ピエトロには、目の前の海軍が言うことの半分も分からなかった。だがローと呼ばれたモコモコ帽子の船長の腕の中、縋るように震える己の恩人であるリバーが、追われる立場だということは分かる。だからローの後ろから、白い息を吐く海軍を精一杯睨みつけた。秋島であるはずの見慣れた街の片隅が何故か氷漬けになっていて、内心はひどくこんがらがっていたけれど。
「……知ったことか。こいつはうちのクルーだ」
「その威勢が続くと良いがねェ。まァいいや、おれァ行くわ。任務失敗ってお偉いさんに伝えなきゃいけないしな、やれやれ」
ゴソゴソと隊服の裏側を探ったかと思うと、大きな手がローに向かって何かを投げた。ピエトロがこっそりと伺うと、それは鍵のようだった。察したピエトロは慌てて「貸して」とローに呼びかけ、受け取ったそれでリバーの手錠を解いてやった。音を立てて落ちた大きな手錠は、凍った地面にヒビを付けるほどだった。
「……じゃあな、チェンバーズ・リバー。せいぜい抗ってみせてくれ」
呼ばれた自分の名前で、リバーは我に返ったようだった。彼はローの腕の中から飛び降りると、路地裏から曲がって姿を消そうとしていた長身の後ろ姿をぼんやりと見送った。
冷気を連れてでかい海兵が見えなくなって、ピエトロは安堵の息を吐いた。生まれて初めて、あんなにおっかない人間に会った。つい先刻海賊に追われたところだというのに、あんなものとは比較にならない迫力だった。
リバーを見上げると、未だ放心したように立ち尽くすその顔は、掴まれていた名残で氷の残骸があちこちに張り付き、睫毛には霜が降りている。青ざめて血の垂れるその唇を見て、ピエトロは慌てて恩人二人の腕を掴んだ。
「兄ちゃん、顔が真っ青だよ。早くあったまった方がいい、ぼくん家すぐそこだから!」
「……いや、おれは」
「案内しろ」
リバーの二の腕を掴み、ローがピエトロに答えた。ピエトロは頷いて家までの道を先導する。道中、心配になってちらちらと二人を振り返った。ローはさっきまでの啖呵が嘘のような無表情で、リバーは助けてくれた時の飄々とした態度が幻かのようにローの隣で小さくなっていた。
ピエトロの家は一階が両親の営む肉屋で、二階が一家の居住スペースになっている。閉店準備をしていた両親に命の恩人に風呂を貸したい旨を早口に伝えると、二人は驚きながらも了承してくれた。島の海軍支部に事の次第を伝えに行くと出ていった両親を見送って、ピエトロは先に二階に上げた海賊たちを追いかけた。
廊下で長い脚を曲げて座っていたローが指さした先では、風呂の扉の前でリバーが丁度服を脱いでいる所だった。その傷だらけの肌を見て、ピエトロは口を噤んだ。
ピエトロが目にした事も無いようなたくさんの切り傷や、大きな縫い跡。真っ白なリバーの肌に残る、彼の重い過去の跡。ピエトロはやり切れない気持ちのまま、氷の欠片がついたままの彼の服を半ばひったくるように受け取った。
リバーはピエトロの気持ちを見透かしたように、「悪ィな」と呟いて乱雑に頭を撫でてきた。
「大丈夫。お風呂、湧いてるから」
「あァ…」
ふらりとリバーが浴室に入るのと同時に、帽子を脱いだローが後に続いて、ピエトロが止める間もなく中へと消えていった。慌てたようなリバーの声が聞こえてきたが、低い声で何かを告げたローに黙らせられたらしく直ぐに何も聞こえなくなった。
聞き耳を立てるのは良くないとピエトロはすぐさま判断して、キッチンに向かうと大量のレモンやら肉やらを袋に詰め始めた。ここに向かう途中、ご飯を食べていくよう薦めるピエトロに「風呂だけで良い」とローが言ったため、せめて食料くらいお礼に渡したかったのだ。
今日、ピエトロはあの格好良い二人組に二度助けられた。そして、あの海軍を前にしたやり取り。あんなに仲間思いの海賊がいるなんて、知らなかった。
幼いピエトロにも、彼らのこれからの旅路が険しいものになることは分かった。ピエトロは、何故か少し泣きたくなった。
なんで、あんなに思いやっている二人が苦しまなけりゃならないんだろう。海賊って道を選んでしまった責任だとしても、兄ちゃん達あんなに辛そうに叫んで、可哀想だった。
とにかくキッチンにあるものを片っ端から詰め込んでいるうちに、リバーとローが風呂から出てきた。ほかほかと湯気を立てるリバーから張り付いていた氷が溶けて、顔に血色が戻っている。それに、あちこち切れていた顔の傷も何故かすっかり治っていた。
「兄ちゃん、もう大丈夫?」
「……あァ、ありがとな」
「こちらこそ、今日は助けてくれてありがとう」
礼を言うと、リバーがゆっくりと微笑みを浮かべて、ピエトロの髪を優しく撫でた。初めて見たリバーの心からの笑顔は、ピエトロの心をとてもあたたかくした。
二人は、今までピエトロが接してきた島の人間の誰とも違う空気を纏っている。それはピエトロが生まれて1度も見た事のない雪のイメージのように冷たくて静かで、どこか寂しい空気だった。濃淡に差はあれど、二人に共通したグレーがかった瞳もそれに拍車をかけていた。でも、こうして笑うとその冷たい気配がすっかり消えて、絵本に出てくる天使みたいだと思った。
帽子をかぶり直したローが「おれ達はもう行く」と言って、リバーはピエトロの頭から手を離した。家の外まで来たところで、用意していた食料をどさりと渡すと、「こんなにはいらない」と同時に遮られた。
「お前がいなきゃ、おれはこのアホを見つけられなかった」
淡々とそう言って、ローは詰めた食材の殆どをピエトロに返してきた。名物のレモンだけを数個受け取って、リバーは何も言わず黙り込んでいる。
「これで貸し借り無しだ。じゃあな、ピエトロ」
に、と口元を引き上げてローが少し悪戯っぽく笑みを浮かべ、帽子を深く被り直した。そのままパッと踵を返して歩み始めるその大人びた仕草に、ピエトロは目を輝かせた。なんて格好良いんだろう。
ローに続いたリバーが、少し振り返ってピエトロに手を上げた。大きな刀を携えた長身の男と、それに寄り添う青年が月明かりに照らされる。やけに幻想的で、ピエトロはその光景を目に焼き付けた。
「またねーー!ぼく、兄ちゃん達のこと大好きだよー!助けてくれてありがとー!」
跳ねながら、去りゆく二人の海賊に大きく手を振る。どうか、あの優しい人達が幸せでありますように。
ピエトロは、まだ海を知らない。海賊だとか海軍だとかはよく分からない。
だから精一杯、二人の未来が明るいことだけを一心に祈った。