無知は罪と言うなれど


宴が終わった後、私はファランギースさんと一緒に男性陣とは別の部屋に案内された。女性はたったの二人だったけれど、それにしては少し広めの素敵な部屋だった。ここに来てすぐにお風呂を貸していただいたため、何とも数日ぶりにサッパリしている。ベッドに腰を下ろした途端、そのベッドの柔らかさに思わず眠気が襲いそうになるのを必死で堪えていれば、ファランギースさんがそんな私を見て微笑ましそうに笑った。

「今のうちに休むのも良いことじゃ。少し仮眠を取るかの?」
「あ、いえ、大丈夫です。…あの、それよりもファランギースさんにお願いしたいことがありまして」
「…私にか」
「はい」

ここに来るまでにずっと考えていたことだ。でも、他の人に聞くには少し相応しくないというか専門外というか、とにかくファランギースさんくらいにしか頼めないことなのでまずは話を聞いてもらうことにする。ファランギースさんに手招きされて腰を下ろした彼女の隣で、私は真面目な顔になりながら俯くようにして頭を下げた。

「弓を教えて欲しいんです」
「…おぬし、弓の経験は」
「無いです。撃つどころか、触ったことすらも無いです」

何せ平和ボケした国の民であるし、王都でも弓なんて触る機会は全く無かった。武器なんて持ったことも無い。…例外は、今も私の所持品の一つである短剣だけだった。そんな私に対して、ファランギースさんはまるで嗜めるかのように私の肩を撫でて、静かに諭すように口を開く。

「おぬしが率先してその手を汚す必要は無いのじゃぞ?」
「…良いんです、それは」

あぁ、なるほど。ファランギースさんは私が人を殺すかもしれないのをやんわり止めてくれているのかもしれない。けれどそれはもう、気にしなくても良い。だってあの日の夜、私はたしかにこの短剣で、人の心臓を貫いた。もう既に越えてはいけない一線を越えてしまっているのだから。だから、そう伝えるつもりで何でもないような顔をする。あの日の夜に、涙はとっくに流せるだけ流したのだから。

「もうとっくに、私の手は汚れてますから」

そうやって微笑めば、ファランギースさんは黙り込んだまま私を抱き寄せてくれた。私よりも大きくて柔らかな胸が頬に当たって慌てるものの、優しく髪を梳かれたのが心地良くて思わず肩の力が抜ける。涙は溢れなかったけれど、包まれるようなその心地が嬉しくて目を閉じた。

「…しばし眠ると良い。時がくれば起こしてやるでの」

せっかくだから、その好意に甘えることにする。導かれるままファランギースさんの膝に頭を乗せて、私はゆるゆると意識を手放した。





ファランギースさんに起こされたのは、それから約二時間くらい経った真夜中のことだった。少しでも質の良い眠りを得られたからか意識はハッキリしていて、ファランギースさんから聞いたこれから先の予定もバッチリ理解することができた。何でも、やっぱりホディールさんは黒で、殿下を傀儡にしようとしているらしい。男性陣のいる部屋には睡眠薬が仕掛けられているからもう真っ黒だ。

「あ、あの、ファランギースさん。さっきの弓の話なんですが」
「おぬしに教えることじゃろう?構わぬよ、しかし続きはここを無事に出てからじゃ」
「!はい」

武器は短剣でも、扱い方は子供の児戯に等しい私の今の実力じゃ、殿下をお守りすることも出来ない。それに非力な私じゃ近接戦は不得手だ。それなら弓で遠くから皆さんを援護できた方が良いに決まっている。それを考えての弓だった。
そしてファランギースさんと一緒に、合図が出るまで部屋の中で息を潜める。ホディールさんたちは私たちのことを戦力にならないと思っているらしく、ろくに警戒もしていないらしい。私はともかくファランギースさんは物凄く強いのだが。
するとしばらくして外の方が騒がしくなってきた。ファランギースさんと一緒に耳をすましていれば、どうやらホディールさんが私たちの排除を願い出ているらしい。特に彼はナルサスさんのことが気に入らないらしく、その言い分は理不尽ながら刺々しいものばかり。…だけど、殿下はその言葉に一つも耳は貸さなかった。

