32


ふわりと良い匂いが鼻孔をついた。懐かしい香り。どこで嗅いだ料理の匂いだったか――ああそうだ。カマバッカだ。ぼやけた意識が徐々に鮮明になって、ゆっくりと瞼を開ける。酷く騒がしい声があちこちからして顔をしかめた。おかしい、おれは確かさっきまで“SAD”の製造室で───。

「……~~~~!!」
「おわっ、リバー!?やーっと起きたか!!身体の調子は?腹減ってねェか!」
「ッサンジ?どうなって、……ここは……」
「諸々終わって、宴が始まったとこだ。お前が起きたらあいつに伝えるように言われてる。おい、どこも痛くねェか?」

大鍋をかき混ぜていたらしいサンジが笑顔で覗き込んできて、脳がぎゅるぎゅると回転する。良い匂いの源はここか。諸々終わった、つーことはつまり…いやその前に、おれはあの野郎に殴られすぎて気を失ったんだ。慌てて体を見下ろす。あちこち折れていた骨が治っていて、それにこの妙に賑やかな光景を見るに作戦は成功して、そんで……!

「ローは!ローは?どこ、心臓は……!!」
「…心臓?……いや、ついさっきまでお前の傍から離れなかったんだが…ほらあっちでスモーカーとなんか話して──」
「ッロー、」
「あっおい、動けんのか?ちゃんと後で飯食えよ!!」
「分かった!」

騒ぎから少し離れた場所に、確かにローがいた。腕に繋がっていた点滴の針を引っこ抜き、思いきり翼を仰ぐ。身体にかけられていたのはローが着ていたコート、それに頭の下にあったのはローの帽子。全部を抱きしめて、雪の降る岸辺を全速力で飛び抜けた。めちゃくちゃに折られていた翼も全部治ってる。あんたが治してくれたんだよな。
いつの間にか元気になってる子供達と、何故か一緒に騒いでる海兵と、それから大きく手を振ってくる麦わら帽子と。全てが残像になって背後に消えていく。奥の方に座っているローは俯いてスモーカーと話し込んでいる。ああ、そうやって元気に喋れてるってことは、つまり、つまり。

「ウマ男ー!起きたか!」
「うわー!!なんか飛んできたァ!!」
「チェンバーズ・リバーだ!目ェ覚めちまった!」

広がるざわめきに気がついたローがぱっと顔を上げた。そして目を見開き勢いよく立ち上がる。コートも帽子もおれに寄越したせいで随分薄着になった男は、何を言うよりも先に両手を広げてくれた。周りの奴らが吹っ飛ぶのもお構いなしに翼を更に仰ぐ。

「ロー……!!」

もう、ローしか見えない。おれは全ての思いをぶつけるようにその身体に飛び込んだ。ぎゅうっと抱きしめれば、それ以上の力で抱き返される。情けなくべそをかいて、もがくようにローの胸に耳を押し当てた。
「……!!」
冷えた手が優しく頭の後ろを撫でて、そして、確かに聞こえた鼓動の音。半年間、ローの心臓が無いことを知ったあの日から張りつめていた糸がふつりと切れる。

「……うう…!」
「!おい、リバー」

全身から力が抜けて、倒れかけたところをローの腕が引き寄せた。ああ………良かった。良かった、生きてる。目の奥が決壊して、涙が溢れ出る。顔を両手で覆い、これ以上醜態を晒さぬよう情けない顔を隠すので精一杯だった。

「……っお、おれ……何もできなかった!ご、ごめ」
「馬鹿言え…謝るな。お前身体は?」

手首を掴まれ、隠していた目元を覗き込まれる。ぽろぽろと流れる涙越しにローの顔がじわりと歪んだ。

「だいじょうぶ、あんたが治してくれたんだろ?……ッなあ、っど、ど、うやって取り返した?」
「落ち着いて息しろ。…心臓なら、隣の海兵が借りの返しついでに奪いとってくれやがった」

隣、隣?海兵?涙に濡れた顔を上げて振り返れば、実に苦々しい顔をしたスモーカーがサンジの作ったスープを飲んでいる。ああ、そうか。あの後やっぱり、ローに力を貸してくれたのか。

