「ここにいる全員に話しておくが…八方毒ガスに囲まれたこの研究所から外気に触れず、直接海へ脱出できる通路が一本だけある!」
毒ガスの蔓延した外との出入口を全て遮断し終え喧騒が少し落ち着いた頃。ローは麦わらの隣に立ち、シャッター付近に集まった連中に聞こえるように呼びかけた。おれはそのすぐ隣に立って、ちっとも飽きることのない精悍な横顔を目に焼き付ける。別に死ぬ予定はないが、死ぬ気でこの男を守ろうという意思は今までで一番燃え滾っている。
あの部屋にずっと2人きりで、ぬるま湯に浸るような幸せを感じていたのは確かだ。でもそこにローの鼓動の音が響くことは無かった。絶対に、何があっても取り戻さなければならない。そしてできれば、この男に苦しい思いのひとつもさせたくない。これは、傲慢な願望だろうか?
「おれは殺戮の趣味はねェが、猶予は2時間!それ以上この研究所内にいる奴に、命の保障はできねェ!」
放たれた冷酷ともとれる言葉に下の集団がざわめいた。黙って聞いていた麦わらも訝しげに振り返る。
「研究所どうにかなんのか?」
「どうなるかわからねェことをするだけだ」
「ふーん、そうか。じゃあまァ…とにかく行くぞ、シーザー!!」
麦わらと言葉を交わしてからローは踵を返した。猪突猛進で駆けていく鮮やかな麦わら帽子の後ろ姿に「頼むぜ」と小さく声をかけて、おれもローに続いた。
停滞していたこの島に現れた異分子。麦わらのルフィ。あいつはいつだっておれ達を…いやこの海全部を驚かせる男だ。シャボンディで天竜人をぶん殴ったあの姿は今も脳裏に色濃く残っている。
おれ一人が来ただけじゃ、ローはこの作戦を実行できなかった。あいつが来たから決心した。全然悔しくねえって言えば嘘になるけど、そんなあいつだからシーザーの誘拐という大きな目的を達成してくれるって信じられる。
ひとつ息を吸い、額からメキメキと角を生やした。背中から思いきり翼を広げて天馬へと姿を変える。角の先端で先を行くキャプテンの背中を軽く突っつけば、こちらを見あげたローがわしわしと鼻の頭を撫でてきた。
「背中へドウゾ。道案内は頼むぜ?」
「あァ…前脚は?」
「飛べば平気」
「分かった。全速力で行け」
「りょーかい」
ヒラリと背中に跨ったローがたてがみを掴んだのを確認して翼を仰ぐ。天井の高い通路が多い施設らしく、飛ぶのは楽だった。
驚いてこちらを見上げてくる海兵やら何やらの頭上を飛び抜ける。背中に乗ったローの重みがどうしようもなく大切で、失いたくない気持ちが募って仕方ない。
「とっとと行って、とっとと壊そうぜ。製造室だっけ?そんで早いとこあんたの心臓を……」
「あァ、全くここに奴がいるとは……とことんタイミングの悪ィ野郎だ。虫唾が走る」
舌打ちをしたローは気持ちを紛らわすようにおれの背中を撫でた。毛皮に沿って動く指の冷えた温度が心地いい。いつだって少し低いローの体温が好きだ。
行く先は、「SAD」製造室。パンクハザードに辿り着いたあの日に語ってくれた、ローが海に出たその目的の話。七武海になったのも、心臓をくり抜いてまでこの島に滞在していたのも、全ては製造室をぶっ壊すため。しかもそれが始まりに過ぎないってんだから、おれのキャプテンの計画は壮大だ。
離れ離れだったあの間…違うな、おれと出会うずっとずっと前からローはこれから起こすことのために生きてきたんだ。途方もない復讐、いや復讐っていうより愛ってやつなんだろうか?その根底にあるものは。だって全部が全部大事な人のためなんだから。そう、今のおれならちょっとは分かる。
更に翼を仰いで速度を早めた。背中に乗せているのは自分の命よりも大切な男。ローのためならなんだってやれる。その悲願を果たす助けになれるなら本当に、本当になんだって。だからあんたが“コラさん”のためになんだってやれるってことも分かってる。おれと同じだから。
「……リバー?」
黙りこくったおれを気にしてか、首元から身を乗り出すようにしてローが顔を覗き込んできた。目だけでちらりと見返せば、風圧で脱げないように抑えられた帽子の上におれの羽根が乗っかっていて、無性に愛おしいと思った。
またひとつ曲がり角を曲がる。スピードを落とさず翼を仰ぎながら、耳の辺りを撫でるローの手のひらの感触を忘れないように身体に刻み込んだ。誰かを慈しむことを知ってる男の手のあたたかさを。
「……ロー。あんたが優しいことは知ってる」
「ああ?なんだ急に」
