入り組んだ路地が多いせいか、ピエトロの姿はすぐに見えなくなってしまった。上げていた手を下ろして、自分の手首に残る手錠の跡に目をやる。海楼石──初めて嵌められた時のことが、もう随分前に思えた。あの雪の降る故郷でこの手錠に縛られて過ごした悪夢のような時間。
ローは何も言わず、淡々と歩を進めている。目的地はこの島の宿だ。今日は船には戻らないとさっきピエトロの家の風呂でそう言っていた。
「凍傷してもいいのか」と脅しながら風呂場に乗り込んできたローに手足から温めろだの散々言われたせいか、身体は未だにぽかぽかとして心地が良い。
青雉に服従しようとしていた所を、あっさりとローの元へ帰ってしまった己の意志の弱さを嘆く余地も無い程に、身体はすっかり元気を取り戻していた。
石畳を黙々と進む中、時折隣を歩くローの肩と自分の肩が触れ合った。その度に何かが弾けるような心地がした。
ロー、ロー。
死ぬまで傍にいたい。どんなに自己満足でも良い。ただ傍にいたい。
あいつが言っていたような、恋なんて生ぬるいもんじゃない。いや、そもそも恋ってやつをおれは知らないが、弟が読んでいた本に出てくる恋人達は、どいつもこいつも浮かれて幸せそうだった。
だって、おれがいたらローを危険が襲うかもしれないのに。それでも傍にいたいだなんて、エゴが過ぎるだろう。こんな最低な恋心があってたまるか。
本当にたまらなくなって、恥も外聞も無くローの肩に頬を寄せた。すん、と息を吸うとこの世で一番大好きな香りがする。いよいよおかしくなってしまったらしい。何かが溢れて止まらない。
「……じゃじゃ馬、宿屋まで待て」
耳元で大好きな声がする。低くて掠れた、おれのキャプテンの声。何も言葉に出来ないまま頷いて、ただローの腕に顔を寄せた。本当は腕を回してしまおうかと思ったが、脳裏に残った理性がそれを必死に遮った。
だが、この頼りない理性はいつまでもつか分からない。あの氷に囚われていた間、確かに一度諦めた今のおれにとっての全てが今隣にいるんだから。
港町の宿屋はそれなりの賑わいを見せていた。奇跡的に余っていたらしい一部屋に向かいながら、他のクルー達も食料調達係やら船の整備やらで今は散り散りだとローが教えてくれた。あの海賊達がいた教会にもローは一人でいて、そこにピエトロが転がり込んで助けを求めに来たと言う。
「集合は明日の昼だ。本当は今晩のつもりだったが、イレギュラーだったからな。ベポがログは朝には溜まると──」
個室の部屋を開け中に足を踏み入れたローの言葉を最後まで聞かないまま、おれはその長身に激突するように抱き着いた。少し背伸びをして、首元に顔をうずめる。
ごめん。ごめん、ありがとう。言葉に出来ない気持ちが身体から溢れ出るようだった。
ため息をついたローは後ろ手に扉を閉め、おれを引きずりながらベッドに腰掛けた。ヘッドボードにもたれかかったローの腰の上に跨ると、「衛生的じゃねェのは嫌いだ」と言われたもんだから、おれは慌てて靴を脱ぎ捨て床へ放り投げた。
「……で、天竜人のペットになろうとしてた奴が、何の真似だ?」
「後悔はしてない……反省もしてない。あん時は本気でそう思った。青雉が本気で追ってきたらハートの皆が死んじまうと思った。だったら、ペットにでも何でもなってやるって」
ローの肩に両手を回して、胸元に頬を寄せながら一息でそう言った。黙って聞いていたローは静かに帽子を脱いで枕元に置いた。ちらりと見上げると、久しぶりに見る少し跳ねた黒髪。帽子を被ったあんたも良いけど、脱いだあんたも好きだ。いつも陰った目元が明るくなって、瞳がよく見える。
切れ長の三白眼に、陶然としたおれの顔が映っていた。飽きもせずじっと見つめていると、ローの右手がおれの腰に回された。その何気無い仕草に心臓が歓喜で震える。ああもう一体どうなっちまったんだろう、おれは。
「…まァ正直なところ、大将を一人で相手取るのはキツかっただろうな。奴が変わりもんで運が良かった」
気が変わった、と言い残して去った青雉を思い出す。本当に妙な海兵だった。そんな生き方で海軍にいられるのかと疑問に思うくらい。
今あんたの傍にいられるのは奇跡なのかもしれない。ますます抱きつく力を強くして顔を近づけると、ローが面白いものを見るような目でこちらを見つめ返してきた。
「それで?お前はおれの腹に跨って何を?凍らされて頭のネジが吹っ飛んだか」
「……分かんねェ。なんか止めらんねーんだよ、嫌なら枕と入れ替えてくれ。おれ多分今、めちゃくちゃ変になってる」
大将を相手にするのは厳しいと客観視出来ていたのに、戦おうとしてくれた。助けに来てくれた。帰って来いといってくれた。案外義理堅いこいつのことだから、当然の行動だったのかもしれないけど、それでも。
感極まって吐いた息は酷く熱かった。すり、とローの頬に頬を擦り寄せる。もみあげがこすれて少し痛い。冷たいピアスが唇に触れて、なんだかたまらない気持ちになった。
ただ触れたい。
そう思ってしまう、この気持ちはなんなんだ?
ローは全くおれを避けようとせず、それどころか左手でサラサラと髪を撫でてきた。そんなんされたらまじで心臓止まっちまう。大きな掌に擦り寄るみたいに頬を寄せるとローは柔らかく息を漏らして笑った。
なあ、あんたに出会えて良かった。あんなクソみたいな檻の中からおれを連れ出してくれた。光?希望?どんな言葉も当てはまらない。あんたを表すには全部が小さすぎる。
「ロー……」
「なんだ」
「もっと触れたい、あんたに。これ、なんなんだ…?」
「さァな。経験はねェのか」
「うん、無い。誰かに触りてェなんて考えたこともねェ。……なあ、あんたはおれに触られて嫌じゃねェの?」
ローはひとつ瞬きをして、考えるように両手を組んで頭の後ろに置いた。離れてしまった手が恋しくて、おれは追いかけるようにローの胸元に身体をくっつけた。
すると、楽しげな笑い声とともに頬に少し冷えた手の平が添えられる。跨った腹からローが笑う振動までが伝わってきて、あんまり嬉しくて大きな手に顔を擦り寄せた。
「お前なら別に構わねェ。割と潔癖な方なんだがな」
「……まじ?それ、すげェ嬉しいな」
歓喜とともに、ざわざわとした興奮が身体を支配した。