ヴェルゴに効かなかったカウンターショックはしかし、おれとローの精神状態には耐えがたいほど効いた。
ローの顔があんなにも青ざめているのを初めて見た。心臓をあんな扱いされてりゃ当然だが、状況も絶望的だ。本領を発揮できないうえに、連れてきたたった一人の部下がまるで使いもんにならねェなんて。おれだって全く戦力になれない自分に嫌気が差しまくってるが、どうすりゃいい?あの心臓を見ただけで足が竦む。手が震える。
多分、あれはおれの唯一の弱点だ。
黒足のサンジなら、こんな状況でも気丈に戦えるのだろうか。それとも、麦わらのルフィなら?そもそも死の外科医なら、部下の一角天馬の心臓が贄に取られていたってスマートに奪い返せていただろう。
でもおれには、無理だ。そこまで強くはなれない。あんたらみたいにこの海の果てに成し得たい夢があるわけじゃないんだ。
ただこの、目の前にある心臓が動き続けてくれりゃあそれだけでいい。
「シーザーから心臓を奪い返す算段はついてた…お前の登場だけが誤算だった……ヴェルゴ」
「…“さん”だ」
手すりに力無くしなだれかかり荒い呼吸をするローが言った言葉に、ヴェルゴの額にぴきりと青筋が走った。嫌な予感が全身を駆け巡る。脊髄反射で折れた翼を仰ぎ、その手がまたローの心臓を圧迫する前に、床に這いつくばって追いすがった。爪を食い込ませて腕を掴むおれを見下ろしヴェルゴが舌打ちを漏らす。
「っや……やめろ………!」
「今はこいつに説教する時間なんだ…使えねェ馬はひっこんでろ」
「嫌だ、た…頼むからその心臓から手ェ離せ…!」
「…おいガキ、モノの頼み方ってもんを知らねェのか?」
膝をつくおれの目の前に心臓が掲げられる。男の手の上でどくどくと脈打つ、大切な人の命。これを目の前に出された状態で一体おれに何ができる?これさえこの手に無けりゃ、刺し違えたって殺してやる。これさえここに無けりゃ、お前が死ぬまでぶっ刺してやるのに。
焼き切れそうな脳みそにフラッシュバックしたのは、両親に銃で撃たれて死んだ弟の姿。最後までおれを見て、笑みを浮かべて事切れた大切な大切な弟。ああ、あんな気持ちを味わうなんて二度とごめんだ。
胸を抑え手すりからずれ落ちたローから「引っ込めリバー!」という殆ど悲鳴みたいな叫びが聞こえてきたが、冷静な判断はもう頭から抜け落ちていた。
あんたの声が苦痛に叫ぶのを聞きたくない。
あんたの声をもう聞けなくなったらおれはどうすればいい?
そんな世界、生きていられるわけがない。
畜生。実際に見たらこうなっちまうってどっかでは分かってたはずなのに。散々取り返すと息巻いてこれか。でも、それを贄に取られてマトモに戦える訳がない。
死ぬ気でした修行も、会えなかった日々の辛さも。あんたの命の前にはちっぽけなもんだ。身体を支配するのはこの場に来てしまった後悔なんかじゃなくて、ローを失うかもしれない恐怖だった。
体から力が抜け、壊れた人形みたいに地面に座り込む。プライドも何も無くなって、ただ為す術もなくうなだれた。
「…お願い、だから…っその、その心臓の代わりに…おれを殴ってくれ…」
情けなく震える声が部屋に反響して、ローがひゅうと息を呑むのが膜を張った向こう側に聞こえる。ヴェルゴの足元で床に着くほど頭を下げれば、間髪入れず嘲笑が返ってきた。
「は、傑作だな…随分懐かれたじゃねェか、ロー!」
「……ッ……!!」
持ち上げられた足が頭上に振り下ろされた。床に勢いよくぶつけた鼻の骨が軋む。革靴の底をねじり込むみたいに押し付けられて、骨が悲鳴を上げる音を聞きながら無様に這いつくばった。
屈辱的な体勢なのに、こいつの手の中の心臓が無事ならどうでもよかった。矜恃も誇りもあの心臓の前ではガラクタ同然の価値しか無い。
「……ックソ、クソ……!!!その汚ェ足どけろ、ヴェルゴ!!」
「ヴェルゴさん、だ!」
「っあ、ぐぁっ…!」
「~~ッリバー!!」
頬にめり込んだ足先で顔が蹴り上げられ、地面を抵抗も無く転がった。見かけに違わない脚力と、追うのも困難な速さ。ドフラミンゴの腹心てのは伊達じゃねェってことか、なんてかろうじて残った冷静な頭が思う。壁にぶつかりガツンと跳ねた頭の皮膚から流血したらしく、床が自分の血で赤く染まっていくのが見えた。
「あァクソ、駄目だリバー…!!お前は逃げ…う…っ!!」
よろめきながら“ROOM”を広げようとしたローの心臓がまた圧迫される。遠くで呻き声が上がるのが聞こえて、身体全部から血の気が引いていく。
「な、んで、やめろ…っ!ローの心臓には手ェ出すな…!」
「ああ悪かったな。どうでもいい約束は忘れる質なんだ」
「て、め…ッ」
「だがお前がこのまま捕まるってんなら考えてやってもいいがな。生け捕りの方が天竜人も喜ぶだろう…馬と人間、両方でお楽しみできる」
「っ、!」
足音を響かせ近づいてきたヴェルゴが鳩尾を踏みつけ、蹴りあげた。幼少期、抵抗できないおれに何度も暴力を働いてきた飲み屋の主人のことを思い出し、胃液が口に滲んだ。好き勝手に床に叩きつけられるごとに、肌を這いずる忌まわしい記憶が脳の奥でしたり顔をする。
「ああしまった…確か無傷じゃなきゃ値打ちが下がるんだったか?」
「…っ」
全くしまったなんて思っていなさそうにそう言って、遠慮の無い足先が腹に食い込み胃液が飛び散った。続けざまに折れた翼や腹を何度も躊躇なく踏みつけられ骨が悲鳴を上げる。
やばいな、何本折れた?
