悪夢の来訪


ダリューンさんのお家でお世話になり始め、使用人として働き始めてから二年。私はもう今年でとうとう二十一歳になる。パルスでの生活はとても楽しくて、ヴァフリーズさんやアルスラーン殿下にも良くしてもらっているおかげか、寂しさを感じることも無い暮らしを送っていた。…まだ、声はなかなか戻らないけれど。でも皆さんはそれでも良いと笑ってくださるし、ダリューンさんなんて最近はいちいち筆談しなくても私の言いたいことが分かるようになってしまった。

『ユウは存外分かりやすいぞ』

そんなことは無いとむくれて、子供にするように笑って窘められたはここだけの話だ。
そしてそんな平和な日々の中、ある日王宮から家に帰ってきたダリューンさんから驚くことを聞かされることになった。

(…戦争?)
「あぁ、ルシタニアとの戦だ。…戦力差を考えれば決着にそう時間はかからぬとは思うが、くれぐれも留守を頼んだぞ」

なんでも、話によればこの国と友邦国であるマルヤムという国がルシタニアという国に滅ぼされたのらしい。しかもそのルシタニアはこのパルスにも迫っていて、今回の戦争はそれを打ち払うためのものであるのだという。…パルスはずっと負けなしの強い国だとは知っているけれど、戦争が無い世界でずっと暮らしていた私からすれば、戦争は立派に恐怖の対象となり得る行為だ。
ましてや今回、それにはダリューンさんもヴァフリーズさんも、そしてアルスラーン殿下も行くのだという。…無事で帰れないかもしれないという可能性を考えたら、恐ろしくてたまらなかった。

「余計な心配をするな。パルスがそうおめおめとやられるものか」
「…」
「必ず帰る。おぬしは安心してここで待て」

そうやって優しく笑ってくれるから、私は慌てて溢れそうな涙を堪えて小指を突き出す。不思議そうな顔をするダリューンさんに、私は慌ててこれが「約束を守る誓い」であると説明した。するとダリューンさんは仕方なさそうに笑って、私よりひと回り太い指を絡めてくれる。

「あぁ、何ならパルスの神々でなくおぬしに誓わせてもらおう」

…だから安心して見送れた。立派に行進していきながら王都を出て行くダリューンさんたちの背を見送って、私は一人残された家で心細く一人待つことにしたのだ。お婆さんは息子さんの墓参りに帰るからとこの期に王都を離れている。一人ぼっちは寂しいけれど、しばらくの我慢だ。半月もすれば戻ってくると誰もが笑っている。だから。

「パルス軍が負けた!」
「ルシタニアが攻めてくるぞ!!」
「首級が晒されている!」
「誰のものだ!?」

止めて、止めて。何も聞かせないで。そんなの嘘に決まっているじゃないか。みんな無事に帰ってくるに決まっている。誰も死なない。死ぬはずがない。あんなに優しい人が、殺されて良いわけなんて無いのだ。だから。


「大将軍、ヴァフリーズ殿の首級だ!!」


あの人が死んだなんて、そんな訳が無いのに。





王都が落ちた。アトロパテネの戦いに赴いたパルス軍を打ち破り、とうとうエクバターナの中にまで攻め込んできたルシタニア軍に、私はただ震えているしか無かった。幸いと言って良いのかは分からないが、ルシタニア兵が主に攻めたのはこことは反対側の方。そのおかげでこの辺りは虐殺や略奪の被害が少ないで済んだのだ。
そんな私はというと、このままジッとしていては捕まって殺されるか慰み者にされるかに決まっているので、さっさと姿を隠した。今はダリューンさんが万が一の為にと残してくれていたお金を少しずつ使いながら息を潜めて暮らしている。

(…か、絡まれてる…!)

