操舵室を出て真っ直ぐに書斎へと向かった。ローにマッサージしてもらった身体は綿のように軽くて、一歩一歩の軽快さがまるで違う。深海に潜るポーラータンク号は薄暗い閉塞感が漂っていて、それにまだ慣れない部分もあったけど、もうそんなことも忘れてしまう程の心地良さだった。
奥まった船内の書斎の扉を、意気揚々と開ける。相も変わらず人がいない静かな空間。『肉体の構造』、『筋肉の鍛え方』、『体感を強くする』、背表紙を見て適当な本を棚から抜き出していく。頁を流し読みしながら適切な情報だけを頭に入れて、書斎でトレーニングを開始した。
体力を増やすには勿論走り込みなんかも効果的なんだろうが、狭い艦内でドタバタと走り回るのもしのびない。ただでさえ大した役に立てていないのに、クルーの迷惑になることだけは避けたいってもんだ。
兎に角、圧倒的に筋力不足だ。疲れない肉体造りから始めないと。決して広くはない部屋だが、おれは背中から翼を出して、書斎の床に手をついて逆立ちの体制になった。天馬の翼ってのは、結構重い。軽い人間一人分くらいの重量がある。これを生やしたまんま逆立ちの姿勢を保つのはかなりの苦行だ。
全ては、これから来るであろう壁に打ち勝つため。どんな敵がいるのかも分からない。ただ筋肉をつけることだけが正しいのかも分からない。でも、この船を守れるくらい強くならなければ。
おれは歯を食いしばり、震える腕を叱咤した。
*****
誰にも告げること無く、一人黙々とトレーニングを積んで今日で三日目。
この三日の間、ローはちょくちょく船を浮上させてカモメから新聞を買っていた。おれは食堂の開いたドアから、ローが顔を顰めて船長室へと帰っていくのを毎朝見届けることになった。結局ハートの海賊団の記事は、あの日以来一度も紙面を飾らなかった。
新聞が砂糖に群がる蟻のように連日書きたてたのは、麦わらの一味に関する記事だ。全員が賞金首だとか、トータルバウンティーが幾らだとか、あの麦わら帽子の男の家系がとにかく凄いとか。
イッカクが仕入れた新聞についてきた手配書をなんとなく眺めて、思わず笑ってしまったのは「サンジ」って奴の肖像画だ。そもそもなんでこいつだけ絵なのかも疑問だし、分厚い唇に、妙ちきりんな形の眉毛。こんな人間がいてたまるもんか。あまりに酷いその絵がツボに入ってしまい、おれはそいつの手配書だけを抜き取ってベッド際の巾着袋に詰めておいた。笑いたくなった時にはこいつを見よう。
明日にはもう、次の島に着く。夜になるとクルー達が忙しなく船内を駆け回り始めた。朝にはもう到着するってんで、準備やらなんやらがあるらしい。
おれも朝から書斎に篭って続けていたトレーニングを切り上げて、制御室で機械の整備をしているペンギンの元へ向かった。きついトレーニングを終え、汗をかいて首にはりつく髪はもう肩まで伸びてしまった。いい加減切らないと、鬱陶しいったら無い。
緩慢にドアを開けて、タンクをいじるペンギンの隣に立つ。ちらりと此方を見たペンギンは、苦笑して手首につけていた輪ゴムを寄越してきた。
「ベーコンの袋縛ってたやつだけど」
「いや、何でもいい。……ありがとう、助かる」
垂れ下がった前髪は入らないが、大雑把に髪をまとめて一つに括る。幾分かすっきりとした気持ちでタンクへと視線を向けた。
潜水艦にあるバラストタンクは、船の肝だ。これが無いと浮上も潜水も出来ない。不備が無いかペンギンが確かめていた作業を共に進めるため、おれも機械に向き合った。
しかし、何故かペンギンが突っ立ったまま動かないので、伸ばしかけた手を止めて横を向き首を捻る。
「……何?」
「いやー、ここに来てそんな経ってないように思えるけどさ、お前髪伸びたよなァ。初日なんか血だらけでどろどろだったのに、こーんなフワフワさらさらの髪になっちまって」
「んだそりゃ」
後ろ頭に出来たおれの髪の尻尾を指でぴょんと弾いて、ペンギンは「これがほんとのポニーテールだな」とあまりにしょうもないことを口走った。大きな溜息を返して、タンクに向き直る。ペンギンも手を下ろし、慣れた手つきでタンクの栓を捻り始めた。
「……リバー、書物庫に篭って筋トレしてるってまじなの?」
「……そうだけど」
