ドレスローザの上空をドフラミンゴの糸が覆う。ローにとっては悪夢そのものの光景だが、さっきまで巣食っていた恐怖はもう無くなっていた。ここにこの部下がいてくれたおかげだ。火照った顔に手の甲を当てて座り込んだリバーの隣にしゃがむと、ふくれっ面が見上げてきた。
「いつまで笑ってんだよ」
ローにとっては当たり前の事実を述べただけだったが、リバーにはかなりの衝撃だったらしい。お前が大切だ、だなんてわざわざ口に出す質でもないから、確かに耐性は無かっただろう。可愛い奴だと心底から思ってまた笑いを漏らす。
「あーもー…」
「…お前、傷はどうだ?見せろ」
「う…結構グロいことになってっかも」
「…これからのことを麦わらと話す必要がある。その間休んでろ」
「ちょ…」
抵抗しようとしていた身体を引っ張り、自分の膝を枕に横たわらせた。海楼石が当たらないよう注意を払いながらリバーのパーカーをたくし上げると、厳重に巻かれた包帯が赤黒く染まっていた。すぐに服を戻し、唇を噛む。
動けてはいるから確かに処置はされたのだろうが、銃弾が貫通した直後に飛んだり飛ばされたり、治療経過としては最悪だ。
「とにかく止血がいる…上から布を巻けるか?この腕じゃやってやれそうにねェ」
「ん、分かった」
「…悪ィな。こいつさえ外れりゃとっとと塞いでやれるんだが」
「何謝ってんだよ。後で治してくれるんだろ?」
大人しくローの膝に頭を乗せたリバーが、微笑みながら見上げてきた。その髪に指を通しながら頷きを返す。出来る限り傷ついてほしくないのに、あの王宮に飛び込んできたリバーを見たとき心が一気に軽く、温かくなった。全く酷い矛盾だ。
ただ一人、何があっても自分の傍にいる存在があることがこれほどの威力を持っているとは知らなかった。この状況で笑うことができるのは、きっと全部。
「…お前がいるからだな」
「ん?」
「いや…たまには礼を言わねェとと思っただけだ。おい何か欲しいもんは?今のうちに聞いとく。なんでも良い」
「えまじでなんでも?」
「……おれの許容範囲内でだ」
きらん、と輝いた瞳に嫌な予感がして待ったをかける。リバーの脳内が自分限定でショッキングピンク色になってしまうことは、身に染みて分かっていた。
「えー?あんたの許容範囲とおれの許容範囲だいぶ違うんだけど」
「お前な…」
「はは、嘘。なんもいらねぇ。こうやって頭撫でてくれるだけで十分、ッ!?」
「……!待て!」
ぐら、と地面が揺れたのはその時だった。警戒して跳ね起きたリバーを引きとめ、周囲を見渡す。すぐ後ろではルフィにキュロス、ヴァイオレット、リク王が不安定になった足場に姿勢を崩していた。
「おい地面が下がってくぞ!どうなってんだ!?」
「ピーカだ…!石なら地形でさえ変えられる!」
国全体が振動しているかのようだった。近くからも遠くからも悲鳴があがっては石が街を飲み込み、景色が一変する。
「!ロー、王宮が」
リバーが指さした先、王宮のある台地が浮き上がり街とは逆方向へ移動しはじめていた。ああも遠ざかられては今すぐに討つことは難しいだろう。やがて揺れが収まり、不自然に変形した町並みと喧噪だけが残った。逃げを選んだドフラミンゴに対して、ルフィは憤りをむき出しにして地団駄を踏んでいる。
「くそー!待てミンゴー!」
「おいルフィ!」
「ん?あ、ゾロ—!」
「悪ィ、あの石野郎逃がしちまった」
「ロロノア」
近くにせり出した建物から飛び降りて来たのはゾロだった。リバーが声をかけたのに気付くと足早にこちらに向かってくる。
「よぉトラ男!リバーと会えたんだな」
「…こいつが世話になったな」
「大したこたァしてねェよ」
