安堵に眠る


しばらくそのまま泣き続けて、どれくらいの時間が経ったのだろうか。いつの間にか止まってしまった涙の流れた跡もそのままに、私はずっとそこに呆然と蹲り続けていた。動き出すことさえも億劫で、いっそこのまま消えてしまえたならどんなに良かっただろう。けれど私がまだこうして息をして、心臓が動いている以上、無様に生きているしか無いのだ。
自嘲しながらさらに身を縮めて自分の身体を抱き締める。恐怖から訪れた震えを止めようと、必死になって腕に爪を立てていた。…そんな時だった。突然闇夜に金属音が弾けるのが聞こえて。

「…音…?」

これはあの惨劇の日、町中に鳴り響いていた剣戟の音と同じものだ。誰かが戦っている。ルシタニア兵とだろうか。でも今この状況でルシタニア兵に歯向かうようなことがあれば「異教徒だ」なんて喜んで殺されかねない。思わず立ち上がって、音のする方へと駆けた。助けようだなんてそんなことは考えなかったけれど、それでも何も見ないフリで立ち去る気にはなれなかった。…もしかするとこの時、私は自分の死に場所を探していたのかもしれない。
だけど物陰からそっと覗いて、対峙している二人の影を見たとき。…正しくは、その片方の顔が見えたとき。私は驚きのあまり目を見開いた。

「…うそ」

あれは、ダリューンさんだ。暗闇で見えにくいけれど、間違いなくあの人だった。でもその前に相対している仮面の男の人は見覚えが無くて、ダリューンさんが戦っているということは敵側なのだと思う。私は息を潜めながらそれをジッと見ていた。ここで飛び出しても、戦えもしない私は足手纏いになるだけだから。…そう、思っていたのに。

「くはははははは!!ダリューン!!!教えてやろう!!!貴様の伯父、ヴァフリーズを殺したのはこの俺だ!!アンドラゴラスの飼い犬めがそれにふさわしい報いを受けたわ!!」

その言葉に、頭が真っ白になるのが分かった。その口から嘲笑と共に吐き出された名前が、私の絶望を再び連れてやって来る。…貴方だったの、あの優しい人を殺したのは。弔われることなく、あんな無様な最期にしてしまったのは。…討ち取られたという万騎長やヴァフリーズさんの首は、王都を攻め込まれた後に王宮の門前へ晒されたのだという。私は見に行かなかった。知っている顔を見つけてしまったら、と思うと。それが怖くて仕方なくて。
その言葉を聞いて激昂したダリューンさんが、仮面の男に猛烈な勢いで迫っていくのが見えた。怒りで押し通るダリューンさんの剣は、一合打ちあった後にあの気味の悪い仮面を剥いで叩き割る。

「…ぉおお、おのれ、ダリューン!!!」

まるで呪詛を込めたかのような、そんな忌々しさに満ちた声だった。ダリューンさんの名を呼んだ仮面の男は、先ほどとは逆に今度はダリューンさんを追い詰めていく。…見ていられなかった。また、この人に奪われるのかとも思った。ヴァフリーズさんの命を奪っておいて、今度はこの人まで殺すつもりなのかと。
ここには今、ヴァフリーズさんの仇がいる。あの人を殺したと居丈高に名乗ったあの仮面の男を、私はどうにも許せそうになかった。だから私は咄嗟に、近くに積んであった薪を一本振り被って仮面の男に向けて投げつける。それに気がついた仮面の男が薪を打ち払い、ダリューンさんからも私からも距離を取ってこちらを睨みつけた。

「何者だ」
「ッ、おぬし、ユウか!?」

その顔の右側には火傷の跡が見えた。その顔から睨めつけられる視線は恐ろしかったけれど、私は真っ向から睨み返してみせる。…一歩も引くものか。どうせ一度は人を殺した身、また新たに一人殺そうが私が殺されようが、どちらだって構わない。

「そこを動くなユウ!おぬしが敵うような相手では無いッ!!」

ダリューンさんが叫ぶのが聞こえたけれど、それでも私の中の憎しみは収まらなかった。持っていた短剣に手をかけようと、震える手を伸ばす。それを見ていた仮面の男は、スッと目を細めて嘲笑うように淡々と私を馬鹿にした。

