一瞬で、目の前の景色が変わる。間近に迫った男の顔面から、瞬きひとつで賑わう風俗街の片隅に。男の鼻息を浴びていた顔が、冷えた外気に晒された。
裸の足が勢いよく地面に着く。しかし両脚も腕もぎっちりと縛られたままだったので、おれはバランスを崩して前のめりに傾いてしまった。すると横から見慣れた刺青の入った腕が伸びてきて、容易くおれの身体を受け止めた。
「良い格好だな。邪魔したか?」
「…まさか。助かった」
顔を上げて、にやりと笑う。途端、頭上から男の断末魔のような叫び声が聞こえてきて、ぎょっと肩を震わした。
恐る恐る振り返って見上げると、そこはおれが男に連れ込まれた宿屋だった。悲鳴の出処は、恐らくあの部屋だろう。
「……何と入れ替えたんだ?」
「さっきそこで、おれに声をかけてきた図体のデカい男だ。突っ込む方専門らしい」
おれを縛る縄と手錠をスパスパと刀で斬りながら、ローがさらりと言う。……合唱。
あー、変態親父の末路は哀れだが、やっと開放された。思いきり伸びをして、ネオンに照らされた自分の手首を見上げる。縄の痕がくっきりと残っているけど、忌々しい手錠が綺麗に切られていて、心が晴れる。
……おれは、何回こうしてローに助けられれば気が済むんだろう。役に立つ、と意気込んで出てきたのに、結局また救われちまった。呆れてやしないだろうか。
ぼんやりと顔を戻すと、ローは眉を顰めておれの上半身を眺めていた。ああ、そういえば半裸なんだった。見下ろすと、身体には縄の痕が這っていて、かなり酷い有様だ。
「…おい、服は」
「え?あ、あの部屋だ」
「……ちっ」
舌打ちをかましたローは、地面に落ちていた石ころを拾い上げ宙へと投げた。ブゥン、と“円”が広がる。
「シャンブルズ」
石があった場所に、ぱっとおれの服と靴が現れた。ローが降ってきた服を掴み、「とっとと着ろ」とおれに突き出す。迷惑かけてごめん、と口の中をもごもごさせながら、おれは服を受け取った。
ひりつく痛みをやり過ごしながら服を着ている間、ローは何も言葉を発しなかった。
ハイネックからもぞりと頭を出すと、静電気で髪がパチパチと広がる。顔に張り付いて気持ち悪い。ふるふると頭を振るおれの、好き勝手に跳ねた髪に、ローの手がおもむろに伸びてきた。
「………」
しかし筋の浮きでた腕は、ぴた、と不自然に宙で止まった。…驚いた。撫でられるのかと思った。動かないそれを目で追いながら、おれは口を開いた。一番気になっていたことを、まだ聞けていない。
「…飯、届いた?」
「……あァ。無駄に豪勢な出前が大量にな」
「へェ…そんなら、良かった」
「……お前は、」
腕を下ろしたローは、何か言い難い様子でおれを見ていた。それに首を傾げると、大きなため息がかえってきたのできゅっと身が縮む。何か気に障ること言ったか?
