頬をなぞる指の熱


右向けば森の木々。左向けば崖っぷち。
前向けば人は無し。後ろ向いても人は無し。
つまりどう見ても今の状況は一人ぼっちの迷子。詰んでいるような気がするのはどう見ても間違いではなかった。周りには殿下もダリューンさんも他の皆さんもいない。

「…はぐれた…」

迷子という言葉は死んでも使ってやるものか。これも全部ホディールさんとこの兵士たちが悪いのだから。
…カシャーン城塞から抜け出した後、私たちは近くの森で一晩野宿をした。そして朝になってから殿下の意向を聞いて、行き先をペシャワール城塞へと決定。何でもそこには万騎長が二人もいるらしく、一番兵も多いだろうから合流さえすれば頼もしいことになるとのこと。万騎長も殿下にとっては信頼のおける人らしいし、今度はホディールさんのようにはならなさそうで安堵していた。…ところが。

「…ホディールさんの兵と、ルシタニアの兵が一気に来るなんて…」

しかもそのホディールさんの兵は山に火を放ったのだ。私たちを確実に追い詰めるための一手とはいえども、さすがにやり過ぎでは無いだろうか。そんなピンチの私たちに、ダリューンさんが殿を務めることで、とりあえずは「この窮地を脱する」という方向で動き方が決まった。
しかしそれを邪魔したのが、山火事によって発生した異常なほどの煙。そこに敵兵までもがやって来たおかげで私たちは分散させられてしまった。その結果がこの様だ。私だけはぐれている。

「…ダリューンさんが殿下と居たら良いんだけど」

それを願って私も何とか進もうと馬を走らせる。幸い目的地は決まっているし、ペシャワール城塞が何処かはよく知らないけれど、東に向かえば良いはずだ。お金も王都から持ち出したものが少し残っている。武器は短剣一本と心許ないが、途中に村さえあれば今度こそ弓を売ってもらおう。撃てずとも無いよりはマシだ。

「…ごめんね、もう少しだけ頑張って」

馬を撫でてやりながらしばらく進めば、向こうからやけに騒がしい足音が聞こえてくる。まだ遠くにいるようだが、嫌な予感がして私は馬を返すと山の中に入っていく。坂を上り、馬が騒がないようになるべく離れたところに置いておきながらさっき私が通って来た道を上から窺えば、そこをちょうど何処かの兵士たちが通っていく。…先頭には、あの仮面の男が居た。ふつふつと湧いて来そうな怒りを堪えて息を潜めたまま踵を返す。あいつらが通り過ぎてからまた進もう。悔しいけれど、今の私じゃヴァフリーズさんの仇を討つどころか逆に殺されかねない。

「…村だ」

しばらく走らせていれば、日が少し真上から傾いた頃に一つの村へたどり着いた。村人らしき人たちが動いているのが見える。それに一安心しつつ、私は近くの木に馬をくくり付けて近くにいた女の人に声をかけた。

「あの、すみません。この村で食糧を買うことは出来ますか?」
「大丈夫よ」

お金さえあるのなら、と女の人は快く食糧を売ってくれた。ついでに弓の方も買わせてもらう。矢は全部で十本。これ以上は私の負担になるからとお店の人に窘められてしまった。…十本じゃ心許ないけれど、その代わりに一本一本大事に射とう。どうせ下手くそなんだから、当たれば良い方じゃないか。ついでに簡単な弓の射ち方も教えてもらったし、最悪どうにかなるだろう。
村の人は、私のくたびれ具合を見て村で休むことを勧めてくれたけれど私はそれを断った。急がなきゃいけない。こうしている間にもきっと、皆さんもペシャワール城塞を目指しているのに違いないから。





「…って、思ってたのに!!」

猛然とした勢いで道を駆ける。後ろにはルシタニア兵が十騎ほど。どうやら私が殿下たちの同行者だとは気づいていないらしいが、女だからと狙っているらしい。ニヤニヤとしながら私を捕まえようと追いかけて来ているのが見える。慰みものにするために傷つける気が無いのが幸いだろうか。反撃できるならしたいけれど、そうすればあちらも私を殺しにかかるだろうし、そもそもこの人数を相手できるような実力が私には無い。

「捕まえた奴が先にヤれるってのでどうだァ!」
「なら俺がいただきィ!」

誰がいただかれるものか。私は処女だがこいつらに捧げる為に取っていたんじゃないんだぞ。そういう気概でさらに馬を加速させる。ギリギリまで馬の体力を温存させておいて良かった。ここ一番でスピードが出せる。

「城塞は目の前なのに…!」

あの川さえ越えてしまえばペシャワール城塞は目前なのだ。それなのにこいつらのせいで落ち着いて道も探せない。とりあえず先ほどから試行錯誤で山を降りてはいるのだけれど、いい加減諦めてはくれないだろうか。

「!しまった…!」

木々を抜けながら後ろの追手を躱していれば、いつのまにか私はとうとう森を抜けてしまったらしい。崖っぷちを走りながら、眩い光に目を細めて思わず舌打ちをする。これで障害物が無くなってしまったのだ。これじゃ隠れることも出来ない。…このままじゃじきに捕まる。そうなれば皆さんとも合流できない。

