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谷底に転落していくみたいに頭はどん底状態だったが、外が白んでいっていることはなんとなく分かった。もう眠れる気がしないから、一足先に起きてとっととポーラータング号に戻ろう。

ぱちりと瞼を開けて、凝り固まった身体を無理やり起こした。ベポは勿論、シャチもペンギンも、床に寝転がっていて全員未だ夢の中だ。ローは家の中にはいなかった。

足を踏ん張って立ち上がる。途端に、襲いくる浮遊感。あ、熱がでてるとすぐに分かった。自覚した瞬間に熱を帯び始めた額に舌打ちが漏れる。なんて弱っちいんだろう、おれは本当に。スン、と鼻を啜って一歩踏み出す。よし、多分バレることは無い。いつも通り歩ける。

外へ出ると、ギラついた朝日が一気に襲いかかってきた。直射日光が肌に刺さって一気に汗が滲む。朝からこれって、有り得ないだろ。夏島で生きていける奴の気がしれねェ。

そういえばずっと気を失ってたから、この村から船への方角が分からないことに気がついた。空から探した方が早いか。肩甲骨に力を入れ、天馬の翼を出そうとしたが、それは叶わなかった。
足の底が浮いたような感覚がして、身体から急激に力が抜けた。

ああ、熱って、こんな感じだったっけ。

あっという間に膝が言うことをきかなくなって、視界がブレる。
最近は割と力もついてきたと思っていたのに、いつからこんな貧弱な身体になっちまったんだろう。重力に身を任せて倒れようとしたその瞬間、勢いよく迫ってきた見慣れたサークルに自分が覆われたのが分かった。青白い円が、ジャングルの景色とおれとの間に壁をつくる。げ。思わず顔が歪んだ。

最悪だ。
なんでもう起きてんだよ、ばか。


「…シャンブルズ」


少し怒ったような声。ぱ、と身体が掻き消える感覚とともに、瞬きひとつした時にはもう、逞しい腕の中にいた。見慣れた黄色い服の布地が目と鼻の先にあって、すぐに突っぱねようとしたが背中に回された腕に阻まれて身動きが取れない。

嫌だ。こんな。どうしようも無く離れがたい腕の中。
匂いも駄目だ。息遣いのひとつひとつも、チカチカ反射するピアスも、全部嫌だ。

一晩ぐるぐる考えていたことが、簡単に吹き飛んでしまう。

「おい、暴れるな」
「…っばか、ばかだあんたは。このやろ、離せ、」
「リバー」
「~~!」

耳元で吐息とともに名前を呼ばれて、ふにゃりと力が抜けた。腑抜けた身体を両腕で抱え直されて、筋肉質な胸元に頬が擦り寄った。骨ばったきれいな首筋と、溝の深い鎖骨、揺れるパーカーの紐。額を、整えられた顎髭がざりりと擦った。ただでさえ火照った顔が、更に熱くなる。

こんなのずりィ。卑怯だ。

耳元で聞こえるローの鼓動の音に、胸が縮む思いがした。思わず抱きつきたくなる衝動を、朦朧とした理性がなんとか食い止めた。
ふらふらとローの背に回されかけた手は大人しく戻り、自分のズボンを掴むべし。じゃないと脳が溶けちまう。縛られたように硬直して動けないおれの額を、冷たいローの手の甲がさらりと撫でた。滲んだ汗が刺青に吸い付く。

「…おい、熱があるじゃねェか。昨日眠れてねェな?」
「ね、た」
「おれに嘘をつくな」
「…寝てない、けど。ごめん頼むから、自分で船に戻ってちゃんと寝るから、離してくれ」
「…チッ、昨日のことか。またごちゃごちゃと考えやがって…何を不安に思う必要がある。おれを信じられねェか」
「……!!違う!」

弾かれたように顔を上げた。視界いっぱいに広がる、ローの顔。隈のできた目が、真っ直ぐにおれを見下ろしている。
背後には少し登り始めた朝日がギラギラと光っているのに、ローの周りだけは振りゆく雪のように涼しい心地がした。熱に浮かされた頭が、スっと冷えていく。

信じてる。あんたのことを一番に。なんなんだ、おれにとってあんたは。本当に不思議だ。
背中に回ったローの腕。密着した身体。…心からほっとするのに、泣きたくなるほど苦しい場所。

「…あんたのことは、信じてる」
「じゃあ一々不安になるな」
「おれが、おれのことを信じれないんだよ…」
「ああ?おれが拾ったお前なのにか」
「だって、自分のことなのに分からないことだらけなんだ」
「なら、知れば良い」

