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ドフラミンゴの記事を確認し終えたローは、交渉内容を伝えるため電伝虫を手に取った。リバーがその足元に膝を抱えて座り込むのを、サンジは煙草に火をつけつつ少し離れた場所から眺めていた。

番犬…違うな、とんっでもなく懐いた黒猫。それが1番しっくりくる。電伝虫から放たれる呼出音に対して、主人の長い脚に頭を預けながら警戒心たっぷりに聞き耳を立てている友人を見てそんなことを思う。やがて、ガチャ、と音が響いてリバーの肩が逆立ったように跳ねた。

『おれだ……「七武海」をやめたぞ』

笑みを含んでいるのに酷薄で、全てを嘲っているような印象を受ける声だった。こいつがドンキホーテ・ドフラミンゴ。
サンジは肺の中に溜めた煙を感情のまま勢いよく吐き出した。シャボンディでケイミーに辛い思いをさせたヒューマンショップ、そしてパンクハザードで実験台になっていた子供たち……その全ての裏に、この男がいるのだ。

「もしもしおれはモンキー・D・ルフィ!海賊王になる男だ!!」
「お前黙ってろっつったろ!」
「おいミンゴ!茶ひげや子供らを酷ェ目に合わせたアホシーザーのボスはお前かァ!」

いつもの調子のルフィをウソップが必死に抑えている。ドフラミンゴはルフィの声を聞いた瞬間、より一層笑みを交えた声色になった。

『“麦わらのルフィ”…!フッフッフ…おれはお前に会いたかったんだ……お前が喉から手が出る程欲しがる物を、おれは今持っている』
「!?お、おい…それは一体どれほどおいしいお肉なんだ…!」
「麦わら屋!奴のペースにのるな!!」

完全に肉一直線になったルフィを押しのけローが受話器を取り返した。よだれを垂らしたルフィをウソップが張り倒すのをリバーが不思議そうに見ている。冷静沈着を絵に描いたようなローとは全く違うキャプテン像だ。あいつが戸惑うのも無理はない。

「ジョーカー!余計な話をするな!約束通りシーザーは引き渡す」
『そりゃあその方が身のためだ……トンズラでもすりゃあ今度こそどんな目に合うか、お前はよく分かってる。さァ、まずはウチの大事なビジネスパートナーの無事を確認させてくれ』
「うおおジョーカー、すまねェ!あんたおれの為に七武……」
「今から8時間後!!ドレスローザ北の孤島、グリーンビッド南東のビーチだ!午後3時にシーザーをそこに投げ出す。勝手に拾え──それ以上の接触はしない」

シーザーの言葉をぶった切り、ローは有無を言わせぬ口調で取引日時を指定した。

『フッフッフ…寂しいなァ……──ああそうだお前…そん時ついでに、もうひとつ落としていきゃあどうだ?』
「……何?」
『そこにいる“チェンバーズ・リバー”をだ』

瞬間、騒いでいたルフィもウソップも誰も彼もが息を止めて、サンジの手にあった煙草が跡形も無くひしゃげた。甲板に奇妙な沈黙が走る。ローの足元でしゃがみ込んでいたリバーの張り詰めた息の音だけが、木枯らしのように辺りに響いた。

『そいつの価値は分かってるだろう?おれに渡せばより高い値をつけてやれる……』

ローの手の中の受話器に幾筋ものヒビが走る。殆ど反射のように降ろされかけたそれから、愉悦の混じった声が途切れずに続く。


『それに、なぁチェンバーズ・リバー……ローに教えてやったか?あの地下牢で何があったか…その身体は覚えてるはずだ。痛みも、恐怖も──』
「……!!」


サンジには、リバーが声もなく悲鳴をあげたように見えた。青ざめて色を無くした身体が突き動かされたように立ち上がる。瞳はぐらぐらと揺れて、唇は雪国にいるのかと見紛う程に震えだした。口を抑えて踵を返そうとしたリバーを、しかしローが許さなかった。
素早く伸ばした腕の中にその身体を抱え込み、リバーがもがき逃れようとするのを力強く抑えつける。