「言ってくれたらダンベルの一つくらい貸してやれるぜ?これでも鍛錬は欠かさない主義だからよ」
「あーーー…いやでも、そしたらあんたのが一個無くなるだろ」
「…はあ?………お前さあ…」
ぽりぽりと首をかいたペンギンが、困ったように息を吐く。頭に乗っかったペンギンまで一緒に揺れて、少しシュールだ。首を傾げて、帽子の影に隠れた目元を見つめると、ペンギンは「あんなぁ」と言い含むようにおれの肩に手を置いた。
「おれだってこんなの柄じゃ無ェけどさ。幾ら幻獣種でどんだけ頭良くたって、お前はあの島から出たこともなかった。海に関しちゃド素人だろ。どんな敵がいんのか、海賊がどうやって戦うのか、まだ殆ど何も知らない。あんな狭い部屋で閉じこもらなくたって、おれとか皆に……嫌なら船長でも良い。色々聞いて頼って、一緒にトレーニングでもなんでもすりゃ良いだろが。この三日食堂以外でお前の顔を見ねェって皆心配してたぜ?」
しん、ぱい。心配か。黙ってペンギンを見つめたままぎゅっと拳を握りしめた。
ローにも前、似たようなことを言われたな。一人で動こうとしないで、たまには頼れば良いって。この船の奴らは本当に、信じられない程に優しい。
「……あんたらにそうやって言って貰える度に、すげェ嬉しくなるよ。あったかくなるし、とにかくその瞬間が幸せで、何か色々どうでもよくなる。…おれは何も考えずに甘えていいんだって、馬鹿みてぇに思っちまう」
ローはおれが何者であれ、ここで胸を張って海賊をやっていれば良いと言ってくれた。海軍を倒しただけで、破格のマッサージまでしてくれた。この上なく嬉しい。幸福だ。でもそれだけで良いのだろうか。
機械にのろのろと顔を向けて、ぼんやりと忙しなく動く鉄の肌を見つめた。ペンギンも踵を返して気蓄機をいじり始めたが、黙っておれの話を聞いてくれている。
「…スラムではさ、何かを得るには何かを差し出さなきゃならなかった。弟以外の相手とは、そうやって取引をして生きてきた。はした金を渡したり、何かを盗んでこいと言われたり、そいつの気に食わない人間を傷つけろと言われたり。そうしなきゃ食っていけなかった。よく騙されたけど、それはまぁお互い様だ。セックスで儲けることだけは弟があんまり否定するんで断ってたが、あいつが止めなきゃきっと首を縦に振ってた。……親だってそうだ。出費と釣り合う価値が無かったから、おれ達を捨てた。…人と人が繋がるためには、何か対価がいる。例外は、弟だけ。ずっとそうやって生きてきた」
ペンギンは手を休めずに、しかし確かに頷いた。ローだったら今頃頭を撫でたりしてくれているかもしれないが、ここでおれの方を向かないのが、多分この男なりの気遣いで、優しさ。それぞれの形でおれを気にかけてくれる。この船は、今まで会ったことのない大人で溢れている。
「…だからさ。あんたらにそうやって心配……とか、してもらう度、なんか返さなきゃって思うよ。ただの奴隷みたいに捕まってたおれを拾って、美味い飯食わせてくれて、寝床をくれて……何にも返せてないのに、これ以上頼れねェよ」
「…仲間になったんだから、どうでもいーだろそんなことはよ。キャプテンもおれらも見返りなんか一個も求めちゃないぜ?」
「分かってるよ。……でもおれァやっぱり、一人でもっともっと強くなって、あんたらのこともローのことも、守れる人間になりたい」
そう言い切って、おれは頬をぱんと叩いた。制御室ですべきことはもう無い。ペンギンだってとっくに作業は終わっているだろうに、でかい溜息をついた後は依然としてのろのろと手を動かし続けていた。
「…腹減った。もう行く」
「………はいはい。いっぱい食えよ頑固くん」
不満げなペンギンの声に肩をすくめて、足早に部屋を後にした。
何も考えずにただ人を頼るとか、そんなことをする自分は、簡単に想像が出来ない。死に物狂いで生きてきた過去が邪魔をする。しかも今のおれは、政府に目をつけられているかもしれない身。ペンギンだってローから聞いているだろうに、何故そんな奴に優しい言葉をかけられるのだろう。
黙々と歩く通路の窓。向こうに広がる深海はすっかり夜の冷たさを纏っていた。
ローにほぐされた身体は、この三日間ですっかり重くなっておれの足へとのしかかってきていた。