そんなある日、いくつか食料を買っていれば街中で若い女の子が兵士に絡まれているのを見た。明らかに嫌がっているのに、無理やり手を掴んでどこかへ行こうとしている。それを見て一瞬助けに行こうか躊躇ったものの、このままではあの子も慰み者にされるのがオチだろうと考えて走り出す。自分で言うのも何だが相当なお人好しでは無いだろうか。
私は兵士に体当たりするようにして彼を弾き飛ばすと、呆けたような顔でこちらを見る女の子の手を取って口の動きだけで「来て」と伝える。女の子は戸惑いつつもついて来てくれた。後ろからは、兵士の怒号が聞こえていた。

(…ここまで来れば、大丈夫かな)
「あの…先程はありがとうございました」

私がいくつか使っている逃げ道を使って別の表通りに出て背後に追手が居ないことを確認していれば、女の子が静かにお礼を言ってくれた。中性的だが可愛らしい声。私はそれに首を横に振って、先ほど買ったばかりの林檎を一つ押し付ける。戸惑いながらも受け取ってくれた女の子に私は手を振り、唇だけで「気をつけて」と伝えてその場を立ち去った。
後ろから引き留める声が聞こえたような気がするものの、これ以上ここに居るとさっきの兵士に見つかるかもしれない。そう思って振り返らないまま、私は人混みに紛れて姿を隠した。

(…ダリューンさんや殿下は無事なのだろうか)

待っていろと言ってくれたダリューンさん、今回が初陣だという優しいアルスラーン殿下。考えるだけで恐ろしいけれどこの二人が殺されたという噂は聞かないし、さっきの軍隊もどうやら殿下を殺しに行くためのものであるらしい。つまりまだ少なくとも殿下は生きているということだ。そしてダリューンさんだって、そんな殿下をお守りしているのに違いない。…そう信じていたかった。





あのお家の玄関先にある棚の中、そこには一本の短剣がある。「万が一の為に」とダリューンさんが護身用に隠しておいた、私にとっては唯一の武器だった。あの時たしか私は「万騎長のお家に居て万が一なんかがあるんですか」と伝えたのだ。

『あると困るのは俺の方かもしれぬな』

そう遠くない記憶の中にいるダリューンさんは、そう言って笑って。

「ハッ…ハッ…ハァッ!」

その短剣は今、私の目の前の男の胸に深々と突き立っていた。ごぽりとその口から溢れた血、それが私の顔の横に落ちる音がやけにはっきりと聞こえる。ただの肉塊に成り果ててしまったそれを、私は真横に転がして倒れていた身体を起こす。短剣を引き抜いて、そのまま転がるようにして立ち上がり路地裏を駆けた。…血の匂いがする。走っても走っても、鉄の匂いが消えてはくれない。

「あ、あぁ、あ」

あぁ、何という皮肉だろう、これは。こんな時に声が戻った。人間、どうやらショックに弱いらしい。命と貞操の危険を感じた途端に、失っていたものが蘇ったなんて。
襲われたのは突然だった。酒臭い息を吐き出しながら下卑た笑みで私を暗がりに引き摺り込んだ男。私のことを欲を発散する道具だとしか見ていない下劣な目。そのどれもが嫌で、嫌で、仕方なくて。反抗したら頬を殴られた。大人しくしていろと叫ばれたことが私の恐怖を煽って。服を胸元まで捲り上げられた瞬間に、私は、隠し持っていたこの短剣をがむしゃらに突き立てて。

「ッ!!」

誰もいない物陰に転がり込んで、私は膝を抱えて息を潜める。追手が来る気配はしなかった。でも、それでも私はずっと隠れている。来ることのない追手の報復を恐れて、一人静かに泣いていた。
だって、怖い、怖い、何もかもが怖い。なぜならさっき、たった今、私は。

「ひとを、ころした」

目の前にある真っ赤な手がその証。服にまで染み付いた消えない血の匂いがその罪を表している。でも仕方ないじゃないか。そうしなきゃ、誰も私を守ってはくれないのだから。…でも、それでも私は殺したくなんてなかった。人の肉を貫く感触も、死体の温度も何もかも、そんなもの知らないままで生きていたかったのに。

「ごめんなさい」

ごめんなさい、ダリューンさん。貴方はきっとこの短剣を、誰かを殺す為に用意してくれた訳じゃ無いのに。ただ非力な私が自分自身を守れるようにと、それだけを考えて用意してくれたはずなのに。
ただ、ただ、恐ろしかった。人殺しに成り果てた恐怖を、あの置き去りにした死体を、私だけしか知らないその孤独が苦しくてたまらない。…そして、今すぐ会いたいと思った。

「たすけて」

あの優しい人たちに、今すぐ会いたいと。
ただそれだけを願いながら、私は一人声を殺して嗚咽をこぼす。