「…お前と話すことは、もう無ェ」

地獄の底を這う獣のような、沸点を超えて煮詰めた怒りが溢れた声だった。降ろされた受話器がパラパラと崩れた落ちたのに電伝虫が戸惑っている。
リバーの元へ今すぐ駆け寄りたい衝動を抑え、サンジは新しい煙草に火をつけた。手が震えるせいで上手く点火せず、結局ポケットに箱を戻す。

「おい……ウマ男?」

ルフィの声がぽつりと甲板に落ちる。もがくのをやめたリバーはローの膝に顔を伏せ、「なんで」と呟いた。その声は今までに聞いた事の無いほど不安定で、吹けば消えそうな響きをしていた。

「──なんで知ってるんだ。おれのこと」
「違ェ……あいつは何も分かっちゃいねェ。お前のこと、何ひとつ…!」
「……地下牢…最初に会った時、あんたにもちょっと話したよな……おれ人買いの親父に、でもそれからも……ああクソ…」
「おい、聞けリバー!」

ローが柄にもなく焦った声でリバーの肩を揺さぶったが、その声が届く気配は無い。ロビンが唇を噛み俯き、小さなモモの助までもが尋常でないリバーの様子を見て心配そうな表情を浮かべている。勿論この甲板にいる殆ど全員、リバーに過去何があったかなんて知る由もない。だがツンと澄ましたクールな男が脇目も振らず取り乱す程の言葉を吐かれたのだと、それだけは全員が理解していた。

爆発しそうな怒りを深呼吸で収め、サンジはカマバッカでのある夜を思い出していた。ベッドの上で呻きながら、悪夢に苛まれていた友人の姿。
ローといる間は忘れられていたという過去の悪夢。それが今、乱暴にこじ開けられたのではないか。

「……リバー!!!」

耳元でローに名を呼ばれて、顔を覆っていた手がようやく下げられた。不安定な呼吸を繰りかえすリバーにローが顔を寄せる。大きな手に頬を覆われて至近距離で目を合わせ、荒く上下していた肩が徐々に大人しくなっていく。

「何があってもおれの傍にいるんだろ」
「………ロー、」
「おれ以外どうでもいいんだろうが」
「──……」
「お前はおれの部下で、仲間だ。胸張って生きる理由なんてそれだけで良い」
「………っ…」

大きく見開いたグレーの瞳がローを映して、魅せられたように煌めく。彼の中のトラファルガー・ローの存在がまた一つ大きくなるのが、その目を見ていれば如実に分かった。2度、3度、リバーは下手くそに息を吸い込み、咳き込みながらも頷いた。「分かりゃ良い」とだけ言って、ローがリバーの瞼をゆっくりと撫でる。

やがてこちらを向いた時にはリバーは随分とマシな顔になっていて、成り行きを見守っていた甲板の面々に対して絞り出すように「騒いで悪かった」と侘びた。顔に滲んでいた脂汗を心配そうなロビンがハンカチで拭う。その様子をじっと見ていたルフィがおもむろに立ち上がり、口を開いた。

「…トラ男。ウマ男を置いてったりしねェよな?」
「てめェ……胸糞悪ィこと言うな。この海がひっくり返ってもありえねェ」
「よし!ならウマ男、ミンゴの言ったことなんか気にすんな!アホシーザーのボスだぞ!」

からりと言い放ったルフィに肩を叩かれて、リバーは小さく笑みを零しながら頷きを返した。

「…あァ、悪いな麦わら」
「なーに気にすんな!よし、とりあえず目指すはドレスろうばだな!」
「ローザだ」
「ローザ!」
「トラ男、お前そこいったことあんのか?」
「ない。奴の収める国だぞ」
「ほんじゃ全部着いてから考えよう!楽しみだなードレスローザ!おれ早くワノ国にも行きてェなあ!」
「バカ言え、何の計画も無く乗り込めるような──」
「っし、ハラ減ったな!サンジ、飯!」

一味の会話のテンポに目を瞬かせるローを横目に、サンジはあっけからんと言ったルフィに手を上げて応えた。

「りょーかい…おいリバー、食えるか?」
「ああ。ロビン、もう大丈夫だから。悪かった」
「そう…無理はだめよ」
「ローがいるから平気」
「あら…ふふ」

和やかな会話をする2人に、サンジもほっと息を吐く。
「よし、サンドイッチにでもするか」
「わーおれわたあめサンド!」
「私は紅茶だけで」
「おれはパンは嫌いだ」

口々に注文が飛ぶ中空気に飲まれたらしいローが食の好みを主張し、そして口走った自分に自分で驚いていた。ショックを受けて立ち尽くすローの隣で、リバーが肩を震わせて笑う。