「つーかお前、あんだけかっこつけて降りといてあの石野郎逃がしたのかよ」
「てめー言ってくれるじゃねェかオイ…」
ゾロが親しげにリバーの肩を小突く。ローは自分の眉間に一瞬で皺が寄ったことに気付き額を抑えた。“おれの大切なもの”に気安く触れてくれるなという思いと、リバーが心を開けられる相手が増えたことへの安堵と、相反する感情が渦巻く。慣れない気分の揺らぎに息を吐いた。傍にいると心底頼りになるのに、それと同じくらい掻き乱してくれる部下だ。…いや、ただの部下に感じるような種類の思いではないことはとっくに分かっている。
ローは続けざまに軽口を叩き合っている2人の会話には入らず再び地面に座り込んだ。海楼石というのはつくづく厄介で、立っているのも億劫になる。すると、それに気づいたリバーが途端に真剣な顔つきになって隣にしゃがみこんで来た。
「きつい?」
「…いや、海楼石が邪魔なだけだ。…ゾロ屋との話は良いのか」
「礼ならもう言ったから。つーかあんたより大事な話なんてねぇし」
「…本気でねェのか?」
「無い」
間髪入れずそう返して、リバーは真面目な顔つきで距離をぐっと詰めてきた。ローの太腿に手をついて身を乗り出すその様に、近くに立っていたヴァイオレットが目を白黒させているのが視界の隅に入る。しかし、ローにはもうリバーしか見えない。
明るいグレーの瞳に鳥カゴの合間から差した太陽が反射して、宝石のように煌めいた。その光景を見て、自分の意識が逃れようもなく目の前の男に引き寄せられていくのが分かった。風に靡く黒髪の束がその目を覆ってしまったのが惜しく、無意識の内に手を上げて髪を耳にかけてやる。
薄っすらと微笑んだリバーが手に頬を寄せ、眩い光を湛えた目がまっすぐにローを見る。細められた目の皺のひとつひとつまで、この部下を形作る全てが綺麗だ。ローがそんな事を思っていることを、リバーは知らない。
ローと接する時は嘘偽りなく感情を剥き出しにしてくるこの瞳に、胸の奥が熱くなることがある。それは心安らぐ暖炉の炎のような温かさの時もあれば、燃え盛る業火のような熱さの時もあった。今は、後者だ。ローはリバーの薄い唇がゆっくりと開くのを、まるで花の開花でも見るような心地で見守った。
「ロロノアが医者見つけてくれて腹の穴縫ってる間ずっと…あんたの夢見てた」
「……どんなだ」
「ポーラータングで皆とあんたが笑ってるとことか」
「そこにお前もいたんだろうな」
「まァ。なんか天井の辺りから皆のこと見てた」
「あ?下に降りろ」
「いや夢だからァ…」
釈然としない光景を思い浮かべて無性に腹が立って、片手で両頬を押さえてやった。ローの手にすっぽり収まった顔が困ったように口を噤んで見つめてくる。リバーは、ローの幸せを思う時に自分を勘定に入れない節がある。こういう手がかかる所も悪くはない、が。どうも腹立たしくなるのも事実だ。
「いいか。夢ってのは深層心理が現れるとされてる。つまりお前は、自分だけ輪の外に———」
『……ドレスローザの国民達…及び客人達……』
「!!」
「っわ、」
突然響いた声に手を離した拍子に倒れ込んできたリバーを抱き止めながら、上空に浮かんだ巨大なモニターを睨みつける。その中から、変わらない不愉快な笑みを貼り付けた男がドレスローザを見下ろしていた。
『別に初めからお前らを恐怖で支配しても良かったんだ…真実を知り、おれを殺してェと思う奴もさぞ多かろう!!そこでゲームを用意した…このおれを殺すゲームだ!!おれは王宮にいる。逃げも隠れもしない。この命を取れれば当然そこでゲームセットだ』
