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まどろみの中で、弟の夢をみた。おれはこれまであの混沌極まるスラム街で、ただひたすらに弟のためだけに生きてきた。

泥をすすりながら僅かな金を稼ぐのも、時には弟に隠れて犯罪まがいのことをしたのも、全て弟を生かすためだった。
おれと違って、心優しく育った弟。本を読むのが好きな彼のために、手当り次第そこらの大人に本を譲ってくれと外聞を捨てて頼み込むことだってあった。我ながら高い方だと思うプライドも、弟の前には形無しだったのだ。

優しい弟に、真っ直ぐ育って欲しい。ただ、それだけで良かったのに。

飢えに血走った眼をぎらつかせながら、弟を撃った両親を思い出す。弟はおれが連れ去られるのを止めようと、こちらへ目一杯手を伸ばしていたところだった。おれも、その手を掴みたかった。けたけたと笑い声を上げて、弟の背を目掛け引き金をひき続けるけだものを、海楼石の手錠に捕えられて止めることが出来なかった。手足をちぎってでも駆け出したいのに、嘘みたいに力がまるで入らなかった。

血を流して倒れゆく弟の最期の表情が、もうずっと脳裏に焼きついて離れない。


冷や汗を大量にかいた自分に気がついてはっと目が覚めた。見慣れぬ天井。そこはまだローの部屋だった。ゆっくりと辺りを見渡す。寝心地の良いベッドに埋まったまま、やっちまったなァ、と額を抑える。

確かに自分の部屋に戻ろうと思っていたはずなのに、あっさり寝落ちてしまったらしい。ベッドの横に無造作に佇む椅子に、もうこの部屋の主の姿は無かった。むくりと起き上がると、肩から毛布がずり落ちる。医者として見過ごせなかったのか、ローがかけてくれたらしい。柔らかいそれを、半ば呆然と見つめる。海賊がまさか、こんな気遣いまでしてくれるのか。

ハートの海賊団の一員になった初日に船長にここまでさせるのはあまり宜しくないことだと、礼儀というものを学ぶ機会の無かったおれでも流石に分かる。ご飯の礼をしようと思ったのに、逆に礼をすべき項目を増やしてしまった。

「良くねェ、良くねェぞ……あいつのためになることをしなきゃならねえのに……」

ぶつぶつ呟きながら部屋を出て、通路にある窓を見た。勿論陽の光が見えるはずもなく、そこには深海の闇が広がるばかりだった。海の中なんて、生まれてこの方見たことがない。立ち上る泡が珍しくて目で追っていると、食堂の方から喧騒が聞こえてきた。朝食の時間には起きれたらしい。

食堂に入ると、十数名のクルーが机に座り飯をかき込んでいた。ローの姿は無い。ペンギンがいるのを見つけて、調理番から皿を受け取り彼の隣の席へ腰掛けた。

「はよー、リバー。昨日は眠れたか?」
「……おはよう。まあまあ」

まさかキャプテン様の部屋でベッドを横取りして眠りこけたなんて口が裂けても言えず、曖昧に答えて米を頬張った。相変わらず、信じられないほど美味い。

「え、はあ?リバー!?あんた昨日のスカした野郎なの?」

前に座っていた女のクルーが、スプーンを持つ手を止め、呆気にとられた顔で叫んだ。おれは顔をひそめてもじゃもじゃとした髪のそのクルーを睨んだ。飯を食べる速度は勿論変えない。

「昨日挨拶しただろ」
「いやいや、別人じゃないの!」
「…何が」
「イッカク、リバーが引いてるぞー」
「だって昨日は泥だらけの血だらけだったじゃない!いやー、たまげたァ。綺麗な顔しちゃってまあ」
「……なんだそりゃ…」

裏心の全く無い賞賛の声に、いささか居心地が悪くなった。真っ直ぐに褒められた経験など殆ど皆無だ。うろうろと視線を彷徨わせていると、イッカクというらしい女は豪快にあははと笑った。

「いやー偉そうな餓鬼が来たと思ったけど、結構可愛いじゃなーい。私はイッカク。よろしくリバー」

一息にそう言うと、もう新入りに興味を無くしたのか、イッカクは隣のクルーに次の島の特産はどーたらとか、店がどーたらとかいう話をするのに夢中になってしまった。これまで出会ってきた女の誰ともかけ離れたイッカクに呆気に取られていると、ペンギンがぽんと肩を叩いてきた。見ると、肩をすくめてゆるゆると首を振っている。

「海賊の女なんて皆こうだぜ、リバー。ちょっとでも機嫌損ねたら巨人より重いパンチが飛んでくる。大人しめが好みなら陸での出会いに期待するんだな」
「…別に、こっちの方がいい」

清々しい気分になって、大口を開けてレタスを齧りながらそう言ってやった。
お前そんな顔して結構マゾか、と的はずれな感想を述べるペンギンを無視して、「船長サンはどこか知らねえか」と尋ねた。

「キャプテンなら制御室だと思うけど、今は行かねェ方がいいよ。明日にはもう次の島に着くってんで、ベポと話し合い中だ」
「へぇ…ベポってあのシロクマ?」
「そう。航海士なんだ」

シロクマが、航海士。海は広ェな。昨晩の詫びをしようと思ったが、仕事の邪魔は出来ない。それならば、と口を開いた。

「じゃあさ、新聞とか本とかこの船にあるか?」
「キャプテンがまめに読んでるから結構溜まってるぜー。キャプテンの部屋の本は無理だけど、それ以外ならちっさい倉庫にまとめてる。読みたいのか?」
「ああ、海のことも世界のこともなんも知らねェから」
「…結構真面目なんだな、お前」
「ただの餓鬼がいてもお荷物になるだけだろ」
「いや、全然ただの餓鬼では無いと思うけど…お前幻獣種の自覚ある?…まーいいや、飯食ったら案内してやるよ」

ペンギンに礼を言って、米をかき込んだ。確かに自分は天馬になれる。だがそれだけだ。スラムで喧嘩は数え切れないほどしてきたが、海賊相手に通用するかと言われれば恐らく否だ。所詮ストリートの無作法な殴り方しか知らない。

今のままでは知識も力も足りなさすぎる。ローのために生きるには、人の倍以上学ばなくてはならない。
本好きで勉強熱心だった弟の性分は、実はおれの心の奥底にも眠っていたようだった。


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