「っはは、乗せられてやんの。おいサンジ、ローにはおにぎりでよろしく」
「了解。…お前は?なんか食いたいもんねェのか」
「おれ?おれァいいよ。パン好きだし…あー、でも柔らかいパンが良い」

乾燥して石のようになったパンを食べて前歯が欠けたことがある、とリバーは苦々しく肩をすくめた。似たような状況に覚えがあったので、サンジは「美味いフランスパン食わせてやるよ。世界が変わるぜ」と彼を慰めた。
甲板の空気は、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。物事を受け入れる度量の大きさなら、麦わらの一味はこの海でも随一だと言える。

「…ロー」

一味がキッチンへと入っていくのに続こうとすれば、背後でリバーがローを呼び止める声が聞こえた。思わず立ち止まって後ろを振り向く。リバーは先程までの笑顔から一転真剣な表情をしていた。甲板には向き合った2人とサンジだけが残される。リバーはサンジが聞いていても構わないと判断したらしく、ちらりとこちらを見てそのまま話を続けた。

「…悪ィ。煽る材料になっちまったのはおれの落ち度だ。取り乱して悪かった」
「おれがんな事気にすると思うか?」
「……いや。なんか、自分でも分かんなくなる。平気って思ってたことが案外そうじゃなかったりして…いや、話してェのはそういう事じゃなくて、ドフラミンゴが言ってた地下牢での話だ。つまり、あんたとおれが初めて出会ったあの城の……あの地下牢」
「おい…必要なのか?その話が」

ローが不機嫌そうにリバーを覗きこむ。恐らく気遣っているんだろう。地下牢、といえば先ほどドフラミンゴの言葉の中にあった単語だ。あれほど取り乱していた話をすぐに掘り返すなんて、精神上よろしくないのは明らかだ。しかしリバーは気を紛らわすように息を吐いて、真面目な面持ちで頷いた。

「……ただの忠告程度の話だけど、聞いてくれ。あの王国の連中は天竜人に売っ払うためにおれをあの地下牢に捕らえた…それは良いよな。2年前青雉に聞いた話じゃ、あのまま政府が引き取りに来る手筈だったらしい。それが革命のせいでおじゃんになって、あんた達が来てくれた。……サンジ、別に聞いててくれても良い。今更お前に隠してェことも無い」

リバーの過去に踏み込んだ話だ。聞くべきではないと踵を返そうとしたが、思いがけず引き止められた。「そうか」とだけ呟いて立ち止まる。ローはと言えばサンジのことなぞ視界にも入っていないらしく、ただリバーだけを一心に見つめていた。

天竜人、王国、売る。ロビンがリバーをあんなにも気にかけていた理由が断片的にではあるが見えてきた。思えば単純で残酷な因果だ。ロギアよりも希少という幻獣種、それにこの容姿。彼が変身する一角天馬の美しさは、サンジも散々目の当たりにしてきた。カマバッカで夜毎呻き苦しんでいた友人の過去の一端は、案外見えやすいところにあったらしい。

「ドフラミンゴが言ってたのはあんたに出会うまでにあの牢に入ってきた連中から仕入れた話だと思う。人買いのジジイと、軍隊の連中、それからお偉い大臣サマ。ジジイと軍の奴らは頭空っぽ、ただの猿だった。ドフラミンゴに情報を流したのは多分最後の奴だ」
「………その情報ってのは…お前…」
「…さァ、セールスポイントってやつじゃねェの?おれがどんだけ天竜人に良い思いを――」
「もういい、言うな」

ローが苦々しく呻いて舌打ちをした。そしてその荒々しさとは裏腹に、タトゥーの彫られた指の背が慈しむような手つきでリバーの頬を撫ぜる。こうして傷を分かち合ってきたのだろう。リバーが顔を傾けてローの指を受けとめる仕草をした光景から目をそらして、サンジは煙草に火をつけた。彼らの関係性の最も危うい部分を見てはいけないような気がした。