さっきまで喧騒が続いていた街が奇妙なほど静かになって、ドフラミンゴの軽薄な声だけがこだました。何抜かしてんだあのクソ野郎、とリバーが呟く。怒りからか、ローの服を掴む手に力が篭っていた。
『──だがもう1つだけゲームを終わらせる方法がある。今からおれが名前を挙げる奴ら…全員の首を君らが取った場合だ──なお首一つ一つには多額の懸賞金を支払う!!殺るか殺られるか、この国にいる全員が賞金稼ぎ!お前らが助かる道は…誰かの首を取る他にない!!誰も助けには来ない…この鳥カゴからは誰も逃げられない。外への通信も不可能。外の誰にも気付かれず…お前達は死んでいく。暴れだした隣人達は無作為に人を傷つけ続けるだろう……それが家族であれ親友であれ…守るべき市民であれ……!!』
あちこちから上がっていた悲鳴の意味が分かって、ローは深く息を吐いた。とことん地獄を生み出すのが上手い男だ。ローの異変に気づいたリバーがこちらを見上げ、訝しげに首を傾げた。
「……どうした?今の隣人がとか、何?」
「寄生糸。奴は人間を操ることができる。この国が乗っ取られたのもあの技のせいだ」
「──あれか。おれも1回連れてかれかけた……つまり意思に関係なく、人を殺せちまうってことか」
「あァ」
「なんだそれ…」
「なんっだそりゃ!!ムカつくなァ!!」
こちらの話が聞こえていたらしいルフィが苛立たしげに拳を叩いた。だが裏を返せばそれだけ奴が追い込まれているということだ。確かに大量虐殺を行ってなお揺るぎない地位を保つ伝手はあるだろうが、築き上げた利益と民を失うことには変わりない。
『鳥カゴの恐怖は幾日でも続く!全員が死に絶えるが早いかお前らがゲームを終わらせるが早いか!!叫べ…恨め!!お前達は被害者だ!考えろ…おれの首を取りに来るが早いか…我々ドンキホーテ・ファミリーと共に、おれに盾突く13名の愚か者達に裁きを与えるか。選択を間違えばゲームは終わらねェ!星一つにつき1億ベリー!!こいつらこそが……!ドレスローザの受刑者達だ!!』
モニターに次々と見知った顔が並ぶ。苛立ちながら真っ先にリバーの顔を探すと、いつの間に撮られたのか髪をかきあげこちらを見下ろす顔写真の下に星が三つ悩んでいた。隣にあるローと同じ数だ。
『フッフッフ…各組織の主犯格はもれなく三ツ星!!それと…首と言ったがこいつだけは話が別だ……!チェンバーズ・リバーは無傷でおれに差し出せ!こいつに手錠を嵌められた奴には追加で報酬も与える!』
「ん?なんでウマ男だけ?」
「……捕まえたらそのまま天竜人に売っぱらうルートだからだろ。おれが無傷ならその分値打ちがつく。腹に穴空けちまったから、これ以上値下げされねェように焦ってんじゃねぇの」
「……なに、それ……」
ヴァイオレットが静かに息を飲む音とローの舌打ちが漏れる音だけがして、静かになった空気を割くようにルフィはもう一度「なんっだそれムカつくなァ!」と叫んだ。
ああ全く本当に、こんなに腹が立つことも無い。そもそもあの鳥カゴを生み出した時点で、ゲームなんか嘘っぱちだ。真相を知った者をあの男が生かしておくはずがない。ただこの島に混乱をもたらしたいだけの、見せかけの懸賞金。だがそんなものでも、この部下に“値段”をつけるなんて到底許せる所業ではない。ローはリバーの髪をくしゃりと撫でて胸に抱き寄せた。
「んな真似絶対にさせねェ」
「……ロ、ロー、さっきからまじでどうし、」
動揺しなからも大人しくローの腕の中に収まりつつ、リバーはモニターを見て目を丸くした。
「え、あいつ星5個もついてるけど」
「ああ?あいつって……ッ、ウソップ……」
『お前らをこんなゲームに追い込んだ全ての元凶!!こいつの首を取った奴には5億ベリーだ!!』
「あっはははウソップおもしれー!」