「…当たりますように!」

一か八かで弓を取って後ろに向けて放つ。せめて先頭を当てられたなら、後ろにも少なからず影響はあるだろう。というか、今日までの私の苦労やら何やらを考えて、神様とやらは私にもう少し何か報いなきゃいけない気がするんだが?何もしてない私が突然通り魔に刺された上に知らない場所で人を殺す羽目になるなんて、そんなの理不尽極まりないだろうに。
…そんな私の怨嗟じみた願いをどうやら、パルスの神々とやらは聞き遂げてくれたらしい。先頭の馬の足に刺さったおかげで転倒し、後ろもそれに巻き込まれて無様に倒れていく。何騎かは崖から滑り落ちていた。思わず拳を握り締めかけたものの、途中で気づいて止める。…今のは喜ぶべきじゃない。結果として私は今、たとえ敵だったとしても人を傷つけたのだから。

「…急ごう」

追手はもう来なかった。それを幸いに、私は何とか川の見えるところまで走る。…するとそこでは、もう既に戦いが始まっていた。あれは恐らく、殿下たちだ。
それが分かるや否や私も近くまで猛然と駆け寄り、殿下のすぐ近くまで行く。そして殿下目掛けて剣を振り下ろさんとしていた兵士の横っ腹に短剣を突き立てて、行儀は悪いが足で蹴落とす。動きやすいように、と男装にしてて良かった。元はダリューンさんの服を私サイズに仕立て直したものだけど。ちなみにちゃんと後でダリューンさんには謝ってある。

「殿下!」
「ユウ!無事だったのか!」
「はい!」

私なんかが突っ込んだって戦力にはならないかもしれないけれど、カシャーン城塞の時のように殿下の盾になろうと短剣を翳しながら必死で牽制する。一方向しか守れないあたり、私の未熟さが浮き彫りになっているのだが、さっき兵士を切り落としたことが意外に相手の警戒心を誘っているらしい。女は度胸で突っ込んでみるものだ。

「!殿下、危な…!」

視界の端で、殿下に向かって剣を振り下ろさんとする輩がいるのが目に入って叫びかけたものの、そこに一羽の鷹が兵士の目を抉ったのが見えて思わず絶句した。凄い、私より強そう。
するとそれを見た殿下が希望に目を輝かせ、私たちみんなに聞こえるようにして叫ぶ。

「みんな!!キシュワードが近くにいる!!援軍を連れてきてくれるぞ!!」

…キシュワードさんはたしか万騎長の人だ。ペシャワール城塞に居る私たちの味方。そしてどうやらその人は有名人であるらしく、敵の動揺が激しい。おかげで今も手元が狂った剣の直撃を避けて、兵士を一人刺し穿ったところだ。剣が掠った頬が熱い。多分血が出てるのだろうけれど、気にしている余裕も無かった。
するとそこで敵がざわついてきた。とある一兵が指差した先を見るとそこにはたくさんのパルスの兵。先頭に居る髭を生やした男の人、あれがどうやらキシュワードさんのようだ。その姿を見た途端、ルシタニア兵たちが我先にと逃げ出していく。

「王太子殿下を守り参らせよ!!突撃!!」

地を揺るがすような騎兵の突撃に戦意を削がれたルシタニア兵はあっという間に壊滅した。おかげでようやく安心することが出来、私は改めて皆さんと再会を喜び合う。

「ユウさん、ご無事でしたか!」
「うん、何とか…」
「!頬に怪我を」
「掠っただけだし、大丈夫だよ。先に殿下の様子を見て差し上げて」

これくらいならなんてことは無い。そう言うように笑ってエラムくんを殿下の元に送り出す。それにため息をつきながらも頷いて殿下の元に駆けて行ったエラムくんを見送っていれば、そこに向こうからダリューンさんがこちらへ向けてやってきた。その顔は少しだけ強張っている。しかし近くまで来て私が五体満足なのを確認して安心したらしい。ホッと息を吐いていた。

「ダリューンさん」
「無事だったか…!誰もおぬしの行方を知らぬというから肝を冷やしたぞ」
「私も冷やしました…」

ずっと命の危機だものな。正確に言えば一番危なかったのはさっきと今までだけど、生きているからどうってことは無い。…この事態になってから随分私は精神的に強くなった気がする。嫌な慣れだな。
するとダリューンさんはそこで私の頬の怪我に気づき、腕を伸ばしてちょうど傷の下を指でなぞる。本人である私よりも痛々しげな顔をしたダリューンさんは、僅かに咎めるようにして私の名を呼んだ。

「…後でエラムに傷を診てもらうと良い。跡が残るぞ」
「あ、でも、本当に掠っただけなので…」
「だとしてもだ、女子が顔に傷など残すものでは無い」
「…はい」

思わぬ人から女扱いされてしまい思わず息を飲む。ずっと妹扱いだったから、そんな声を掛けられるとは思っていなかった。照れそうになるのを誤魔化すように俯いて小さく頷けば、ダリューンさんは満足したように私の頭を撫でる。そして、あのキシュワードさんの元に向かうその背中を少しだけ見つめてから、私も改めてファランギースさんたちの元へ向かった。