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しくじった、しくじった。

その言葉だけが脳内を埋め尽くす。見えない視界の中もぞりと身体を動かすと、うおおおお、という男の興奮しきった唸り声がベッドの足元の方から聞こえてきた。ぶわわ、と全身に鳥肌が立つ。きっもちわりィ。逃げたい。

「良いよ……すっごくいいッ!!君の真珠のような瞳が隠れるのは残念だけど、それがまた、凄く良い!!あああ、神よッ!!」

……あれから。男はおれをなし崩しにそういう目的で建てられた宿屋へと連れ込んだ。すぐに殴り倒しても良かったのだが、騒ぎを起こすのは得策では無いと思い大人しく男に従った。突っ込まれそうにでもなったらたちまち再起不能にしてやろうと、そう思っていたのだが。

ベッドの上で身体をよじる。両脚を縛った縄がぎちぎちと音を立てた。目には男のネクタイが、口にはハンカチが巻かれている。上半身の服はあっという間に剥がれ、素肌にくい込むように縄が張り巡らされていた。ああ、勿論気分は最悪だ。

……まさか、こいつが緊縛趣味だったとは。おれが釣ったのはとんだド変態だった。本当に、完全にしくじった。

げっそりとついたため息も、上等なシルクのハンカチに吸い込まれて、ふうふうと熱のこもった音が漏れるだけだった。馬になったらこの縄は引きちぎれるだろうか。
出来なくは無いだろうが、肌に当たる感触的にかなり丈夫で太い縄だ。ちぎれるまでかなり皮膚が傷つく気がする。一見大人しそうな紳士のくせして、一体全体こんなもん何処に隠し持ってやがったんだ。

頭上でヘッドボードの柵に縛られた手首を動かそうとしたけど、あまりに丁寧に縄が巻かれていてぴくりともしなかった。気持ち悪すぎる趣味だが、その技術は確かのようだ。まじで嫌だ。

「なんて美しい濡羽色の髪なんだ……宵闇の鴉すら、君を見て恐れ戦慄くだろう」

男の手が髪に差し込まれて、再びぞぞぞと鳥肌が立つ。一本一本の手触りを楽しむように、ゆっくりと梳かれる。翼を出して薙ぎ払いたくなるが、それをぐっと耐えた。

男がイチモツを擦り付けてきたり、おれの身体に触れてきたりしたら躊躇なくしばいてやるのだが、今の所ひたすら気色悪い賛辞を述べてこんな風に頭を撫でる程度のことしかしてこない。

海軍だらけの中騒ぎを起こすのも面倒だし、おれだって意味の無い暴力が好きな訳じゃない。一応、食料を与えてくれた恩だってある。ああ、もういっそ思いきり襲いかかってきてくれれば、反撃という名目でぶん殴ってやれるのに。

煮え切らない状況にやきもきしていると、男がおれの髪を撫でるのをやめた。枕元に肘をついて、じっくりと観察をし始める気配がする。男は、何も喋らない。ただひたすらに、黙って此方を見るだけ。おれも勿論喋れないので、部屋には男の荒い鼻息だけが虚しく響いていた。


チ、チ、チ、と耳元で聞こえる男の腕時計の針の音が、単調に時間を刻む。
暫く経っても、男は動きもせずただおれを見ていた。穴の空くほどに見られているというのは、視界が隠れていてもなんとなく分かる。肌に焼け付くような視線を感じて、おれはじわりと変な汗をかいた。

「君の肌は象牙のようだ…触れたらどんな風に私の指に吸い付くだろう」
「傷跡が多いね。そのひとつひとつに舌を這わしてやりたい」

こいつ視姦でもしてるつもりなのか。悪いがおれにそんな変態じみた性癖は無い。
しかし嫌でも耳に入る己の身体へのおぞましい戯言は、触れられるよりもそれを想像させるに十分で、せり上がる吐き気と戦わなければならなかった。

ロー達はもう飯にありつけただろうか。そういえば結局おれは何も食べれていない。船に帰ったら何を食べよう。なんて胃袋に意識を逸らして、必死に男の視線と声から逃れようとした。

上半身は裸で、全身縄で縛られて、そんな状態でただじっと見つめられるだけ。気がおかしくなりそうだった。いっそ触れるなりなんなりしてくれた方がましだ。そしたらこんな変態野郎、一息に張り倒してやる。ああ、とっとと触ってくれ。

もういっそ眠ってしまおうかと、ぎゅっと目をつむろうとした。しかし、それと同時に目元を覆っていたネクタイが唐突に外された。目の前が一瞬白くなる。しかし部屋の中は天井の仄暗い裸電球がひとつ点いているだけだったので、視界が慣れるのは随分と早かった。

