この島に来てからもう何度オペオペの能力を使っただろう。体力はとうの昔に底を尽きているが、なにがなんでも戦うという意志だけは、今この海で一番強い自負があった。
なにより、ローが受けるはずだった痛みをリバーが一身に引き受けている。彼の身体に何発も撃ち込まれた銃弾は、全てローを守って受けたものだ。傷口は塞いだといえど失った血は元には戻らない。その証拠に、軽口を叩いて微笑んだリバーはもう起き上がることができずに石壁に身体をあずけている。
「ほら、早くいかねえと麦わらに取られちまうぞ……ドフラミンゴの首」
「……ああ。リバー、お前はできるだけ——」
「できるだけ隠れてろとか、今更無しな…」
「———…」
「…大切に思ってくれてんのは、嬉しすぎるんだけどさァ……あんたのこと大好きで、好きすぎてどうにかなってるおれ自身のことも、今はちょっと大事にしてやりたいんだ……独りよがりで悪ィけど、この身体が動く限りあんたの近くにいたい…」
肩に置かれたローの手に頬を寄せて、リバーは瞳を緩やかに細めた。か細い呼吸だが、もう一度動くため必死に全身に酸素を回そうとしている。
震えそうになるのを押し隠した指先で白い目尻を撫でながら、ローの胸は形容しがたい感情で限界まで溢れた。とてつもない愛おしさと、溢れる感謝と、拭えない不安と心配と、何もかもが波のように押し寄せる。
今リバーは“好き”という言葉を使ったが、ただそれだけで人はここまで血を流さない。リバーもそれは分かっているだろうが、他にこの感情になんと名前をつけていいのか分からないのだろう。ローと同じように。
「……おれは、この海全部の言葉を使っても言い表せねェ。お前のことは」
「──……」
「お前もだろう?別におれ達の関係を型に嵌めるつもりはさらさらねェが、終わったら二人で考えるのも悪くない」
「……ふ、たりで?」
「ああ。約束が増えたな」
途端に目を瞬かせたリバーの頭を撫でて立ち上がる。戦場の真ん中にこれほどに大切で、必要な存在を残すことがどれだけ苦しいことか。この島に着いてからもうずっと、心臓が痛いほど締め付けられている。だが同時にこれほど頼れる仲間が近くにいるという強烈な安心感がローの全身を満たしていた。
自分は、一人ではない。
「……“ROOM”」
その事実が限界などとうに超えた身体を奮い立たせる。リバーがパンクハザードに飛んできてくれたから、撃たれてもなおローの元へ飛んできてくれたから、まだオペオペの能力を使う力が沸き上がってくる。
一人で成し遂げるつもりだった。ゾウに仲間を置いて、単身パンクハザードに赴いて。そしてこのドレスローザで、命を賭してあの男を殺すつもりだった。だがもう、死ぬ気はさらさらない。生きてまた海へ出る—— リバーと共に。
「ゴムゴムの……!!イーグル…バズーカ!!」
「───……!!…足剃糸」
激しい技の攻防はなおも続いているが、熟練した覇気の使い手であるドフラミンゴの方がやはり地力は上だ。ルフィの技を寸でのところでいなし、足先から糸を次々と生み出していく。
目先の敵に集中を割かれたドフラミンゴは、大きく広がった“ROOM”の射程に自分が入ったことに気づいていない。
ドフラミンゴの技で弾き飛ばされたルフィが、真っ先にローの姿を目にとめて笑みを浮かべた。
「“タクト”!!」
「───ッ!?」
「トラ男!!」
ルフィの身体が塔にぶつかる寸前でその動きを止め、ドフラミンゴへと向ける。覇気を纏った拳がみぞおちに食い込み、虚を突かれたドフラミンゴは胃液を吐きながら数メートル後退した。
ローは瓦礫を踏みしめ、揺れる視界の中に仇の姿を収めた。自分で攻撃を仕掛ける体力は先ほどの“カウンターショック”で底を尽きていたが、それでもこうして立ち続けることができるのはリバーがいるからだ。
もう一度、二人で潮風を浴びながら水平線を眺める。その光景がもうすぐそこに見えている。ドフラミンゴが胃液を拭いながらこちらを睥睨したのを真っすぐに受け止めて、ローは口元に笑みを浮かべた。途端、ドフラミンゴのこめかみに幾筋もの血管が浮かぶ。
「しつけェ死にぞこないが…ロー!!お前の未来は変わらねェってのがまだ分からねェか!」
「いいや、変わる。てめェが嗤ったリバーが、生きてまた海に出るなんて言いやがった——いつもどっかに飛んでいっちまいそうだったあいつが、未来の話をしたんだ。だからとっくに、おれ達の未来はお前を越えた先にある…!“ROOM”!!」