優しさを隠しきれていないローの声。耐えきれなくなって、目を閉じた。ローの胸元に額を擦り付ける。泣いてたまるか。ぼろぼろの理性が、必死で涙腺を締めている。


「おれは、おれのことを知るのが、怖い…ッ」


背中に回ったローの手に力がこもった。
…カンカン照りの夏島で二人してくっ付いて、馬鹿みたいだ。腕の檻の中、嬉しいのに、やり切れない。

「…なら、目の前にぶら下がってるかもしれねェ真実から、お前は目を背けるのか?…おれが拾ったリバーって人間は、あの腐った檻の中でギラついた目をしてやがった。……そんなに弱くなかったはずだが」
「……!!」

優しいくせに、冷たい声色。見上げた先には、いつものニヒルな笑み。
ずりィ男だ、と心から思う。

「…ッ本当に分かんねェ、なんでそんなに、おれなんかのこと」
「お前がうちのクルーだからだ」
「…じゃあ他の奴らにも、こんなことしてんの」
「こんなことってなんだ」

面白がるように片眉がひょいと上がった。ローがぐっと身を前に倒して、反動でおれの背が反る。抜けそうな腰を回された腕が支えて、ローの高い鼻先とおれの鼻先がちょんと触れ合った。
馬鹿、と叫んで離れようとしたけど、コンパスのように長い脚に逃げ道を塞がれる。
医者のくせに、病人の熱を上げてどうすんだ!

「~~~っおい、近い!」
「他の連中とはこんなことやりはしないが、あいつらとは出来てお前とは出来ねェこともある。それだけのことだ」
「はァ?じゃ、じゃあなんでおれにだけこんなこと」

毛皮の帽子が、おれの頭につっかかって半分持ち上がった。普段は見れないローの額が顕になって、ばらけた黒髪がおれの額にさらさらとかかった。焦点が合わないほど近くにあるローの顔。熱で逆上せる頭に、場違いな感想がぽんと浮かんだ。
どうしよう、格好良い。
ぎゅぎゅぎゅ、と心臓が悲鳴をあげているのが他人事のように聞こえる。

「……簡単な話だ」

にや、と瞳が細められる。
“死の外科医”、なんて物騒なこいつの二つ名がふと頭をよぎった。


「これが、お前の弱点だからだ」


あァ、これが2億の首ってやつなのか。道理で、微笑むだけでこの破壊力。
今度こそぷしゅっと完全に力を抜かしたおれを、ローはそのままひょいと抱き上げた。駄目だどうしようもねェ、おれって奴は。諦めてふにゃふにゃと腑抜けたまま、ローの肩に頭を預けた。いつものこの男の香りが胸いっぱいに広がる。

肝心なことははぐらかされたままなのに、海の中なんかよりも、この腕の中の方がよっぽどおれを使い物にならなくさせる。
そうかなるほど、正に弱点。

いつもより高い位置から広がる視界に、クルーの皆が家から出てきたのがぼんやりと見える。どうやら、そろそろ出航らしい。
寝とけ、とローが耳元でささやいた。促されるままに瞳を閉じる。

駆け寄ってきたらしいペンギンが、えらく楽しそうに笑いながら頭を撫でてきた。その感触のせいで、ますます瞼が重くなる。
皆がぞろぞろと森へ歩き始めた。木を踏みしめる音と、聞いたことの無い鳥と獣の声。ローとベポが航路について相談をしているのが膜の向こうに聞こえる。


例の連中は、次の島に暫く滞在----とっとと追いつくぞ---


ローの首元に顔をうずめる。視界が真っ暗になって、何も見なくて済む。薬と土と、植物の匂い。その奥にある、ローの香り。
布団の中なんかより、よっぽど気持のいい場所を知ってしまった。この男は、おれに幾つ欲望を覚えさせれば気が済むんだろう。


守りたくて仕方ない、あまりにも大事な居場所。

たとえ自分がどうなったって、ずっとこの場所がこのままで在り続けてくれたら。それだけで、なんて最高なんだって、胸を張って言い切れる。

ローの腕の中で揺れながら、微睡みの世界に落ちていく。キャプテンに抱き上げられながら眠りこける部下って、アリなんだろうか。きっと無しなんだろうな。
たとえ部下失格でも、おれはあんたの傍にいたい。…でも、おれは自分が嫌で嫌で、仕方ない。おれみたいな中途半端な奴があんたの傍にいることを、おれが一番許せない。

鼻腔を潮の匂いが掠めた。この熱帯の島とも漸くお別れらしい。

なァ、ロー。いつか、心から胸張って、あんたの傍に立てる日がくるんだろうか。


そんなこと言ったら、あんたはまた、自惚れるなって冷たく返してくれるだろうか。

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