ぱちぱちと、緩慢に瞬きをしながら男の方へ目を動かす。すると、潤みながら恍惚とおれを覗き込む双眼と目が合った。ごくり、と唾を飲み込んだ男がその手に何やら握っているのを見て、おれはぎょっと目を見開いた。

「………!!」
「やはりその瞳は見えている方が良いね。…縄は中々動きづらいだろう…?これなら、縄よりも自由が利くし、君もきっと気に入ると思うんだ」

男がうっとりと頬ずりをしたのは、ぎらぎらと銀色に光る分厚い石造りの手錠だった。繋がる鎖は長く頑丈で、内臓がすくみ上がるのを感じた。

…手錠は駄目だ。それだけは嫌だ。

「……ッ!…ん…!!」
「ああ、ずっと触れてやれなかったから焦れてしまったのかな…?すまない、私はスローな行為の方が好みなんだ」
「ーーーッ!!」

お前の癖なんざ知らねえよ!!ありったけの怒りを込めておれは叫んだ。勿論その声はハンカチに吸い込まれてしまったけれど、いい加減もう限界だ。
天馬の力を借りようと、身体に力を込める。皮膚が引きちぎれようと知ったことか。

しかし変身するよりも早く、男が手錠のひとつを片手にガシャリと嵌めた。あ、と目を見開く。

とっさに動かした手首がピンと張り、鎖がもつれ合う音が響く。頭上で鳴るその聞き慣れた音に、変身しようと緊張していた筋肉が緩んでしまうのを何処か遠くで感じた。


勿論この手錠は、海楼石でも何でも無い。

でもその形状は、弟を救えなかったあの時のことを嫌でも思い出させるのに十分だった。手首の骨にヒビが入るほど身体を捻っても、弟の伸ばした手を掴めなかったあの時。

背に銃弾を受けて倒れゆく弟は、泣き叫ぶおれを最期まで見つめていた。地面に伏しても、一生懸命におれを見上げていた。最初は目を見開いて。やがて切なそうに眉毛が下がって。苦しげに口が痙攣して、でも最期に。
ーーー最期に、クリスは、酷く優しい顔で微笑んでいたんだ。


「…おお、おお、そんなに苦しそうな目をしないで。すぐ楽にしてあげるからねえ…!」


何事か話す男の肩越しに窓を見る。身体に力が入らなかった。手首に絡まる手枷を、弟が攻めているような心地がした。


…またこんなの嵌められて、駄目な兄ちゃん。…結局、兄ちゃんは誰の為にも生きることが出来ないんだね。


おれを嘲るように弟が口元を歪める。…あの優しい弟が、こんな事を言うはずが無いのに。

男が興奮しきって、もつれながらおれの腰に跨った。ペン以上の重い物を持ったことも無さそうな手が、縄の食い込む腹をさすった。
あ、こいつやっと触りやがった、とぼんやり思う。とっととぶん殴ってやりたいのに、どうにも力が入らない。


べらべらと気持ちの悪い賛辞をまくし立てながら、男がおれの身体を舐めようと身体を屈める。その姿越しに、おれは力無く天井を見上げた。その時だった。

半宵に染まった窓から、見覚えのある薄い膜がこちらに勢いよく広がってくるのが見える。

嘘だ。なんで、どうして。

ブゥンと迫ったその“円”は、おれと男をすっぽりと包み込んだ。
なんで来てくれるんだ、どうして分かったんだ。おれがこんな気分だって、もしかしてお見通しだった?ああ、どうしよう。凄ェなあんた。

憂鬱で仕方がなかったのに、ふつふつと笑いが込み上げてきた。雲間から日が差すように、暗澹としていた気分が一気に晴れていく。
ピンチの時に駆けつけるなんて、あんたはそんな真っ当な質じゃないだろうに。でも、おれにはそうとしか思えない。

腹に舌を伸ばした男が、おれが笑っているのに気付いて怪訝そうに顔をあげる。目を細めてやると、男があんぐりと口を開けた。顔を揺らしてハンカチを取るよう促すと、男は意図を汲んであっさりと口に巻かれたそれを外した。

どうも有難う、の意を込めてにこりと微笑むと、男が身悶えるように覆いかぶさってきた。うえ。

「やっと話せるよ。…ねえ、キスしてくんない?」
「ああ、ああ……!!いいとも、いいともッ!!」

目を閉じた男が、震えながら顔を近付けてくる。その股間は石のように固い。少し哀れみを感じるけど、まあ、変態につける薬は無ェし。

男の口が、おれの唇に触れるその直前。

「…じゃーな。次会うときは、もっと気持ち良くしてくれよ?」

そう囁いて、はっと目を見開いた男に向かってウインクをかます。サービスサービス。
そしてフワリとした感覚とともに、おれの身体は一瞬浮かび上がり、忽ち男の目の前から消えた。

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