「次の島が見えたぞー!」
朝が来る前に寝床へ戻ったおれは、ベッドの中でベポの報告を聞いた。途端がやがやと忙しなく動き始めるクルーたちに紛れて上陸の準備を始める。まともに眠れていないせいで欠伸が止まらない。
寝室に飛び込んできたイッカクが、そこらにいたクルーを捕まえて名産品がどうのとか景色がどうのとか喧しく話し始めた。
次の島は、どんな景色なんだろうか。落ち込んでいても好奇心は湧き上がる。パーカーを頭から被り、出来るだけ人と目を合わせないようにして寝室を出た。いつものように皆と話せるような気がしなかった。
夜あんなに静かだったのが嘘のように、船内は賑やかだった。シャチとペンギンの姿もあり、おれは二人に知られないようにこっそりと影を潜め、無事に操舵室の前にたどり着いた。…はずだったんだけど。
「おーい、リバー!なんか久しぶりじゃねェか?」
「元気か?次は秋島だってよー!」
思いがけずかけられたシャチの陽気な声とペンギンの少し気遣わしげな声に、肩が跳ねる。いやいや、絶対バレてないと思ってたのに、なんで。詰まる胸を押さえつつ、横目に後ろを振り返った。いつの間にか、二人とも操舵室に向かって来ていたようだった。目を伏せながら、なんとか声を絞り出す。
「…大丈夫、割と元気。…あのおれ……ベポの方手伝ってくる」
「ベポならこの中だ」
突然聞きなれた、しかし久しぶりに聞く声が降ってきた。げ。俯いたまま、足に根が生えたように動けなくなる。
やべェ誤算だ。さっきから計画破綻しまくり。まだここにはいないと踏んでたんだが。
ぎぎぎ、と油のきれた人形のように見上げた先、隈をこさえた瞳がおれを見下ろしている。数日ぶりに顔を合わせた。声も出せないまま固まるおれと見つめ合い一度ゆっくりと瞬きをしたローは、直ぐに眉間に皺を寄せ不機嫌そうな顔になった。なんか怒られるようなことしたっけ?いや避けていたといえば避けてたけど、別にローがそんなことに逐一苛立つとは思えない。
おもむろに持ち上げられたローの手が、固まるおれの頬を撫でた。そこまでされて、やっとそこにある傷跡を思い出す。
「……昨日には治りかけてたのに、また引っ掻きやがったのか」
「あ……いや、これは」
少し冷たい指先が、かさぶたになった頬の傷に触れる。すっかり忘れてた。ていうか、顔は合わせてないはずなのに、なんで傷の治り具合なんか知ってんだ。
ローは眉間に皺を寄せながら目を伏せて、そこそこの大きさであろう傷跡を指の背でなぞった。されるがままのおれは久しぶりに間近で見るローの顔から目を離せないでいた。睫毛、結構長ェよな。顔はちっさいしパーツはひとつひとつ全部格好良いし、まじでズルいと思うこの男。
惚けたままじっと見上げていると、瞼を上げたローと目が合った。寝不足で緩慢な動きをしていた心臓がひゅんと跳ねる。
「隈があるな。睡眠はちゃんととれ」
「隈って…あんたにだけは言われたくねェんだけど」
「もうじき島に着く。何日か滞在するが、お前は一日目留守番だ。速やかに寝ろ」
「……でも、」
「クルーの体調が悪ィなんて、医者としての矜恃に関わる」
「分かってるけど」
寝たくても寝れねェんだよ。それを言い出せずに口ごもってしまう。目を逸らして俯くと乱暴に頭を撫でられた。あ、これも久しぶりだ。…やっぱりたまんねェ。
「夜には戻る。おれの部屋を使え」
「は?あんたの部屋?」
「の中にある、おれのベッドで寝とけ」
「…は?」
とんでもねェこと言われた気がするんだけど。ポカンと口を開けてローを見つめ返す。高い位置から見返してくる表情はすっかりいつも通り、至って落ち着いた様子だ。
ベッド、ベッド?確かに一回この船に来たばっかりのとき、あの部屋のベッドで眠りこけたことはあったけど。あん時は意識も朦朧としてたしノーカンだろ。
「…な、なんでわざわざあんたの部屋で?」
「分かんねェか。前に言っただろ。……ほら」
ローの大きな手のひらが不意におれの鼻と口をやんわり覆った。どうしようもなくたまらない匂いが肺に広がる。ローの匂い。
固まっていた肩から力が抜けて、顰めていた眉がへろりと下がるのが自分でも分かった。
たち悪ィ、完全に利用されてんじゃねェか弱点。
「おっと」
後ずさってよろめいた身体をいつの間にか後ろにいたらしいシャチが支えてくれた。慌てて一言詫びてなんとか自分の力で足を踏みしめる。
一連の流れを見届けたローは、手で口を覆いクツクツと笑っていた。
「リバー~~、お前まじでどうした?キャプテンが絡むと骨が抜けたみてェになっちまうじゃねェか」
肩を小突いてくるペンギンは完全に面白がっている。本当におれ、どうなっちまったんだ。骨抜きって、言葉通りの意味?前からやばいなとは思ってたけど、まじでこいつの匂い一瞬嗅いだだけでこんなポンコツに成り果てるなんて。末期もいいとこだ。
「リバー、分かったら行け」
「~~~っ」
ローは目を細めてもう一度おれの頭を撫でて、顎で船長室の方をしゃくった。おれはなけなしのプライドでローを睨みつけて踵を返した。だっせェの。完全に負けた。勝ったことなんて一回も無ェけどさ。
「キャプテーン!もう着くよ!」
「ああ」
「おーい野郎ども上陸だーーっ!」
背後から血気盛んな声が聞こえてくる。その声も確かに、寝不足のせいかやけに頭に響く。
早足で歩きながらすれ違うクルー達と短く言葉を交わして真っ直ぐに船長室に向かう。
船内を進むにつれ人影は無くなっていく。扉の前に着いた時にはもう声も聞こえなくなり、船が浮上する機械音だけがこだましていた。
息をひとつ吐いて船長室の扉を開けた。主のいない部屋はしんと静まり返って見えて、しかし先程までそこにいたであろう主の影を色濃く残していた。
机の上にある畳まれた新聞とか、几帳面に栞が挟んである読みかけの本とか、前の島で採集した植物の茎を刻んだ跡とか。
「……ロー」
一人の時にしか呼べない名前をぽつりと呟く。それだけで胸が変に熱くなる。この身体がみせるあいつへの執着は、おれが思うよりも早い速度でだんだんと酷くなってきているように思える。
真白いベッドは、相変わらず丁寧に整えられて机の隣に在った。よろよろと歩を進めてその傍に立ちすくむ。
…いいのか、本当にここで寝て。プライドと欲のせめぎ合い。
「いやでも船長命令…だし」
結局悩んだのは一瞬。無理やり理由を結論づけてそろそろとベッドに寝転がった。掛け布団を被り枕に横顔を沈めて目を閉じる。
ふわふわとローの空気が全身を包み込んでいって、全身から力が抜ける。浮上に伴う船の振動が心地いい。本格的に末期だな、おれ。ここ数日の寝付きにくさが嘘のように眠りの中に落ちていく。
これから先、あいつの気配無しで寝られなくなったらどうしよう。そんな末恐ろしい無いことを考えてしまう。
もしそうなったら。そうなって、でもあいつの傍にはいられなくなったら。
おれはきっと一生眠れないまま死んでいくに違いない。