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結局ベッドはローが使うことになった。質素な宿屋に似合いのベッドはこじんまりとしていて、ローの脚が半分ははみ出ることが確実だ。
その横のソファはもうひと回り小さく、長身のローは到底横たわれないだろう。無論決して低くはないおれも安らかな快眠は期待できない。畜生、おれが借りた部屋なのに。

はあ、とため息をつきながらローを見やると、帽子を脱いでベッドサイドの机に置いたところだった。短いくせっ毛が帽子の静電気につられてぴょんと跳ねる。

ソファに腰掛けてぼんやりとローの黒髪が動くのを目で追った。冷徹な男なのに、帽子を脱ぐと年相応に見える。…ような気がする。目付きが悪いからただの若者には到底見えない。

おれの視線などまるで意に介さず、ローは両手を交差して服を脱いだ。ふるふると頭を振って静電気を逃がすその意外と広い背中に、大きな刺青が彫られているのがいやでも目に入った。
ハートの海賊団のマーク。鮮やかな刺青は上腕から胸元の方にも続いているようだった。

おれはソファからふらりと立ち上がって、ローの目の前のベッドに腰掛けた。視線のすぐ先に逞しい筋肉のついた上半身が映る。ローは突然目の前に座ったおれを無視して刀をベッドサイドに立てかけ直した。

おれも、ローとの距離感はさして気にならなかった。ここからなら彼の前身がよく見えるということが重要だった。しなやかな筋肉がついた腹と意外と厚い胸元に広がる刺青は、やけに刺々しい姿をしているが形はまるで。
少し息を詰めて、言葉にはださずにその刺青へ恐る恐る手を伸ばした。自分の手が柄にもなく緊張で震えているのが分かる。

ローの刺青はどこか神聖で、他人が踏み込むことを拒む張り詰めた気配がした。何故そう思うのかは分からない。ただの勘ってやつかもしれない。

しかし存外あっさりと、おれの指先は腹に彫られた刺青に触れた。ローの腹筋がその接触でぴくりと動く。筋肉の凹凸に合わせて上下しながら、おれは指で静かに刺青をなぞった。
なんとなく、呼吸の音を立てないようにしながら。おれの指が滑るローの肌は春島の気候でしっとりと汗ばんでいた。

前半身に描かれるその形はハートだ。この男の海賊団の名前でもあり、身体にも彫られたハート。心臓で、心で、痛み。
一体どれ程の意味がここに詰まっているのだろう。それはおれには想像もつかないほどの重さを持っている気がした。

「……面白ェか」

胸の中心、笑顔のマークが彫られたところまでなぞったところで頭上からローの声が降ってきた。無理に口角をあげたようにも見えるその刺青を眺めながらおれは静かにかぶりを振る。
宿屋の外はやけに静かで、部屋にはローの声と二人分の呼吸だけが響いていた。

「…別に。ただ、これ彫ってる間何考えてたのか、想像しようとしただけ。…全然出来ねェけど」
「……何も考えちゃいねェよ」

嘘だろうな、と思う。さっき弟を守るために力を得たと言ったおれを見つめるローの表情を思い返した。
驚いたような、息を詰めるような。酷く複雑でこんがらがったような顔をしていた。おれは漠然とローも同じようなことを思った経験があるんじゃないだろうかと思った。痛みを知る人間でなければきっとあんな顔はできない。外の人間のことなど殆ど知らないのに、ローのことには何となく確信を持つことが出来た。おれ達はどこか似ている…と思うのはおかしいだろうか。会ってほんの数日の相手に。

黙りこくるおれの肩を、ローがぽんと押した。指が刺青から離れる。されるがままぽすんと仰向けにベッドへ倒れこんだ。少し緊張していた空気が糸が切れたようにほどける。
おれは訳が分からずにローを見上げた。返ってきたのはいつもの静かな表情。相変わらず感情の読みにくいやつ。一体なんだ、ここで寝て良いってことか?

「……シャワーを浴びてこい」
「え?ベッド使えってことじゃねェのか」
「違う。血が臭い」
「……わーったよ」

顔をしかめたローがシャワー室を指差す。本気で嫌そうな顔しやがって。しかしそう言われると、確かにあの男の血が匂う気がする。多分ローもシャワーを浴びるつもりで服を脱いだだろうに、おれが匂うから気になったのかもしれない。渋々立ち上がってシャワー室へ向かった。

安い宿屋の狭いシャワー室は人ひとり入るので精一杯だった。錆び付いた栓をひねる。頭から水を被ると力が抜けた。悪魔の実を食べてからずっと、シャワーは苦手だ。正確には嫌なのは湯船なんだが風呂というものが苦手になった。いま襲われたらやられる、という不安に駆られるから。
だが今はそんな不安など嘘のように安心しきって水に濡れることができた。多分それはきっと、すぐ傍にローがいるからだ。少し癪に障るけど。でも大人に対してそんな感情を覚えることが出来た自分が、一番意外だった。
おれの中でどんどんとローが大きくなって行く気がして、少し怖い。



「あがった」
「…あァ」

濡れ鼠のままシャワー室から出るとローは長い脚を組んでソファに座っていた。膝には街で買ったらしい本が開かれている。声をかけるとちらりと顔をあげて、また本に視線が落とされた。
海賊のくせに勉強家だな、と感心する。船にあった本は全て読んでいるようだったし、新聞も隅々まで目を通していた。さすが医者だ。全然医者には見えないけど。
だが、いつまでもソファにいられるとおれの寝る場所が無い。

「…おい。おれベッドで寝ちまうぞ」
「…好きにしろ」
「あ?いいのかよ」
「疲れてるんだろ。…とっとと寝ろ」

本の頁をめくりながらローは淡々とそう言った。なんだそりゃ、さっきと言ってること違ェじゃねえか。甘いのか冷たいのか、優しいのか厳しいのか。捉えどころが無さすぎる。
結局ローの言葉に素直に甘えておれはベッドに倒れ込んだ。途端に重力を増すように疲労が身体を襲ってきた。睡魔が猛烈な勢いで、意識に蓋をし始める。

「………ロー」
「…なんだ」

名前を呼んだらちゃんと返事をくれる。律儀な男だ。何故か分からないが胸がふと温かくなった。
……クリス。兄ちゃんを拾ってくれた男は、あの国ではついぞ出会えなかった良い大人ってやつかもしれねェ。まだ、多分だけど。

「おい、用が無いなら呼ぶな」
少し不機嫌なローの声におれは瞼を閉じながら微笑んだ。ちゃんと返事を待ってくれてる。

「おやすみ…あんたも早く寝ろよ…」
「…………あァ」

ぶっきらぼうなローの返事を聞いてすぐ、おれは完全に睡魔に負けた。まどろみの中、おやすみ、と言い慣れていないぎこちない声が何処からか降ってきたような気がした。


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