「ダリューンやナルサスを私が捨てて、おぬしを選んだとして。今度はおぬしを捨てる日が来ないとなぜ言える!?」

…凄い方だなぁ、と純粋に思う。私なんかよりも随分年下だというのに、考えていることは立派な大人だ。ダリューンさんたちのような凄い人がお守りしたいと思う気持ちが分かった。殿下らしい誠実さから来る信頼に思わず頬が緩む。

「ダリューン!ナルサス!ギーヴ!ファランギース!エラム!ユウ!起きてくれ!すぐにこの城を出る!!」

その言葉を聞くや否や、私はファランギースさんと一緒に部屋を出て男性陣と合流した。睡眠薬が仕掛けられていたと聞いたから心配だったのだけれど、特に不調は無さそうでホッとする。殿下に縋ろうと追ってくるホディールさんは放っておいて、私はエラムくんたちと一緒に馬小屋へと走った。エラムくんにはナルサスさんと殿下の馬を、私はシャブラングと自分の馬を連れて広場に駆けていく。

「ダリューンさん」
「すまん」

ダリューンさんからのお礼に頷いて、私も自分の馬に飛び乗る。私の役目は、なるべく殿下から離れないでいることだ。戦えはしないし、ファランギースさんたちが側についているけれど、万が一の場合は私が盾になって庇うつもりだった。…まぁ、でもそんな出番は幸いなことになかった。
殿下を傀儡に出来なかったことで自棄になったのであろうホディールさんが、灯りを落として殿下を捕らえようとしたのを、ダリューンさんがほぼ一瞬で討ち取ってしまったのである。主人を失ったことで戦うことを止めた兵士たちに城門を開けてもらいながら外に出ようとすれば、ふと他の人たちがみんな横道に逸れて何処かに向かっているのが見えた。

「…殿下は?」
「…奴隷を解放しに行かれたようじゃ」

その顔はどうも浮かない様子だった。殿下が良いことをしようとしているのに何故だろうか、と戸惑ったものの、その理由はホディールさんが死んだことを知って怒り狂った奴隷の人たちに追われるようにして逃げ出した後で知ることになった。ナルサスさん曰く、奴隷の人たちにとってホディールさんは良い主人であったらしい。

「あの奴隷たちにしてみれば、殿下も私共も主人の仇ということになるのですよ」

ナルサスさんはこうなることを知っていながらわざと教えなかったらしい。経験しなければ分からないから、と何でもないように言うが、随分と危険な実地体験だった。…そして今のと似たようなことを、ナルサスさんも経験したらしい。
ナルサスさんがダイラムの元領主だということは聞いていたのだが、彼も自分が所有していた奴隷たちをお金を渡して解放したことがあったのだという。しかしお金の使い方を知らない奴隷たちはあっという間にそのお金を使い果たし、またナルサスさんの元で働こうと舞い戻っていたそうだ。

「…どうした、ユウ。顔色が優れぬようだが」
「…いえ、私も殿下のように、あの奴隷たちは解放すべきだと思っていたので…自分の考えの無さを反省していたところです」

ダリューンさんに小声で声をかけられたのに対してそう返す。本当に反省するしか無い。しかし何を思ったのか、ダリューンさんはそんな私の頭を撫でて小さく微笑む。甲冑越しだったから少しゴツゴツしていたけれど、決して不快になるような撫で方では無かった。

「知らぬことはこれから知れば良いだろう」
「…ダリューンさん」
「殿下と共に学べば良い。そうではないか?」
「…はい、そうですね」

それもそうだ。この国にやってきてまだ二年。たったの二年だ。しかもパルスでしか暮らしたことのない私が、そう簡単に何もかもを知ることなんて出来やしないに決まっている。それを考えれば、私は自分のことを無知な幼子だと思って学ぶ意欲を見せた方が良いと思った。そう告げればダリューンさんも微笑ましげに頷いていたし、とりあえず私はそれで良いのだろう。