船長室の扉が開く。とんと背中を押されて、ふらつきながらローの私物で一杯の部屋の中へ入った。おれはむくれた顰めっ面のまま、足早に隅に置かれた棚に向かう背中を睨みつけた。
棚の中には中身が推測出来ない薬瓶やら、医療器具に実験道具。几帳面に整列したそれらの中から手の平サイズの壺を取り出して、ローは未だ部屋の入口で突っ立ったままのおれを振り返った。
「何拗ねてやがる。こっちに来い」
「…拗ねてねェ」
「じゃあその顔はなんだ」
長い脚で悠々と此方に向かってきたローに顔を掴まれて、頬を膨らましていた空気がぷすりと抜ける。そのまま二人してむっつりと見つめあって、先に可笑しそうに口を歪めたのはローの方だった。
「……、間抜け面」
「うっへェぞ」
「ほら、とっとと座れ」
頬を掴まれたままずるずると誘導されて、何時ぞや一晩を過ごしてしまったベッドに座らされた。カバーもシーツもあの日と変わらず真白く綺麗で海賊船に似合わぬ清潔感に溢れていて、この男が正真正銘の医者なのだと思わされる。
正面に立ったローは壺から何かを掬いとって、大きな両の掌でそれを広げて手に馴染ませている。華やぐ花のような香りが鼻をくすぐった。なんだかツヤツヤと光っていて、ぬめる液体のような。
「何、それ」
「オイルだ。ノースブルーにいた頃に買った一級品だが、あまり使う機会は無かった」
「…そんなもん、おれに使って良いのかよ」
「おれが使いたいから使うだけだ。お前の意思は関係ねェ。……倦怠感があるのは何処だ」
有無を言わさず見下ろしてくる怜悧な瞳から目を背けて、おれは渋々肩に手を回した。
「一番だりィのは、肩甲骨らへん。翼を使いまくったから」
「肩甲骨か。…天馬に変身すると翼やら尻尾やらが生えて筋肉の形も人間とはまるで違ったもんになってるが、それはどういう感覚なんだ。異物をしまい込む感覚なのか、人間の状態と変わらない感覚なのか」
「え…っと、うーん…どっちかっつーと、人間でいる感じと大して変わらない。角だけは最初異物感がえぐかったけど。蹄とかも手足を動かす感覚と変わんねェし、翼を動かすのも肩の筋肉の延長線上を動かす感じっていうか…上手く言葉にできねェけど…」
今こうして人型で会話しているのも、天馬として言葉を発するのも感覚的に差異はない。考える前に当然の如くこなしていた事で、人にこんなことを聞かれた経験も無かったし自信は無いが、ローは乏しい表情を変化させて興味深そうに聞いてくれた。
「しかし延長線上ということは、厳密には肩甲骨そのものが翼になる訳では無いんだろう。…服を脱いで翼を出せ。肩も翼も両方ほぐしてやる」
「そこまでしなくても」
「問答は飽きた。早くしろ」
横柄。横柄だ。不遜な物言いに口を尖らせるポーズをとるけど、ローの言うことに逆らう訳も無いし、何より提示された施術内容が魅力的すぎる。おれはいそいそとタートルネックを脱ぎ捨てて上半身をさらけ出し、ぶるりと身体を震わせた。
ローが黙って見守るその眼下で、ばさりと大きく翼を広げた。ついでにニョキ、と角が生える。翼と角だけは、どっちか片方だけを出すということが出来ない。
ベッドを余裕で飛び越えるサイズの黒い羽が、船長室を圧迫する。ローは伸びてきた角を手で撫でながら広がる翼を見上げた。
「室内で見るとでかいな」
「ん。だから部屋ん中じゃそんな出さない。…こんな綺麗なベッドなのに羽も散るし…」
「どうでもいい。…触るぞ」
感情の読めない声色で、でも律儀に一声かけてから、ローはおれの肩に手を滑らせた。細長い指がゆっくりと丁寧に肌を揉んで、城に囚われていた時から溜まり続けていた澱みとか痛みとかがどんどんとほぐれていく。少し冷たい手が肌を滑って、すっげェ気持ち良い。外科医ってマッサージまで上手いのか?本当に、あまりにも気持ち良くて口が開いて間抜けな顔になってしまう程の腕前だ。まだ肩だけなのに、こんなになって大丈夫かおれ。
心地良い感覚に浮かされながらゆるゆると顔を上げて、ローを見つめる。いつもと変わらない、静かで落ち着いた表情。帽子を被っていないから下ろされた黒髪がローの動きに合わせて揺れていて、なんだか、胸が締め付けられた。
じっとその様を眺めていると、ふと手から目を外したローと目が合った。
「…あァ、うつ伏せになった方が楽か?その方が翼の方もやりやすい」
「……いや、このままで良い」
「座ってるのが辛そうなほど顔にしまりが無ェが」
「うるせー、こ、このままが良い。……あんたの顔が見えるし…」
「…………」
…あ。…今日は、やけに笑う日だな。長い瞬きを一つして、少し目元を和らげたローを食い入るように見つめる。分かりづらいけど、きっと笑ってる。
黙ったまま肩から手を滑らせたローは、右側の翼の上の方の筋肉をほぐし始めた。オイルも薄れて乾いてきた手に優しく羽を擦られて、おれはふるりと身震いした。こんな感覚初めてで、なんだか気持ち良すぎて怖い。
気を紛らわそうと傍らの机に目を移すと、イッカクに見せられたのと同じ先日の夕刊が広げられていた。丁寧に物を扱うローにしては珍しく、乱雑に頁をめくった形跡もある。