「…おれの値段が上がれば上がるほど王国の益も増える。だから天竜人に情報を流した。そもそも天竜人一本釣りの取り引きだから“ジョーカー”の出る幕はねェ。それなのに情報がドフラミンゴの所にもいってるってことは、多分」
「あいつに天竜人とのパイプがある…てことか?だが海賊は海賊だ。今回の交渉にその繋がりがどう絡むか…正直なとこ判断はつきにくいな」
「ああ、だから忠告程度の話。なんもなきゃそれで良い」

2人とも妙にドフラミンゴにこだわるな、とは思ったが奴を謀略しなければカイドウにたどりつかないと考えれば妥当だろうか。思うところはあったが、友人につけられた“値段”の話の方が胸を占めていた。海賊でもなかった頃の彼に値段をつけ地下牢に閉じ込めて、そこで何があったかなんて想像するのはやめた。リバーもサンジにそんな事を考えてほしくて引きとめたわけじゃないだろう。煙を吐き、気安いフリをして2人の間に声を挟んだ。

「つまりリバー。要警戒、ってことだな?記事が出たからって能天気にドレスローザに乗り込むのは良くねェ。おれも仲間にそれとなく伝えとく」
「あァ、さんきゅ」

ほっとしたような顔を向けられて、自分の考えが間違っていなかったと確信する。察しの良いリバーとの会話はスムーズで楽だ。多分リバーの方も、サンジに対してそう思っている。その期待にはできるだけ答えてやりたい。

「んじゃ…話は、そんだけ。引き止めて悪かった」

言い残したその背中がキッチンの扉の向こうへ消えていくのを見送ってサンジが残された男を振り返ると、ローは初めてサンジの存在に気づいたような顔をした。いたのか、とでも言いたげだ。そして、幾筋も寄った眉間の皺に男の感情が現れている。

「…過去に戻れたら、“地下牢”も何もかもぶっ壊してやりてーって顔に見えるな?」

断定のつもりで言ったが、ローは訝しげに首を傾げた。

「ああ?そんな意味のねェこと考えるか。あいつの苦しみならこれから全部ぶっ壊してやりゃ良い。過去のクソ野郎どもなんざ知るか」
「……はは!」

帽子の影になった目が爛々と光っているのを見てサンジは驚き、そして大きな笑い声をあげた。なるほど、この男は心底豪胆で海賊然としている。

「そうか、見間違いだったすまねェ。しっかしお前、やっぱあいつが惚れるだけあるな!」
「あァ?」
「覚悟の決まった野郎はイカすってことだよ」
「…毎度毎度、知ったような口ききやがる。黒足屋…」
「悪夢にうなされるあいつを隣で見てたからな」
「———…悪夢、か」
「内容までは知らねェ。それにお前といる間は完全に忘れてたとも言ってた…」

ローが一層拳を強く握るのを横目に煙草をしまい込んだ。少しの沈黙の後、黙り込んでいたローが口を開く。

「ため込んで悩んじまうのはあいつの悪い癖で、可愛いとこでもある。今更手放してなんかやらねェさ…」

その顔には、七武海にまで登りつめた男にふさわしい不敵な笑みが浮かんでいた。大切な宝は何があろうと絶対に手放さない、正に大海賊。サンジは再び大口を開けて笑った。肺にためた煙が笑いと共に空に雲散する。これだからリバーはたまらないんだろう、と心底から思った。自分がルフィに抱いてきた感慨を、リバーもローに抱いている。その感慨の種類は少し、いやかなり違うだろうがこの男にもそれだけの器があると思った。

一頻り笑っていると、痺れを切らしたようにキッチンへと続く扉が開け放たれた。中からへたり込んだルフィが顔を覗かせている。

「サンジ〜〜〜腹減ったァ」
「ああ、悪ィ悪ィ。よしロー、とっておきの握り飯つくってやるよ」
「……勝手にしろ」

ローの肩を叩くと心底嫌そうな顔で即座にはたき落とされた。この気難しい男がリバーにはいくらでも接触を許しているんだから面白い。こんな事を言えば、あいつはそっぽを向きながら喜ぶんだろう。友人のにやけ面を想像しつつ、サンジは意気揚々とキッチンへと入った。

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