「それを抜けば最後、貴様も敵と見なすぞ。俺は女だからと言って容赦はせぬ」

殺気を薄らと込めた目。けれどその目は、決して私を敵だとは認識していない。まるでいつでも叩き落とせる羽虫でも見るかのようなその目が、嫌で嫌で仕方なかった。分かっている。私じゃこの人には敵わない。このまま突っ込んで行ったって、無残に斬り捨てられるのがオチだろう。…だから私は、問いかけた。

「…どうして、ヴァフリーズさんを殺したの」

声が、とダリューンさんが呟いたのが分かった。けれど私はそちらを向くことなく、ただ真っ直ぐに仮面の男を睨みつけて再度問いかける。

「あんなに優しかった人を、どうして」
「…偽物の王に仕えた老いぼれには、無様な死が相応しかろうよ」

なんだ女、あの老いぼれの愛妾か。そんな言葉まで付け足されて、私は自分の表情がストンと抜け落ちたのが分かった。…今、この人は、私のことははともかく、ヴァフリーズさんを侮辱したのか。
そしてそれを私よりも一瞬早く理解したダリューンさんが顔を歪め、怒声と共に再び突っ込んでいく。しかし僅かに剣の応酬を上回った仮面の男がダリューンさんに向けて剣を叩きつけんと振り上げた。…そこに突然誰かの邪魔が入るのが見えて、それがダリューンさんの味方だと分かるや否や、私は全身から力が抜けてその場に崩れ落ちた。





「ユウ!!」

肩を揺さぶられて思わず顔を上げる。そこには心配そうな色を滲ませたダリューンさんが居て、私の頬を伝う涙を見るや否や顔を険しくさせた。そして次に私の服を染める斑の赤を見てギョッとしたように目を見開く。怪我をしたのか、と顔を覗き込んでくるダリューンさんに合わせる顔が無くて、私は俯いたまま首を横に振った。

「…ぜんぶ、返り血です」
「…返り血…?」
「ごめんなさい、私、私は、ひとを」

ころしました。嗚咽と共に吐き出した瞬間、ダリューンさんにキツく抱き寄せられた。その抱擁はまるで、今にもバラバラになってしまいそうな私を縛り付けてくれるような力強さをしていて、その苦しさに思わず安堵を覚えてしまう自分が堪らなく嫌だった。

「もう良い。…よく頑張った、今まで恐ろしかっただろう。よく生き延びた」

それを聞いて、私は小さく嗚咽を溢して再び涙を溢した。そう言ってもらえたことが、私にとっては救いでしか無かったから。
自分勝手な都合で人を殺し、のうのうと今も生きている私を私だけは許せそうに無かったけれど、他でも無いダリューンさんが許してくれるのなら、それで良かったような気がしたのだ。

「ダリューン。…彼女は?」
「俺の身内だ。此奴も連れて帰っても良いか」
「許さんと言っても…どうせおぬしは置いて行く気などさらさら無いくせに」

横抱きにして抱えられる。しがみついていろ、と囁かれて私は咄嗟にその首筋に縋り付いた。闇夜に紛れて路地裏を駆けたお二人は、しばらくして抜け口らしきところから王都を抜け出す。近くに繋がれていたらしい馬の片方はシャブラングだった。ダリューンさんの愛馬である彼までもが無事なのだと知ってまた安堵する。
私を抱き上げたままシャブラングに跨ってすぐ様駆け出したダリューンさんにしがみつきながら、私は一つだけ囁くようにして尋ねた。

「ダリューンさん、殿下は」
「ご無事だ。今は他の仲間と山中に隠れていただいている」

それを聞いてホッとした。気にかけていた人たちがみんな生きていた。それだけで生きた心地がようやく生まれる。
眠っていろ、と耳元に吹き込まれて、それが合図だったかのように私はそのまま意識を落とした。まるで気絶に近い眠り方だったと思う。よく考えれば今日という日まで、生き延びるために気を張ってろくに休めてなんていなかったから仕方ないのかもしれない。
それに今はダリューンさんの腕の中。ここより安全な場所は無いのだと、他でも無い私自身が一番よく知っていたから。

「ダリューン、後で説明くらいはしてくれるのだろうな?」
「あぁ」

そんな会話を交わしていた二人のことは知らなかったけれど、私を抱えるダリューンさんの腕は優しかったから、もう恐るものは無いのだと。それだけは理解できていたのだ。