「…ッ恩に着る……!!」
「ああ?勘違いするな、そいつにゃ借りを返しただけ……おいっ、おれの肩で泣くな!」

この溢れる感謝をどう伝えれば良いか分からず混乱したまま、被さるようにスモーカーに抱きついていた。手が回りきらないほど大きな身体に縋り付く。ああ、命の恩人への御礼の言葉なんておれの語彙じゃとても足りねえ。

「おい何のつもりだてめェ…!」
「この恩は一生忘れねェ…!」
「……ふん、海賊が大層な台詞吐きやがる」
「ありがとう、ありがとう……」

この海兵がいなけりゃローの心臓が潰されてたかもしれない。おれだけじゃどうしようもなかった、本当にこいつがいなければ——。

「…スモやんが一角天馬に羽交い絞めにされてる」
「すぐケムリになっちまえば良いのに受け止めちゃうのがスモやんの甘いとこだよなァ…」

スモーカーは海賊とは慣れ合わんとか鬱陶しいとかブツブツ言いながらも、引きはがさないでいてくれた。なおも流れる涙が真っ白い海軍の軍服を濡らしていく。広い背中に書かれた“正義”の文字に、生まれて初めて感慨を抱いた。捕まえるべき敵なのに助けてくれた。政府の正義のためじゃない。自分自身の正義を守るために、ローを助けてくれたんだ。

こんな海兵がたまたまこのパンクハザードに来て、あの製造室に来て…それ、どんな確率だ?間違いなくとんでもない奇跡だ。ぼやいていたスモーカーはやがて口をつぐみ、ただ黙って肩が涙に濡れるのを受けとめてくれた。

「…おい、リバー……いつまで引っ付いてる。いい加減にしろ」

大きな舌打ちと共に勢いよく首根っこをひっつかまれて、ローの腕の中に戻される。

「みっともねェ真似してんじゃねえよ…」
「っだって、本当に良かった…あんたが生きてて…」
「…なら、ここで泣きゃ良い」

眉間に皺を寄せたローが、自分の肩を叩く。その濃いグレーの瞳も、不機嫌そうな顔も何も変わってない。ああ、生きてるんだ。つーか、ここで泣きゃ良いって何。あんたの肩で?…え?
混乱していた意識がだんだんとハッキリしてきた。
そして自分がここにいる連中殆どに注目されていることに気づく。パンクハザードの岸辺を見渡せば、興味津々な様子の海軍はもちろん、麦わらの一味や子供たちまで野次馬丸出しでこちらを向いている。鼻を鳴らして木箱に腰掛けたローの隣に座り、そろそろと翼で自分を覆い隠した。ローの肩に目元を押し付けて、赤くなった顔を隠す。

「やっちゃったかもしんねェ…」
「完全にな」
「あ〜…」

翼の向こう側で、スモーカーが「お前ら見てねェで散れ!」と叫んでいる。何、もしかして気ィ遣われてねぇ?こいつどんだけ良い奴なんだよ。

「……まァ、だが…意識が戻って何よりだ。スキャンして脳も全部確認したが……どこか痛ェとこは?」

もう片方の翼をローが引っ張って自分を中に入れた。大きく丸まった黒い翼の中に、二人きり。たくさんの視線が遮られて、上の隙間から見える空とロー以外何も映らなくなる。
空いていた距離を詰めて、ローの太腿に手を置いた。抱えていた帽子を主の元へ戻して笑みを向けると、ローは何度か瞬きをしてから優しく髪を撫ででくれた。

「大丈夫。あんなに折られまくったのにどこも痛くねェ」
「………複雑骨折だらけだった」
「そりゃ…悪ィ。手間かけ……」
「──あの行動が、お前のいう命令無視か」

静かな色を湛えた目に見つめられて一瞬息が詰まった。ゆっくりとおれの頬をなぜたローの指が酷く冷えているのに気付いて、この優しい男を心配させてしまったことに初めて思い至る。
ローはおれを大事に思ってくれてる。その感情を疑うことはもうない。だからこそ悪いとは思う。でも。頬を覆う手に自分の手を重ねて、翼の影に覆われた目を真っ直ぐに見返した。

