完全に意識を飛ばしたリバーの頭をひと撫でして、ローは彼の身体を裂いた斬り痕の接合を始めた。胸元から背中にかけての二本の裂傷は、青年の白い肌を痛々しく切り裂いている。思わず舌打ちを漏らしながら、ローは手のひらを翳した。
赤黒い傷口の細胞を繋ぎ合わせて塞ぎ、後には無惨に破れた服だけが残った。溢れていた血がピタリと止まり、荒かったリバーの呼吸が次第に穏やかになる。
……失血で、危うく死ぬところだった。いや、危うくではなく確実に。あの仮面の男の動きは、狩りで獲物の喉笛を寸分の狂いなく断ち切るためのそれだった。
しゃがみ込んで顔に張り付いていた長い黒髪をかき分けてみると、リバーは苦しげな顔で寝入っているようだった。額に浮かんだ冷や汗を拭ってやると、黒々とした長い睫毛がむずがゆそうに動いた。
船長を庇って致命傷を負うなんざ、全く殊勝な部下を持ったもんだ。と、ローは皮肉を込めて口元を歪めた。
ローは、断じて情に厚い訳では無い。ドライな質であると自覚しているし、感傷に浸るような性分でも無い。だが、この青年が血に塗れるのは心底気に食わない。覚えの無い奇妙な感覚だった。
いや、そういえば何時であったか、喧嘩をふっかけてきた敵の刃をすんでのところで躱したベポの頭頂部が、つるっパゲになってしまったことがあった。あの時もベポの絶妙なフォルムが損なわれたことに酷く腹が立った。自分の気に入りが、汚されたような。…あれと、同じような感覚だろうか。
…しかし、ベポへのそれとはどこか違うような気もする。 心の内を巣食うこの感情は、もっと熱くて、ひどく切ない。
ローは常にない不明瞭な思考を巡らしながら、リバーの身体に手を差し入れ横抱きにした。腕に18歳の青年の重みがかかる。殆ど骨と皮だけだった最初の頃と比べれば、随分と健康的な肉体になったと思う。今は失血のせいで、その均整の取れた体はすっかり青白くなってしまったが。
ローの腕の中で縮こまり胸元に頭を預けたリバーが、呻きながらローの服にその小さな頭を擦り寄せる。小さな子供が、あたたかな布団に潜り込むような仕草だった。意識を失ってようやく素直に欲望に従うのだから、天邪鬼にも程がある。
胸元にツンと尖った鼻を寄せ深く息を吸い込んだ青年を眺めていたローを、再び筆舌に尽くしがたい感覚が襲った。サラサラと流れるリバーの黒髪を、無性に撫でてやりたくなる。むず痒く、心臓が締め付けられる。
「…?」
慣れない感情に眉を寄せながら、ツタを踏みしめ大股に仲間の元へと向かう。行く先ではペンギンが男の心臓を握りしめ、シャチが生首の髪を掴んでブラブラと吊るあげているところだった。
「……何か吐いたか」
「キャプテン!ええ、言葉通じましたよ!」
「それで」
「それがまァ…こいつの村、疫病で人が半分死んじまったそうで」
「…疫病」
「治す手立ても無くて途方に暮れてたところ、おれ達の前にこの島を通った海賊どもが………その、天馬の能力者がこの海域にいると、噂話をしてたそうです」
戸惑いがちに話すシャチを遮って、ローは眼前にぶら下がる生首の仮面を剥ぎ取った。葉で作られた仮面が落ち、日に焼けた歳若い男の、苦しげな顔が顕になる。頬に掘られた4本の引っかき傷のような形の刺青が、男の首を獣めいて見せていた。
ローはリバーを抱き上げる腕に無意識に力を込めながら、怜悧な視線をもって男を見下ろした。
「その連中は、こいつのことをなんと?」
男は眉を潜めリバーを見やってから、ローを見上げて震えた唇を開いた。何故自分が生首のまま生きているのか、得体の知れぬ現状を作り出した主であるローに酷く怯えているようだった。
「…角の生えた天馬の実の主は、人間のときも馬のときも、美しい姿をしている。美しいから、奴らが欲しがっている。見つけだして、奴らに売り飛ばせ。そうすれば、金が手に入る…」
下卑た海賊たちの声が、そのまま脳裏に聞こえてくるようだった。
言葉をとめた男は、もう一度リバーに視線を戻した。シャチの手の下で揺れながら、ローの腕で眠るリバーの横顔を瞬きひとつせずに見つめている。混沌とした状況に見合わず、その表情がどこか陶然とし初めた。
ローが鋭く舌打ちをしてリバーを抱き込めると、男は正気に返ったように目を逸らした。
「…その人間が、奴らの話してた天馬だとすぐ分かった。一角の天馬なんて他にはいない。金が手に入れば、村を救う、方法を見つけに海に出られる。だから襲った」
先の島で、リバーが見せた大立ち回り。きっかけはあれだろう。黒の天馬が湖を生み出し、悠々と空を掛ける様が、人の目につかないはずもない。噂がこの海域に広まっていたとしても不思議は無い。新聞に載っていなかったのがあまりにも不可思議だったのだ。
しかし、ひとつどうにも引っかかるのは海賊達が言ったという“美しいから、奴らが欲しがっている。見つけ出して、奴らに売り飛ばせ”という言い様だった。
「その海賊どもが言っていた、“奴ら”ってのはどこのどいつのことだ。…人買いか」
ローの脳裏に、こびりついた高笑いが響く。まさか、あの男が既に目をつけていたなんてことがあったとしたら。瞼の奥で、下卑たサングラスの向こう側の目が弧を描く。
胸元に擦り寄る青年の温もりを感じながら、ローは人知れず奥歯を噛み締めた。
「…知らない。おれが聞いたのはその馬に価値があるということだけだ」
「そいつらは、何処の島を目的としているか話していたか」
「話していた、が、教える義理は無い。…おれを殺せ」
「あァ!?本当に心臓ひねり潰してやろうか!」
ペンギンが男の心臓をこれみよがしに掲げたが、男は全てを諦めたように目を閉じた。
「村はもはや病に倒れて朽ちる運命だ。ここで足掻いたところでどうにもならない。…お前たちの仲間を襲ったことは詫びる。生きるためとはいえ…本当に美しいものを切ってしまった。森の精霊も、さぞお怒りのことだろう」
言い切ると、男は真一文字に口を閉じて石のように固くなってしまった。これ以上は口を開きそうには無い。「森の仙人?」とベポの素っ頓狂な声がぽつりと響き、シャチとペンギンが、困ったようにローを振り返った。
眉間に皺を寄せたローの腕の中で、リバーが小さく呻いて身動きをした。見下ろすと、細長いリバーの指がローの服をぎゅっと握りしめている。波打ったローの胸元に顔を埋め苦しそうに息を吸い込んだかと思うと、その表情がふっと緩んだ。
「んー、ロー……」
薄い唇が開いて、掠れた声が名前を呼んだ。
………こいつは、本当に。
ローは鋭く舌打ちをして、リバーの頭を勢いよく胸元に抱き寄せた。されるがままの青年は安心しきったように筋肉を弛緩させ、むにゃむにゃと何かを口走りながら、ますますローの身体に擦り寄った。
シャチとペンギンがにやにやと此方を見やってくるのを無視して、ローは未だ無言のままにぶら下がる男の生首と対峙した。
「……おい、その朽ちる運命の村とやらに連れて行け。おれは、医者だ」