円を大きく広げて鬼哭の射程圏内にドフラミンゴを捉える。
「“ラジオナイフ”!!」
底を尽きたと思った体力は、リバーと見たい景色を際限なく思い浮かべると不思議な程に膨れ上がってオペオペの力を後押しした。盾となって張り巡らされた糸を鬼哭が切り刻み、ドフラミンゴの腕を斬り付ける。その猛攻の隙を突き、塔を踏み台にしたルフィが拳を振りかざしながら降下してきた。
「ゴムゴムのォ……!」
「んおおお、させるかァ!」
「!!ッくそ!ねばねば野郎……ッ」
上を見ると、ルフィがトレーボルの粘液に絡め取られて動きを封じられていた。トレーボルは下卑た笑みを浮かべながらローを見下ろし、耳障りな笑い声をあげる。
「べっへへ…さあドフィ!立て!今の内にローに……いや、まずあの生き汚ェウマにトドメを刺せ!」
「あ!そうだお前ウマ男の脚返せ!ねばねばしやがって!」
「"ベタベタ"だ!」
いくらゴムで出来ていても、その身体はもがけばもがく程トレーボルの粘液の中に沈んでいく。ルフィは張り付く腕を力づくで伸ばし武装色で覆われた拳で殴りかかったが、それはなんの手ごたえも無く向こう側へと突き抜けた。元よりそこには実体が無いのだから当然だ。
「え!?どうなってんだ、ロギアなら武装色で当たるはず——」
「べっへへ〜そんなもの効かねェ!無駄だバカゴム!」
「……そうだ麦わら……そんなハリボテ野郎相手にするだけ無駄だ…おれァ、ハートの席に座りこんなバカ共と一緒にされるのが心底嫌だった……」
「なにをォ、この死にぞこないがァ!!」
「―――グァ…!」
「べへへ……覚えてるか?おれの粘液は可燃性だ……!!」
弾かれた粘液がローの身体を壁に押さえつける。軋む骨が更に圧迫されれて、口の端から血が幾筋も流れ落ちた。トレーボルが不快な笑い声を上げながら火を携えてこちらへと迫るのを、ローは白む視界で見上げた。こうして性根から腐りきった連中と久々に顔を合わせると、仲間たちと過ごすポーラータンク号での日々がいかに恵まれていたのかを実感する。近頃など透き通った美しさで常にきらきらとしているリバーが傍にいたものだから、尚更だ。
───薄らと口角を上げたローの耳には、翼の羽ばたきが聞こえている。
「てめェら、足を奪う相手を間違えたな……ウチのリバーには翼がある。とびきり綺麗で、でけェのがな……」
嘲るように笑い、中指を立てる。ドフラミンゴとトレーボルが弾かれたように見上げた先で太陽が大きな翼に覆い隠された。崩れた塔の上に、風に靡く髪の影が映る。
「おれ、の!キャプテンに!近づいてんじゃねェ!!」
「──てめェ、一角──……ッ!!ぐべぇっ」
羽根をさざめかせて降下したリバーの蹄がトレーボルの頬に食い込んだ。瞬間、その箇所から水が吹き上がる。トレーボルの身体を形作っていた粘液が溶け落ち、手にあった火が消えた。リバーは天馬の姿を解きながら満身創痍の身体で回転し、地面に着地した。
ゲホッと咳き込んだその口から血が零れ落ちる。
リバー、と叫びながら粘液の拘束の下で藻掻いたローを、穏やかに細められたグレーの瞳が縫い止めた。
「大丈夫。麦わらばっかに良いとこ取られてちゃ、ハートの海賊団の名折れだろ?」
「──……無茶しやがって」
に、と笑みを浮かべたリバーの頬を柔らかな黒髪が撫でる。根元で折れた角に太陽が反射して、ローの目を眩しく照らした。
「ぐぼァ……このクソ馬がァァ!」
「中からほっせェ奴出てきたァ!パンチは突き抜けたのはそういうことだったのか……!よしウマ男!足!!」
囚われたままのルフィが腕を伸ばし、ハリボテの粘液が崩れ実体が現れたトレーボルの身体からリバーの片脚を取り出した。その光景にローは安堵の息を吐く。これでひとまず脚をくっつけてやれる。だが、とにもかくにも粘液で拘束されたままの状態から逃れる必要がある。
「リバー、これ溶かせるか!とっととお前の脚を───」
「……ッ麦わら!!ロー連れてここ離れろ!!」
「え!?」
「こいつ、まだ火ィ持ってやがる…引火する気だ!」
息をのみ見上げた先で、追い詰められて引き攣った形相のトレーボルが杖の先に火を点けた。間近にいたドフラミンゴが笑みをかき消して「マヌケが……」と低く唸る。即座に翼を伸ばしたリバーが足先を蹄に変え、ルフィを捉えていた粘液に水を湧き起こして拘束を解いた。そしてローの元へと翻り、同様に粘液を水で溶かしきった。
「リバー」
自由になると同時に、ローはリバーの手首を強い力で掴んだ。
「どうする気だ」