「あんたが心臓握られるより、おれが殴られる方がよっぽど良い。だからああした。反省はしてねェ。でも、そっから状況を好転できなかったのはおれが未熟だったからだ。それは反省してる」
「────………ハァ……」

大きなため息。翼でできた薄暗い繭の中、隈をこさえた目がゆっくりと細められる。

「おれのために、死ぬな」
「……」
「何回言っても聞きゃしねェ…お前は」
「……聞けるわけねェもん」
「なら四六時中言ってやる。馬鹿。行くな、死ぬな」
「四六時中傍にいてそんなん言ってくれんなら、嬉しすぎるんだけど」
「……てめェ…この、クソ、馬鹿ウマ…」

至って真剣に言えばローは本当に疲れきったため息を吐いて、それから背中に力強く手が回された。

「馬鹿……」

肩にうもれたローが深く息を吸う音が聴こえる。おれもローの背後にある翼と手、両方で抱きしめ返す。胸元に顔をうずめて、鼓動の音に耳を澄ませた。どく、どく、と確かに聞こえるローの血が流れる音。ずっとこの音を聞きたかった。
服の上からその心臓に唇を押し当てる。すると後頭部にするりと手が置かれて、ローが覗き込んできた。すげー不機嫌。怒ってるあんたも相変わらず格好いい。

「お前、その口でヴェルゴの足…」
「……あ」
途端に嫌な記憶を思い出した。そういや、舐めたんだっけ。
「…い、いやあれは足じゃなくてズボン…」
「どっちでも同じだ、クソ。全部消さねェと気がすまねェ」

思いきり眉をしかめたローの顔が近づいてくる。まじで?してくれんの?おれなんも出来なかったのに良いのかよ。いや、してくれるっていうなら拒むわけねェんだけど…。途端に火照りだした頬を長い指がなぜる。久しぶりな気がすんだけど。いや、そうでもない?どっちにしろ嬉しい。おれはぎゅっと目を閉じて広い肩に手を回した。ローの前髪が額にはらりと落ちる感触。鼻先が触れ合って、息が薄皮にかかって、それから———。

「…おいクソカップルども!いつまでそん中籠ってやがる!」

翼の向こうから突然降ってきた声にローの動きがぴたりと止まった。唇が触れ合う寸前で吐かれたため息が口元にあたる。え、嘘だろ?潤む目で見つめたけど、ローは帽子を抑えてそっぽを向いてしまう。寸止めかよ!ちくしょう。しぶしぶ翼を引っ込めて、舞い散る羽根越しに不機嫌な顔を隠さず声の主を見上げた。

「んだよサンジ……後ちょっとだったのによ」
「何が後ちょっとだ想像させんな!おら、とっとと飯食えアホリバー!」
「あ、飯……悪い。つかおれとローはカップルじゃ、」
「そこはもうどうでもいいわボケ!良いから食え、さっきまでぶっ倒れてたんだぞお前」

素直に頷いて、差し出されたスープを口に含んだ。その途端身体の奥から一気に温まる感覚がする。ああ、これはカマバッカの味だ。

「……ん、美味ェ……懐かしいな」
「あの地獄で鍛えた味がすんだろ」
「あァ。さんきゅ、サンジ」
「──あんま心配させんなよ、リバー」

柔らかい笑みを浮かべたサンジはおれの額を指でトンと押して、踵を返し去っていった。小さくなっていく金髪をぼんやりと見送る。目が覚めた時、サンジはおれのすぐ傍にいた。ずっと見ていてくれたんだろうか。……多分そうだ。
「優しすぎんだよ、お前……」
ぽつりと零した言葉は、宴のざわめきに雲散して消えていく。同じだけの優しさをおれは返せない。そんなもの、あいつだって求めちゃいないって分かってるけど。

同じ木箱に座るローの肩にそろりと頭を預けた。そしてずっと手にかけたままだったコートをそっと返せば、すぐにかけ直された。おれには大きすぎるサイズのコートに顔が半分埋もれる。

