「お兄ちゃん!」という呼び声と共に、慌ただしい靴音が路地になだれ込んでくる。ピエトロの声だ。助けを呼びに戻ってたのか。じゃあ、もうひとつの靴音は。
青雉は俄に暴れだしたおれの顔を片手で抑え、凍りつく路地の入口に向き直った。長い指の隙間から、息を切らしたピエトロが見える。その後ろにいたのは、案の定ローだった。珍しく髪を乱して、驚いたように目を見開いて青雉を凝視している。
ばか、なんで来た。早くここから離れてくれ。叫ぼうとした声は、顔をすっぽりと覆った青雉のでかすぎる手の平に全て吸い込まれてしまう。
「大将青雉……!は、お前まで出張ってくるほどの大物だってのか、うちのクルーは!」
苛立ったような笑みを漏らしたローから発せられる、焦りに満ちて張り詰めた声。そんな顔、させたくなかった。悔しくて噛み締めた唇の皮がぷつりと切れる感触がした。
「そりゃあな。なんせ天竜人がご所望だ」
「っふざけやがって」
「あー、まァ待て」
ローが“円”を広げる動作に入るその瞬間に、青雉はおれの顔を抑える自分の手をパキリと凍らせた。口元から瞼のすぐ下まで氷が顔面を覆い、あまりの冷たさに硬直するおれを見て、ローが盛大な舌打ちと共に動きを止める。
「トラファルガー・ロー。こいつはお前を救うためなら、天竜人のペットになっても構わないそうだ。なんとも健気な話じゃねェの」
「……ッ!!」
こいつ、なんでそれをわざわざ伝える。氷点下に押さえられたまま、声にならない叫びをあげる。こちらを睨みつけるローの眉間にぴきりと青筋が走るのが分かった。
「この天馬に4億払うっつったシャルリア宮が、いたくご執心でねェ。朝昼は城の周りをメリーゴーランドみてェにずーっと飛ばして、夜はガラスん中に入れてこいつを肴にマスカットジュースを飲むんだとよ……どう思う?船長さんよ」
唸り声と共に、今までに見た事の無いほどの速さで“ROOM”が広がる。応えようとした青雉が、おれの顔からパッと手を離した。伝えるなら今しかない。
凍りついた口を無理やりこじ開け、氷が剥がれるせいで顔が切れるのを無視しておれはローに向かって必死に叫んだ。
「っ逃げろ、ロー!こいつは、」
とんでもなく強い。そう言いかけたが、燃えるようにギラついたローの瞳に射抜かれて、言葉が喉でつっかえた。
「黙れッ!!誰にもの言ってやがるアホ馬!!前に言っただろうが、お前に心配される程落ちぶれちゃいねェんだよ!!!ガキのくせして自己犠牲語ってんじゃねェ!!」
「……っア、アホ馬って…」
かつてないほど怒るローに、青雉の腕の中にいるというのに思わず戸惑った。後ろから聞こえる「あららそう怒ってやるなよ」という的はずれな声がうるさい。
「で、でもジョーカーとかいう奴がおれを狙って、」
教会で盗み聞きしたことを漏らせば、ローの眉毛がひくりと動いた。滅茶苦茶怒ってる?そこまで怒る価値、おれにあるのか?
疑問すら湧いたが、あまりの怒気にローの周りの空気が揺らめいたように見えて、声が出せなくなった。出会ってから初めて、ローに怖気付いている自分がいた。
「だから……それをお前に案じられるような小せェ男じゃねェんだよおれは……ッ!!舐めてんじゃねェぞ…!」
氷が割れそうなほどの大声でローが叫ぶ。青雉がヒュウ、と口笛を吹いた。その間抜けな音と共に、“ROOM”が完全におれと青雉を囲った。ぎりぎりと音が聞こえそうな程歯を噛み締めたローが、拳を握りしめる。
「アホリバー、大人しく帰ってきやがれ!!!お前はウチのクルーだ!!どうしてもメリーゴーランドになりてェんなら、おれの周りでも回っとけ!!いくらでも笑ってやる!!」
心底からおれを睨んで、激しい口調で、でも言っている言葉は何処までも、底抜けにあたたかい。冷えきった真冬の温度の中にいるのに、胸がどうしようもないほど熱くなる。
目の奥から沸騰したような涙がせり上がるまでそう時間はいらなかった。未だ凍りつく顔面を、零れた涙が少し溶かしたような気さえした。
ロー、ロー。
ああ。許されるのなら、あんたのすぐ傍で、笑っている姿を見ていたい。出来ることなら、死ぬ時はあんたの傍が良い。とんでもない自己満足。
おれがいたら面倒な奴らがついてくるかもしれない、あんたやクルーの皆の危険より、自分の欲望を優先することになる。でも、帰って来いって、他でもないあんたが言ってくれるなら。
望んでも、いいんだろうか。もう何も言い返せすことが出来ず涙をそのままに項垂れた。
「っはは、お前らの世代はこういうのが流行りなのかねェ」
鋭くローの手が振り上げられると同時に、青雉がこの場に似つかわしくない楽しげな笑い声を漏らす。そして、おれを拘束していた腕の力を一気に抜いた。真白に凍った地面に向かって、力の抜けた身体が倒れる。
「シャンブルズ!!!」
何の障壁も無しに、おれはローが弾いた小石と引き換えにその腕の中にすとんと落ちた。間近にいつもの、隈をこさえた瞳が迫る。ああ、ロー。
帽子がずれ落ちるのもお構い無しに、その上半身に思いきり、両手両足全部で抱き着いた。首元に鼻をうずめれば大好きな匂いに包まれる。
「ロー、ロー……!!」
「阿呆」
縋り付くおれの尻を支えながら、警戒を続けるように“ROOM”がまた広がった。
「……素直に返すなんざ、一体なんのつもりだ」
「さっきも言ったが気が変わったってことにしといてくれや。普通に考えたらペットの調達なんて大将の仕事じゃないのよねェ。……それにそいつは、ニコ・ロビンとは訳が違う」
「…」
「なァ、ものの価値を分からねェ連中に、みすみす部下をくれてやるなよトラファルガー」
「……言われるまでもねェ」
「おれがここで見逃しても、これから先は分からん。確かにニコ・ロビンのように政府の驚異となるような因子を持っている訳じゃあない。だが、たかが隠し撮りの写真一枚が5桁で売買されるようなガキだ。厄介な連中が引き寄せられてくるぞ」