「おれの心臓とあんたのを入れ替えなかったのも、多分ポリシーとかプライドっていうの?そういう類の…意地みてェなもんなんだろうけど、根っこが優しいんだよ」
「…そんなんじゃねェよ」
「おれはそう思ってる。その優しいあんたがあいつらをゾウに置いてきた意味も、分かってる」
D棟とペイントされた壁をスピードをあげて通り過ぎる。目的地が近い。お互い数秒無言でいたが、ローがおもむろに首に腕を回してもたれかかってきた。人の姿だとローの方が一回り大きいのに、おれが獣型になるとそれが逆転する。そのせいか余計に、ドロドロに煮詰めたみたいな愛おしさが一段と大きくなった。たてがみの中に埋もれたローが、ゆっくりと首元を撫で上げる。細く息を吐き、持ち上げた尻尾でぺちりとローの背中を撫ぜた。
「でも…あんたが何て言おうと、おれはあんたのために生きるよ」
ローが悲願を成し遂げること。
そしてその後も幸せに生きること。
それがおれの願いだ。
七武海にまで登りつめたこいつにとって、幸せに生きるなんて願いは生ぬるいかもしれない。でも、なあ、望むくらい良いだろう。
「あいつらんとこに電伝虫置いてこなかったのは、仲間の誰も巻き込まずに全部一人で片付けるつもりだったからだろ?」
「………」
「戻るつもりが無かった…そうだよな」
ずっと、再会できたあの日から気づいてた。また会うつもりならベポ達との連絡手段くらい残しとくだろうって。ローがそれを絶ってしまっていたから、あいつらは今おれが戻ってきたことを知らない。
四皇を引きずり下ろす策なんて本当は無い。麦わら達に持ちかけたあの話は嘘っぱちだ。ローのゴールはドフラミンゴを討つことなんだから。ゴールの先は、そのテープを切った後にしか分からない。ローの頭ん中だってそうだろう。
目的地へと急いていた頭が、寂しさの入り交じった妙な感情に襲われる。ローをこんなにも優しい人間にしてくれたその人への感謝。そして、おれはローの生きる意味になり得ないんだって切なさ。当たり前のことだって痛い程分かってるけど、本当にほんの少し、寂しく思ってしまうことくらい許してくれるだろうか。
「おれは…コラさんの本懐を遂げなきゃならねェ。その為に生きてきた」
「知ってるよ。教えてくれたから」
「だがそれにつき合わせて死なせるために、お前をここに置いたわけじゃねェ」
「──そういうとこが甘いんだよな、あんたは…」
だから好きなんだ。胸に浮かんだ感傷に蓋をして、ローがたてがみに埋もれて「馬鹿」と呟いたのにも気づかないフリをした。
「あんたが死ぬ覚悟でドフラミンゴの元へ向かおうとしてるなら…おれだって死ぬ覚悟であんたを守る」
武装した大勢の研究所所員が行く手を遮った。ローが鬼哭を抜くよりも早く、大きく伸ばした翼の斬撃でそいつらをなぎ倒す。翼に生暖かい人間の血がベタリとつこうが、ローの行手を遮る者に何の哀れみも湧かない。全員を伸したのを確認しつつ翼を仰ぐのを止めて、蹄をゆっくりと地面に着地させた。
足音を響かせ通路を歩き、その部屋の前にたどり着いた。ローは何も言わずに、折りたたまれた翼に手を埋もれさすようにして撫でている。
「だから、おれはこれから先、あんたの命令に背くことがあると思う。思うっつーか、ぜってェある。たとえあんたの命令でも、あんたを守るためならおれはそれに背く」
「──…そういうのはよせって何回も言ってきたが」
「あァ、聞けねェ」
「頑固野郎…」
ローが背中から降りたのを確認して、人型に戻った。ふわふわと舞い散る羽根のひとつを掴んでくるくると弄び、ローは深く息を吐いた。目的の扉は、目の前。俯き帽子を抑えたローは口を固く閉じたり薄らと開けたりして、それから諦めたように鬼哭を抜いた。
「……勝手にしろ。だが、おれより先に死ぬのだけは許さねェ」
「やだよ。あんたのいねェ世界で1秒でも生きたくねェ」
「──……後で説教だ。このじゃじゃ馬が」
「暴れ馬でも良いぜ」
また吐かれた大きなため息とともに鬼哭が振り下ろされ、扉が斬り開かれる。大きな部屋に広がっていたのは複雑に入り組んだ機械の山。“SAD”と書かれたタンクに目を走らせ細く息を吐いた。緊張からなのか高揚からなのか、自分の唇が少し震えているのが分かる。
正直なところこんな機械云々よりローの心臓がとっとと欲しい。そうすんなりとはいかないだろう。でも。カツン、と靴音を鳴らして歩き始めたローの後ろに着いていきながら、己の手のひらを見つめた。
何があったって、どうやったって絶対守ってみせる。それがおれの生きる意味だ。