「お兄ちゃんってば」
不安そうなピエトロが膝に手を乗せて覗き込んできた。息を潜めたおれに合わせてか、その声はやけに小さい。おれは弟にしてやっていたように、その跳ねた髪をゆっくりと撫でた。
「…ああ、悪ィな」
「ううん。どうする、中入る?」
「いや、大丈夫だ」
「本当に?うーん……じゃあ、ぼくの家に案内するよ」
「ばか、おれァ海賊だぞ」
思わず苦笑すると、ピエトロは安心したように笑い返してきた。その笑顔に影が落ちて、もう日が沈んだことに気がついた。
せっかくここまで送ってもらったが、今はローに会うのはよそう。顔を合わせるべきではない。
「…おい、ピエトロ。もう暗ェから家まで送る」
「えっ、いいよ。モコモコ帽子の人に会わなきゃいけないんでしょ?」
「今はいいんだ。ほら、行くぞ」
小さな手を取って立ち上がって、来た道を辿りながらレモン畑を引き返していく。ピエトロは嬉しそうにおれの手を握り返して、ぴょこぴょこ跳ねながらこちらに話しかけてきた。
「あの帽子の人は、お兄ちゃんの仲間なんでしょ?どんな人なの?」
「どんな……まァ、おれのキャプテンってやつ」
「キャプテンなの!凄いなあーぼくはこの島から出たことないから、憧れちゃうよ」
「海賊に憧れるなんてやめとけ。まァでも、おれも故郷の島を出たのは、ついこの前だ。死にかけのところをあいつらが連れ出してくれた」
ピエトロの反応があまりに素直なもんだから、口からぽろぽろと言葉が漏れた。ハートの海賊団以外と、こんなに話したのも島を出てからは初めてだった。
畑を通り過ぎて、ランプが煌々と光る港町に帰ってきた。石畳を少年と2人並んでゆっくりと歩く。どこか懐かしい、そんな心地がした。
「じゃあ、あの人はお兄ちゃんの命の恩人なんだね」
そんなことをしみじみと言われて、おれは素直に頷いた。
「……うん、そうだな」
「すごいね。大事な仲間なんだね」
「…………ん」
細い路地裏で、振り返ったピエトロが楽しそうに笑いかけてくる。幼かった頃の弟の幻影が
その笑顔に重なってぶれた。思わず微笑みを返したとき、ふと気がついた。
いつの間にかピエトロの背後に、ゾッとするほど長身の男が音もなく立っていたのだ。ひゅ、と自分の喉が鳴るのが分かる。おれはピエトロの腕を強く引いて後ろに押しやり、勢いよく前に出た。「えっ」と声を上げたピエトロは、振り向きざま男に気がついたらしくぎゅっとおれのパーカーを掴んだ。
おれより1メートル以上はある身長。威圧感。只者じゃない。
背後にピエトロを隠して睨みあげる。強いくせっ毛を掻き回し、男は気だるげに此方を見下ろしてきた。サングラス越しで、その瞳は見えない。
「なんだ、お前」
「あー……おたく、チェンバーズ・リバーくん?」
「……」
低い声が、細い路地に反響する。おれはパーカーを握るピエトロの手をぎゅっと握りしめた。
男は腰を曲げ、まじまじと顔を覗き込んできた。怖い、と素直に思う。今までに出会ったことの無い圧倒的な強者の佇まいだった。
「へぇ、なるほどねェ。おれァ男にこれっぽちも興味無いが、まあ確かにお綺麗な顔してるなあ」
「……おいピエトロ、このまま全速力で逃げろ」
「で、でもお兄ちゃん」
しがみついて離れないピエトロに、男がヒラヒラと手を振った。
「あー、大丈夫大丈夫。おじさん海軍だから。市民の味方よ。まあでも今からこのお兄ちゃんとちょーっと大事な話するから、坊主は家に帰っといてくれるか?」
親しげな口調、それに反して有無を言わせない声色。底知れない男の迫力に、呼吸が浅くなる。逃げたい、と身体が素直に反応していた。
硬直してしまったピエトロを振り返って、おれは口角を引き上げた。
「おれは大丈夫だから。帰って寝ろ。ここまでありがとな」
暫くこちらを見上げて唇を噛み締めていたピエトロは、振り切るように街へ向けて走り出した。安堵して息を吐くと同時に、男が靴音を響かせて1歩近づいた。
狭い路地を遮るような大男。そうかなるほど、海軍か。全体的に白でまとめた衣服は、確かに正義を掲げた組織のものであるように見えた。
「…で?何の用だよ。おれ、賞金首でもなんでもねェけど」
「そういうレベルの話じゃないのよねェ」
「……ッ!!!」
突然伸びてきた腕に勢いよく胸ぐらを掴まれ、両足が宙に浮く。一気に苦しくなる呼吸。無理やり息を吸うと、冬島の故郷を思い出すような冷気がひゅっと肺に流れ込んできた。
暖かな気候の島であるはずなのに、吐いた息が白い。そして胸ぐらをぎりりと掴む男の手が、みるみる氷に覆われていく。
なんだ、これ。胸元に迫る氷を半ば呆然と見つめながら、震える唇を無理やり開いた。
「なに、ッなんだお前」
「ただの海軍だよ」
静かに歩を進めた男は、行き止まりの路地の壁におれを追いやった。そして取り出した手錠をおれの手首に嵌めると、もう片方の手で壁を氷漬けにした。拘束された手錠が氷で壁に張り付いて、磔のようになって動くことが出来ない。ご丁寧に海楼石でできた手錠だった。
流れるように身動きが取れなくなり呆然とするおれに向かって、白い息を吐きながら、男は「悪いね」と全く悪びれもせずそう言った。サングラスを額に上げたその瞳を見て、脳内で過去に読んだ新聞のバックナンバーがばらばらと捲られる。知ってる、こいつ。
「な……っにがただの海軍だよ、大将じゃねえのか」
「あらら気が付いた?」
なんで大将がこの島に。そう思ってすぐ、前に遭遇した中将を思い出した。まさか、おれ達の航路を辿ってきた?
何の為に?……それは、多分、いやきっと。
「チェンバーズ・リバー。面倒なことこのうえ無いが、おれァ上からお前を捕らえるよう命令を受けて来た」