「トレーボルはおれが倒す」
「待て、だが───」
そうすれば爆発に巻き込まれることは必至だ。もう時間が無いことは分かっている。奴を退場させる絶好のチャンスであることも。それでも他に策は無いのかとふらつく脳を動かそうとしたローを、真っすぐな視線が射抜いた。
「言ったろ。あいつ一人くらい、おれにやらせてくれ。あんたに良いとこ見せてェんだよ」
「そんなもん───」
もうずっと見せてくれてる。そう言おうとしたが、鳥カゴの隙間から差し込む日光がリバーの顔を照らして、その眩しさに言葉が詰まった。そっと離された手は熱く、この頑固な部下は止まる気などさらさら無いのだと分かった。いや、とっくに分かっていた。死ぬためでは無い。またポーラータング号に戻るため、リバーは戦っている。きっと最後の力を振り絞って、今片足で地面に立っている。
息だけを漏らしたローに優しい笑みを残して、リバーが踵を返す。そして真剣な表情で駆けつけたルフィがローの腕を力強く掴んだ。
「おいウマ男、死ぬんじゃねェぞ!」
「ああ。恩に着る」
「リバーッ!!」
名前を叫んだが、リバーは振り返らなかった。黒い翼が大きく広がって一瞬でトレーボルの元へと飛んでいく。ローを抱えたルフィが猛スピードで走り出し、リバーが一気に遠ざかった。
「道連れ、だァ~~~!!」
「はっ、地獄にはローといくって決めてんだ。てめェ一人で落ちろ!」
硬化した天馬の翼が痩せこけたトレーボルの身体を抉る。それと同時に、可燃性の粘液に火種が落とされた───凄まじい爆発音を立てて辺りに噴煙が広がる。外壁塔は業火に覆われ、塀の淵で立ち止まったルフィも口を真一文字に結んで火の手を強い眼光で見据えた。
「…早く出てこい、ウマ男……!!」
ローは身体の芯が凍るのを感じた。あのとてつもない規模の爆発の中心に、リバーがいるのだ。絶対に死んでいない。それは分かってる。約束したからだ。だが、だが───。ごうごうと炎が燃え盛る音が空に響くのが永遠に思えた。ローの肌を、ルフィの腕を、焼け付く熱さが襲う。数秒にも満たないその時間が果てしない永遠に思えた、その時だった。
「…………逃がさねェぞ一角天馬ァ!!五色糸!!!」
立ち込める熱気を割くようにして響いたのはドフラミンゴの怒声だった。次いで、煙の中からもんどり打って真っ黒い影が転がり出る。
「~~~~~リバー!!!」
ローはルフィの腕の中から這い出て、その熱い影を抱きとめた。毛羽立った羽根を散らしながら翼の繭が開き、中から顔を歪めたリバーが現れる。爆発寸前に翼で身体を覆ったらしく火傷は浅い。それでも全身を炎に巻かれたのか満身創痍で肩を上下させ、激しく咳き込んでいる。ローがリバーの気道を確保する間に襲いかかってくるドフラミンゴの糸を、前に飛び出たルフィの足が弾く。
「おいしっかりしろ、リバー……!!」
「……ッ、ロー…」
煤けた頬を必死に拭うと、ゆっくりと目を開けたリバーは柔らかな笑みを浮かべた。それは炎を浴びたとは思えないほどに清々しい笑顔だった。艶やかな黒髪は所々焼けこげて翼は歪な方向に歪んでいる。だが瞳だけは煌々と輝いて、変わらない美しさでローを射抜いた。
「ひとり、倒したぜ。あんたの仇…………」
その時、視界の片隅に見えた光景。発火していた粘液が徐々にその勢いを無くし、煙越しに見えるトレーボルが無惨に身体を切り刻まれていた。血に塗れた天馬の翼が、ローの中に巣食っていた霧を晴らしてくれた。胸が一気に熱くなり、唇が震える。ああ、と掠れた声で呟いて、腕の中の大切な部下をかき抱いた。
「……っ何回キスしたら、満足だ」
かき抱きながら囁けば、リバーはおかしそうに肩を震わせた。鼻が頬にすり寄せられて、長い睫毛が皮膚に触れる。目を合わせるとリバーはか細い息をしてから、泣きたくなるほどに綺麗な微笑を浮かべた。
「いちおくかい」
「ふ……それだけで良いのか」
「これ、一日分だからな……」
「お安い御用だ。後でいくらでもやってやる」
「っはは、やっ、たァ……」
リバーは心底嬉しそうに笑ってからすぐに、グ、と眉をしかめた。ただでさえ過剰な失血状態だというのに燃える火から飛び出てきたのだ。もう限界なのは当たり前だ。ローは荒い呼吸を繰り返すリバー身体を抱えて、ルフィの後ろ姿を視界に収めた。ドフラミンゴの猛攻は未だ続いている。
ローが仇をその手で討てるように、リバーはこんなにも傷を受けた。こんなにも大きく深い想いに答えねば、何が一船のキャプテンか。