せめて武装色を纏おうと努力したが、ヴェルゴの脚がもう一度腹を蹴るスピードの方が早かった。
「さっきも言ったよな?余計な真似はするな。お前の大事なキャプテンの心臓がどうなっても知らんぞ」
「ぐあ……ッ!!!」
「チェンバーズ…お前のことはジョーカーから聞いた。天竜人がご所望の金のなる木だとか…」
「っあ、うああ!!」
ヴェルゴの靴に勢いよく踏みつけられた膝の関節があらぬ方向へ曲がり、乾いた音を立てる。
「なァ…骨折は傷の内に入ると思うか?」
「ッハ……ウ……」
胸元を躊躇なく踏みつけられ、肺が上手く機能しない。唇を噛みしめながら足りない酸素を使って必死に頭を回す。このあちこち折られた身体で、どうやって心臓を取り戻す。水を湧かせばローが溺れちまうし、そもそもこいつは能力者じゃなさそうだ。
よしんば思いきり翼を伸ばして攻撃できたとして、無傷のあの男相手におれがスピードで勝るとは思えない。自分の力量くらい分かってる。だが隙くらいはつけるだろうか?いや…それでもし、ローの心臓を潰されたらどうする。
ああ、無力だ。こんなんだから、いつまでたっても自分が嫌いなままだ。だけどローが受ける痛みや屈辱を肩代わりできるなら本望だった。
パンクハザードに着いた時に聞かせてくれた、“コラさん“との過去。一言一句忘れることの無いそれを思い浮かべれば、このヴェルゴもローの仇の一人のはずだ。仇に心臓を好きにされるなんて、きっと屈辱なんて言葉じゃ済まない。
ローは、“コラさん”の本懐を遂げるために生きてきたんだ。だからそう、今はまだその道の途中で。おれが踏み台に…身代わりになれるならそれが一番いい。ローがなんと言おうと、これはおれの意地だ。
思わず乾いた笑いが漏れる。そして間髪入れずに降ってきた重い蹴りが今度は腕を狙ってきた。肘が砕かれる感触がする。ご丁寧に武装色纏いやがって、拷問ごっこのつもりか?内心そう茶化したが、全身の感覚が段々と無くなってきている。鋭い脚がまた降ってきて、おれは衝撃で壁に激突しずるずると床に倒れ伏した。
内蔵がやられたのか口から湧き出るように血が流れる。チカチカと点滅しだした視界越しに赤黒い沼が見えて、いよいよまずいな、と他人事のように思った。
「家畜はそうやって地面を這いつくばってんのがお似合いだな?」
「……は……っいいのかよ…自分で言うのもなんだが──傷がついたおれなんて売りもんになんねェぞ…」
「後でローに治させれば問題ねェだろう?心臓と引き換えにしてやってもいい…あいつにも教育が必要だろう。その後で殺すことには変わりないが。心配するな。お前は新品の状態でジョーカーにくれてやるとも」
……趣味悪ィ。細く息を吐き、痛みを逃がそうと努力した。多分、ローはまだ動ける。だから何本骨を折られようが時間が稼げればそれでいい。大丈夫だ、きっと希望はある。あァでもいい加減出血が酷ェな……。揺らぐ視界でローの姿を探そうとしたが、上から見下ろしてきたヴェルゴに頭を踏みつけられそれはかなわなかった。
頬に押し付けられた革靴が顔を仰向かせて、表情の見えない男とサングラス越しに目が合う。
「血だらけで汚ェが確かに造りは見事だ。親に売られたそうだな?」
「──…」
「散々蹂躙され食いつぶされるだけの人生とは…実に笑える」
的外れな言葉にこっちこそ笑えてくる。ローに会えたから、おれの人生はその時点で最高なもんになった。こいつに聞かせる義理はねェけど。笑いがから回ってせき込んだ拍子に、口の中に血が溢れた。
「家族も故郷も無くして、ローに甘い言葉を囁かれてその気になったか?あのガキは強かだ。お前はどうせいつか捨てられる運命だった」
「…っは、それでも、良、い……」
「……」
「何があっても傍に……傍にいるから……捨てられたってずっと……ぐあァ!!」
「弱者に生き方を選択できる権利はない」
ああまァ、そりゃもっともなご意見だ。こうしてされるがままのおれに、ローを守る権利もクソもない。トドメと言わんばかりに頬に足先がのめり込み、衝撃で脳がぐわんと揺れる。動かない四肢を踏みにじられながら急速に意識が遠のくのが自分でも分かって、内心舌打ちを漏らした。
ああ、おれが、この手で取り戻したかったのに。それすらも選べねェ。
「──ご覧の通り、今取り込み中だが……」
瞼に流れ落ちた血で霞む視界にくゆる煙が見えた。畜生、畜生。
「今じゃなきゃイカンかね……スモーカー中将…!」