたいな顔でプレーしてると思ったんだ。あのときはただ一試合一試合に必死に力を尽くしているのだろうと思っていたが少し違ったらしいね。

「亀田コーチ…」
「…監督が渡していると思ったんだ…」

亀田コーチは、今回稲森くんたちが雷門に来るときに手配された新しいコーチだ。私とも勿論初対面だったものの、選手に対して誠実に対応して指導してくれるコーチのことは信頼している。問題は監督のみ。頼むから仕事をして欲しいのだが。いや、監督のことを信頼していない訳じゃない。チームを指揮する際の意図や思惑は必ずといって良いほど先を見据えたものばかりで、雷門中サッカー部が成長することを計算した上で出されているし、腕は良い監督なのだろう。

「だけどそれとこれとは別」
「お前俺には抑えろって言ったくせに!!」

ちょっと場合が違うでしょ。私の言い分は筋が通ってるからまだマシだよ。