「良いのに…あんた寒くねェの」
「おれの方が寒さに強ェ」
「いや、おれ冬島生まれだし」
「おれはノースブルー、お前はグランドラインだ」
「…ん?いや……あーもー分かったよ…」

とりつくしまもねェ。でも、大好きな香りに包まれるこの感じは手放しがたかったから有難い。ダボついたコートの袖を持て余しながらスープを完食し、麦わらが鼻に割り箸を刺して踊っているのを眺めつつまたローの肩に頭を乗せた。どさくさ紛れにさっきからくっつきまくってるけど、なんも言われないってことは良いってことだよな?

「んだあの妙な動き…作戦成功の舞い的な?」
「あのアホのせいでギリギリだったけどな」
「子供たち元気になってんのは?あんたが診たのか?」
「あァ…出来る限りの治療はした」

楽しそうに笑う子供達の姿から目を逸らし俯く。おれが頼んだ訳でも無いから口に出しはしないけど、ありがとう、とか思いつつ頭をぐりぐりと押し付けた。そして多分それが通じたらしい。ふっと笑いながらぽんと頭を撫でてくれる。

優しい医者。トラファルガー・ローの、根っこの部分。

冷えた手をとり、甲に彫られたタトゥーにキスを落とした。これからこの手が切り開く未来がどれほど困難か、思わずにはいられない。指の間に自分の指を絡めて、祈るように額を押し当てながら口を開く。

「……製造室は壊したし、次は……」
「ああ。奴を七武海から引きずりおろす」
「だよな」
「おびき寄せるのに良い餌がある」
「へぇ……?」

ローが笑いながら立ち上がる。おれは手を繋いだまんま、自分のコートのポケットにぎゅっと突っ込んだ。なんとなく、おれがいるって伝えたくて。冷えていたお互いの手が段々と温かくなる。前を歩く長身はこちらを振り返らないけど、ポケットの中の手は静かにおれの手を握り返してくれた。

「……ああ、ところで白猟屋……」
「……」

少し離れた場所でスープをすすり続けていたスモーカーがぴくりと眉を動かす。
「おれ達は“グリーンビット”へ向かうつもりだが…さて、麦わら屋の一味はおれの手に負えるかどうか……」
言い残して歩き出したローに引っ張られながら、慌ててスモーカーを振り返った。
「ありがとう!またな……あーいや、お…お元気で?」
「………チェンバーズ、てめェは……チッ、さっさと行け。海賊が」

間抜けな別れの挨拶は大きなため息で返されて、しっしと手が払われる。もくもくと立ち上りながら遠ざかる葉巻の煙を目で追っていると、ローに強く手を引っ張られた。

「……海兵だぞ」
「あァ、でも……海軍にもああいう奴がいるんだな、とか。思っちまった」
「………」

故郷では海軍と接する機会はまず無かった。閉鎖的な島だったし、王政の権力が強すぎたのもあるかもしれない。だから海賊としてロー達と海に出てから敵として出会った印象しかなかった。こうやって、自分の正義を守るために海賊を助けちまうような馬鹿がいることを知れて良かった。

ふと、コートの中で繋いでいた手にぎゅっと力がこもった。スモーカーに向けていた視線を戻すと眉間に深い皺を寄せたローに見下ろされる。

「どうし、」
「余所見するな」
「余所見?おれが?……何にだよ」
「……馬鹿」

はァこのアホ馬、とぼやくように言ってローは歩調を早めた。言ったそばからコケないように、慌ててその後ろについていく。さっきからため息吐かれてばっかりなんだけど、なに。

黙々と歩くローに引っ張られて未だ宴の続く背後のざわめきから遠ざかり、少し外れた場所にある岩場にたどり着いた。賑やかだった岸辺とはかけ離れた光景に、少し息を詰める。

「こいつら……」
「ドフラミンゴを釣る餌だ」

悪党さながらに口角を上げたローがこちらを振り向く。出迎えたのは、氷漬けになった2人の人間の頭だった。

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