…もしかして、おれの記事が無いか探してくれたんだろうか。そういえば今朝だって、わざわざ船を海面に上げてまで朝刊を買うなんて。海軍が言っていたことを気にして…おれの、ために。
心臓が掴まれたように痛くなって、おれは俯いて身体を両手で抱えた。左側の翼に移動しようとしていたらしいローが、正面で立ち止まる。すっかり倦怠感も吹き飛んでぽかぽかと温かい翼。ローの手でほぐされた身体。全部が熱くなって切なくて、何故だか苦しい。
「…どうした」
「何も、無い」
きつく目を閉じて、掠れた返事を返す。ローは暫く動こうとしなかったが、やがて服が擦れる音がして、力を込めていた手に冷たい指が触れた。
「………傷が、ましになったな」
「え…?」
「この船に来た当日は手錠の跡やら額の傷やら酷いもんだったが、随分と薄れた」
手首にうっすらと残る傷跡のひとつを、長い指が撫でる。そんなこと、覚えてたのか。おれは震える手でその指を掴もうとして、やはり掴めない。この手に縋り付く資格が、自分には無いような気がして。
「……なんで、ここまで…」
「………」
「なんで、ただの餓鬼にここまでしてくれんの。おれはあんたの傍にいれたらそれで良いけど、あんたには何の得があんだよ……」
震える声を絞り出す。ローはなんでおれをクルーにしてくれたのか。理由なんかどうだって良い。良いけど、ここまでの優しさをくれるローに返せる何かが、おれには無い。
黙り込んでいたローの手が、中途半端に持ち上がっていたおれの片手に触れて、すぐに離れていった。
「…お前の、目が………」
「…え、目…?」
ぽつりと零された言葉に顔を上げると、ローは眉を寄せて手の甲で口を抑えていた。つい口走ってしまった自分を恥じるような、見た事の無い表情。
「…百人もの海軍を相手取った奴は今までにいない。経験の無いお前がよくあそこまでやった。その礼だ」
「は、はァ?それだけが理由じゃないだろ、なんか言いかけてたじゃねェか」
「黙っとけ」
「んでだよ!礼なんてキャラじゃねェくせに、っわぶ、」
後頭部を思い切り掴まれて、引き締まったローの腹筋に頬が押さえつけられた。硬い。硬すぎて顔が痛い。おれは非難の意を込めて、角をぐりぐりとその腹筋に押し付けた。
「左がまだだ。そこで大人しくしとけ」
おれを腹にもたれさせたまま、ローは器用にもう片方の翼のマッサージを始めた。目が、と言いかけたその続きが無性に気になるのに、鼻腔いっぱいに広がるローの香りにそれどころでは無くなってきた。薬とか、潜水艦の機械じみた匂いとか、本の匂いとか、その奥に紛れたロー自身の香りが混ぜこぜになった、多分これは1番のおれの弱点。
一気に脳みそがふにゃふにゃと蕩けるような錯覚がして、ローの服に頬を埋めたままおれは押し黙る。ああ、角が邪魔だ。こんなもんが無かったら、今すぐ顔を思い切りうずめるのに。
翼を柔らかくほぐしながら、頭上で鼻で笑われる気配がした。こいつ、絶対気づいてる。おれが自分の匂いに弱いって。
結局色々な疑問や葛藤をはぐらかされたまま、おれはローのマッサージを甘んじて享受してしまったのだった。
*********
昼時にやっと解放されて、おれはふわふわと軽くなった身体で操舵室に向かった。次の島までどれくらい間が空くのか気になったからだ。
体力不足と筋力不足の解消に向けて鍛えなければならないし、次の島でまた海軍に狙われないとも限らない。
艦橋に位置する操舵室まで階段を上がり、分厚い扉をノックする。「はーい」と返ってきたのは、ベポの声だった。
「ん?あーリバー!新聞はどうだったの?記事載ってた?」
昨日の内にローに話を聞いていたのか、ベポは開口一番に新聞のことを尋ねてきた。おれは首を振ってそれに応える。
「……いや、載ってなかった」
「えー!?なんで!?」
「…よく分かんねェけど、海軍はおれの存在を揉み消したいらしい」
「え?え?なにそれ?リバー何者なの?」
「自分でも分からん」
余り深く考えない質らしいシロクマは、数秒うんうんと首を捻ってから、「まァいいや!」と頷いて舵の方へ身体を戻してしまった。良い答えを返せないおれもその方が有難かったので、特に話の続きもせずベポの傍らに近寄った。
「次の島まで、どんくらい」
「あと三日くらいだよー」
「三日か……結構遠いんだな」
「そんな珍しい距離でも無いよ。グランドラインは航路によっては次の島への行き方も分かるか危ういくらいだから」
「へェ……」
「次は夏島らしいよ!前の島の人に聞いた。リバーの故郷とは正反対だなァ」
確かに年がら年中積雪が続いていたオルール島にいた身としては、先の春島ですら驚いたくらいだったのに、次は夏か。想像もつかない。
「おれは夏島苦手だけど、ウニあたりは一番好きな季節だって言ってた。リバーも気に入ると良いなー」
朗らかに笑うベポに、笑みを返す。少しでも鍛えるだけ鍛えて、あいつの優しさに応えたい。そんなことを思いながら。