ローの部屋は奥まった通路の隅にあった。通路は薄暗く、明かりも小さな電球ひとつっきりだった。
誰に会うこともなくたどり着けたその部屋の鉄のドアは何処かひんやりとしていて、人を拒んでいるような佇まいをしている。おれは少し躊躇しながら、そのドアをノックした。
「なんだ」
低い声がドアの向こうから響く。冷たく感じるその声にいささか逡巡したが、ここまで来たんだし、と思いなおして背筋を伸ばした。
「おれ。…リバー。入っていいか?」
一瞬の沈黙。それから直ぐに椅子から立ち上がる音がして、静かにドアが開いた。ローはあのふわふわとした帽子を脱いでいて、おれの頭一つ分高い位置から此方を見下ろしている。
「…お前か。何の用だ」
つっけんどんな物言いなのに、ローの低い声を聴くと酷く安心して力が抜けた。
隈のあるローの切れ長の瞳をぼんやりと見上げて動かないおれに、ローは不審そうに眉を顰めた。医者のくせに、おれなんかよりよっぽど不健康そうな顔してるんじゃないか?この男。
「おい」
「…あ、悪ィ。ご飯の礼言おうと思って……、あれ」
本当に、身体からふっと力が抜けた。なんだこれ。訳の分からぬまま、おれはよろりとたたらを踏んだ。すぐにローの腕が差し伸べられて、肩を掴んで身体を支えてくれた。
「…お前、一人で立てねェのか」
「んなわけねぇだろ……!」
頭上で呆れたようにため息をつかれて、耳が熱くなった。 ローの腕を掴んで立とうとするが、どうにも腰に力が入らない。他人にこんな無様な姿を晒したことなんか一度も無い。どうなってんだ。おれは言葉も出ず、ただ俯くことしかできなかった。
「…はァ。もういい。中に入れ」
しびれを切らしたローはおれの身体をひょいと肩に担ぎあげた。嘘だろ。いっそ捨て置いてくれりゃあ良いのに。おれは絶句したまま軽々と樽のように抱えられ、船長室へと入った。すらりとした脚がドアを閉めた。
一度ならず二度までも。おれはまたもやこの男に抱き上げられたショックと情けなさで呻き声をあげた。
ベッドに降ろされてその淵に腰掛け、おれは「悪ィ」と詫びて項垂れた。伸びた髪のおかげで表情が隠せて良い。今のところ、迷惑しかかけていない。情けねえと思われただろうか。ローは何も言わず手近にあった椅子を引き寄せて正面に座り、観察するようにおれの身体を見回し始めた。
目的が読めず、おれは髪の隙間からローの様子を伺った。端正な顔からは、ろくに感情が伺えない。黄色と黒のパーカーから伸びる腕には大層な刺青、耳には二連のピアス。
目つきは悪いし冷酷に見えるが、やはりおれの知っている海賊とは全然違う。腹も出てない、毛むくじゃらでもない。乱暴でもないし匂いだって良い匂いだ。それにこんなに均整の取れた体躯の奴は見たことが無かった。
傍らの机には読みかけの分厚い本が開かれている。読書までするのか。
ぼんやり考えていると、まだ濡れているおれの髪をローが指の背でさらりと撫でた。その感触に気づいてぱっと顔を上げると、ローの指から零れ落ちた髪が幾本かおれの頬にかかる。机に頬杖をついて、汚れのとれたおれの顔を満足気に眺めているようだった。
「ようやく見れた顔になったな」
「…え?あ、あァ、おかげさまで……」
ともすれば微笑んでいるようにも見えるローに、おれは呆気に取られた。今日拾ったばかりの餓鬼に対して大袈裟すぎるんじゃないか。しかし、何よりも戸惑ったのは大人に思いやられるという経験がおれに無かったからだ。
常に弟や同じスラム街の少年をまとめ、鼓舞し、生き抜くために身を削ってきた。大人という存在は意地汚くて狡猾で乱暴で、おれ達が死に物狂いで稼いだ金を平気で盗んで自分達の税として納めたりするような連中ばかりだった。だから、大人は全員おれ達の敵でしかなかった。
なのに。
風呂場ではまったく気配の無かった涙が急に奥から込み上げてくるような気がして、慌てて目を瞑った。ローは特に気にする様子もなく、髪を指でかき分けながら額の腫れを確かめていた。
「…大丈夫そうだな。おい、他に不調が無いか見てやる。うつ伏せになれ」
「……は?いや、でも」
戸惑いながら染みひとつないベッドを見下ろした。持ち主に似たのか神経質なほど白く綺麗なシーツに、倒れ込んでいいものか。こんな清潔なベッドで寝たことなど一度もない。
おれは綺麗に育った人間では無いぞ、という意思を込めてローを見たが、ベッドの主は我関せずといった顔で眉をひそめていた。
「何考えてんのか知らねェが、妙なことに気を遣うな」
「…わーったよ」
有無を言わせないローの声に折れて、渋々真白いベッドにうつ伏せになった。固い枕からは薬品と、何度か感じたローの匂いがして、何故か酷く心が落ち着いた。
「スキャン」
枕に頬をつけて横に立つローを見上げれば、隈の浮かぶ目を伏せ刀を縦に構えて何やら唱えた後だった。何が起こっているのか飲み込めないまま硬直していると、あっという間におれの身体を隅々まで観察し終えたらしいローが、ぽつりと呟いた。
「……肋骨はどうした」
「肋骨?」
「何本か折れてる。肺に刺さらなくて運が良かった。あと手首と足首もひびが入ってる。…これは、檻ん中のお前の行動を思えば当然だが」
もぞりと手を動かして肋骨に触れて、おれは記憶を掘り返した。すぐにああ、と思い出す。
「おれを王宮に売った人買いのハゲに蹴られたとこだ。汚ねェもん目の前にぶら下げてきやがったから、思い切り噛んでやったんだ」
地獄絵図だったなァ、としみじみ記憶を反芻する。狂い叫び、悶絶してかがみ込む親父。大笑いするおれに激怒して蹴りを繰り出し、その衝撃でまた痛みがぶりかえしたのか、もんどり打つように跳ねていた。人間のあんなに甲高い悲鳴は初めて聞いた。ざまあなかったな。
思いを馳せ終えて視線を戻すと、長い脚を組んで椅子に腰掛けたローが、俯いて肩を震わしていた。明らかに口元が弧を描いている。…こいつ笑うのか。枕に頭を沈めたまま、おれは訝しげに目を動かしてローを見た。
「……なに笑ってんだよ」
「ふ、人買いも死ぬ思いだっただろ」
「あ?あァ、あーいうのを阿鼻叫喚って言うんだろうな。でもこっちだって一瞬意識が遠のいたんだぜ?臭すぎてさ」
「…はは、ああ。悪ィ」
ローは笑いを堪えながら詫びた。なんなんだよ、とむくれながらも未だゆるく微笑むローから目を逸らせなかった。そうやって笑うとなんか、人が変わったみたいだ。
囚われていたおれを見下ろしていた時のローは無表情で感情が読めず、底知れない狂気すら感じられた。それが今はどうだ。愉快げにおれを見るローには、クルーに指示を出していた時の確固たる佇まいも影を潜めていた。
つい数刻前まで死を意識していたはずの自分の心が、火が灯るように温かくなるのを感じて、おれはますます戸惑うことしか出来なかった。