「…悪ィ、来てくれてありがとう。…なんで分かったんだ?」
慌てて詫びを述べると、ローは帽子を深く被り直しながら首を横に振った。
「帰りがてら話す。…お前、何も食ってねェだろう。飯がまだ余ってる」
おれの二の腕を鷲掴みにして、ローは人の波を縫って歩き始めた。色町の空気に呑まれた人間の一人が、手を引かれるおれを見て囃し立てるように口笛を吹く。お盛んだねェ、という的はずれな戯言は、黙々と進むローには全く響いていないようだった。
もうおれに呆れちまったのか、とか。聞きたいけど、あまりに情けないのでやめた。
町を抜けて、畑道に出る。とっぷりと暮れた夜空の下、街灯も無い道で、青白い月明かりだけが歩を進めるための頼りだった。ローと二人、ベポ達の待つ小屋へと歩を進める。ローの手は既におれから離れていた。
「…なんで、天馬にならなかった」
少し前を歩くローが、低い声で問いかけてきた。重苦しい空気に段々と落ち込んできたおれは、俯いてローから顔を背けた。
「……タイミングが無くて…」
「…小屋の外にあった飯があまりに高価だったから、なんとなくお前の行動は読めた。…とっとと撒いて戻ってくると思ってたがな」
おれが戻らないから、探しにきてくれたのか?ぽぽ、と心に何かが灯る。…いや、いやいや、駄目だ。邪念を飛ばすように首を振る。こうやって甘えるから、役に立てないんだ。
「そこら辺の奴にお前の特徴を言うと、すぐにあの宿屋を教えられた。男と連れ立って入っていったと」
耳馴染みの良いローの声が、夜の空気にぽつぽつと響く。おれは俯いたまま、強く拳を握った。
「…これまでも、身体を売って生きてきたのか」
「それは、してねェ。弟が止めてくれと言ってきたし、親とよく似た顔を売って生きるのは嫌だったから」
「……じゃあ、何故こんな真似をした。お前の頭ならもっとマシな方法を考えられた筈だ」
じゃり、と砂が音を立てて、ローが此方を振り向いて立ち止まる。その声に僅かだが怒気が含まれているのを感じて、おれは困惑した。やっぱり迷惑かけたから、怒ってる?でも、迷惑かけたくてこんな事したんじゃない。ただ、あんたの役に立ちたかっただけだ。
…それに、あんたが。
「…あんたが、この見てくれを褒めてくれたから」
「……何?」
「馬の姿も、この目の色も。あんたが嫌いじゃないって言ってくれたから、なんかちょっと、好きになって。……使ってみるのも良いかもしれねェって、思ったんだ」
耳が熱くなって、ぎゅっと目を閉じた。自意識過剰とか、思われた?でも本当のことなんだ。ローの言葉ひとつひとつが、おれの中で異常に大きい割合を占めていて、自分が気持ち悪い。
…気持ち悪いって、思われたら嫌だな。でも、あんな男に媚びて大人しく縛られて、べたべた触らして。……あれ、開き直って無視してたけど。これって心底気持ち悪ィんじゃないか?
ぞ、として、手錠の感触が残る手首に思いきり爪をたてる。しかし、少し冷えたローの手がそれを阻んだ。肌に食いこんでいた爪がゆっくりと持ち上げられる。
手首を掴むその手の刺青を追って、恐る恐る顔を上げた。月明かりに照らされるローは何故か、少し微笑んでいた。てっきり、嫌悪に歪められているかと思っていたのに。戸惑って瞬きを繰り返すおれの額を、長い指がツンと弾く。
「お前、馬鹿か」
「……馬鹿じゃねェ」
「いいや馬鹿だ。……良いか、よく覚えておけ。おれは気に入ってるもんを、他の奴に取られるのは心底気に食わねェ」
手錠に拘束されていたとこほをローの手が強く握りしめる。
「…リバー。お前の見てくれも、その自分勝手でややこしい内面も、おれは気に入ってる。……だから、それを他人に売ろうなんざ金輪際考えるな。お前の命はおれが受け持ってる。クルーになったからには素直に言うこと聞いてもらうぞ」
ひゅ、と息が詰まって、おれは呆気に取られてローを見つめた。
そんな、そんな優しいことを言ってくれるのか。たかだか数日前に出会っただけのおれに。海賊なら、使えるもんは使って、いらなくなれば捨てれば良いのに。…あんたは本当に、何処までも海賊らしく無い。
「…あと、」
ローは片方の口角を上げてニヒルに笑った。帽子の影に隠れた目が細められる。その表情を見ておれは、ローが自分よりも六つも歳上なのだということを何故かふと思い出した。酷く大人びていて、包み込まれるみたいだ。
「お前が今までどうやって生きてきたのかは知らねえが、今はおれ達がいる。餓鬼のくせに一丁前に一人で動こうなんざ考えるな。何も考えず、たまには頼りゃ良い」
とんでもなく、優しい大人。
生まれて初めて出会ったそれが、なんとおれの船長。ちょっと奇跡みたいだ、と柄にもなく考えてしまった。
あまりに優しい言葉の衝撃に耐えながら、薄らと口を開けてローを見る。なんだか目の奥がじわりと熱い。静かに手が伸びてきて、今度は途中で止まらずに、少しぎこちなくおれの髪をゆっくり撫でた。
「帰るぞ」と穏やかな声で言われて、おれは何も話せないまま、ただひたすらに頷くことしか出来なかった。