触れることを許される。言ってしまえばたったそれだけの事が、こんなにも嬉しい。
溢れる喜びそのままに、自分の頬に添えられたローの手を掴んで思わず唇で触れてしまった。なるほどこのよく分からん衝動に身を任せると、手では飽き足らず口で触れたくなるらしい。自分の中に初めて、他者への欲求という感情が湧いてくるのが分かる。
そんな事を思っていると、あの城に囚われていた時に人買いの親父に無理矢理キスされた記憶や、他にもとにかく数え切れない最悪な経験の数々を思い出してしまった。あの時は分厚い口が押し付けられた気持ち悪さに思い切り噛んでやったら叫び声をあげて殴られたが、他にもたくさんの気持ちの悪い感触が未だ肌のあちこちにこびりついている。
ああ、最悪だ。せっかくローに触れているってのに。
上書きするように、ローの手の平に何度も唇を押し付けた。おれ、あんたの手が好きだ。いつも“ROOM”を広げる手。檻の中から連れ出して助けてくれた手。受け止めてくれた手。
ローは何も言わずおれの好きにさせていた。余った右手が髪を梳く、その感触が優しい。
ひとしきり唇で触れた手の平から顔を上げて、ぼんやりとローの顔を見つめた。静かに見返してくる目元に降りた前髪が、瞳にかかってやけに色っぽい。こいつは飲み屋やら街中やらでよく女に声を掛けられているが、全くあいつらは見る目がある。だって本当に、こんなに格好良い人間が他にいるか?
薄灰の瞳、通った鼻筋、光るピアス、そして薄い唇。顔は小さいのに、ローの口は案外大きい。肉を頬張る時なんかはその大きさに密かに驚いてしまう。
じ、と綺麗な形の唇を見つめる。
キスって何が楽しくてするのかまるで理解できなかったが、そうか、この謎の衝動に身をまかせてするもんなのか。納得するとほぼ同時に、ローが喉の奥で愉快げに笑いを漏らした。
「見すぎだ、ガキ」
「……ガキじゃねェ」
「言っただろ、お前なら別にいい」
ぐ、と後頭部に手が添えられローの顔と一気に距離が縮まり、おれは慌てて硬い胸元に手を置いて身体を支えた。伏せられた長い睫毛に気を取られるうちに鼻と鼻が擦れ合い、ローしか見えなくなる。耳たぶがかつてないほど熱くなっていた。
やばい、このままじゃまじで心臓が。
そう思う間もなく、唇と唇が柔らかく触れ合った。鼻先が頬を掠めて、伏し目がちのローが視界いっぱいに広がる。あれ、ここ天国?いや極楽か?やばいどうしよう、あたたかい。身体の熱が一気にくっついた唇に集中するのが分かった。髪がぐしゃりと描き撫でられて、何かがせり上がるように肌がざわめく。
おれ、ローとキスしてる。限界を迎えて硬直するおれの口を、少し開けられたローの唇がゆっくりと食んだ。移った唾液が外気に触れてひんやりとする。
やべェキャパオーバー。キャパオーバーだけど、離れられない。だって、心のどっかは喜びで打ち震えている。何故かずっと、こうしたかったような気がする。
角度をつけて吸いついてくるその動きは、どう考えたって慣れきった大人のキスだった。たまらなくなって、おれも少し口を開けてそれに応えた。誰かと寝たことはあっても、こんな風に熱い思いを抱いたことなんか一度も無い。
「ん、」と声が出たのと同時に、ローが突然小さく“ROOM”を広げ、自分とおれの位置を逆転させた。一瞬で天井を背に、ベッドにおれを押し倒す体制になったローは、にやりと悪どい笑みを浮かべた。窓からさす月明かりを反射して、唾液で濡れたその唇が光る。
余りの色気に声も出ないまま、肘をついたローに距離を詰められた。胸と胸が触れ合って、ローの鼓動が伝わってくる。
「楽しくなってきた。リバー、口を開けろ」
耳元で囁かれて、湯だった思考のまま素直に口を開けると、ローは目を細めて頭を撫でてくれた。それを享受しているうちに、ぬる、と長い舌が侵入してくる。舌と舌が合わさって滑り合う。初めて味わうローの舌は、そんな訳がないのにとんでもなく甘い味がするような気がして、おれの脳のマトモだった部分を容赦なく焼ききった。
鮮やかなタトゥーの映える大きな手が耳を塞いで、もう二人が触れ合う音しか聞こえなくなった。歯をなぞり、上顎を舐め、長い舌は器用に動いておれを翻弄した。
「んん、ん」
経験したことのない程熱い絡み合いに、いよいよ身体に力が入らなくなった。というか自分の気持ちが前向きな状態でこんな事をするのは初めてだった。鼻から抜けるような声がひっきりなしに漏れる。
それどころか、良くないところに熱が集まってきていた。なんでこうなったんだっけ?ああ、おれがローに触れたくなったからだ。この男にキスがしたくてたまらなくなったからだ。
なぁあんた、今までこんなキスをどんだけの奴にしてきたんだよ。おれはこんな気持ち、全部初めてだ。
下から腕を伸ばして、ローの細い腰に手を回す。応えるように下腹部が押し付けられて、耳の中を親指がくすぐった。
細めた瞳でこちらを見つめながら、べ、と舌を出したローとの間に唾液が糸を引いている。なんだか本当に楽しそうだ。こっちはとっくに限界だってのに。
ちゅ、とイタズラに子供じみたキスを寄越して、ローは「リバー」とおれの名前を囁いた。耳に唇をくっつけながら、低い声が吐息とともに吹き込まれる。
「気持ちいいと思わねェか」
「ッあ、う、っばか」
「お前、心臓の音が凄い」
気持ちいいに決まってんだろ。動悸だって早まるに決まってんだろ。もう火照って感覚の無い目尻から、昂って溢れた涙がこぼれ落ちた。そんな顔で聞いてくれるな。悪魔的に色っぽすぎる、ああ本当に駄目だ。
は、と息を吐いておれはローの身体の下で身をよじった。長い指でいじられる耳たぶが燃え落ちそうだ。
「も、もう駄目だ、っロー、やばいって…た…勃っちゃうからあ」
普段何をどうしても全く反応を示さないところが、役割を思い出したかのように熱くなりかけている。あまりに情けない声を漏らすと、かり、と耳を食んでいたローが動きを止め身体を震わした。
「…っは、はは。ああ悪かったな」
唾液の残る唇を舐めながら、ローはおれから口を離した。荒い呼吸を繰り返すおれの上から身体を離す間際、いたずらに太ももが下腹部を掠めて、思わず「う、」と声が漏れた。
「も、ばか、やめろほんと」
「アクシデントだ」
全く悪びれもしないでローはヘッドボードにもたれて、仰向けに横たわるおれの隣に座った。足元に追いやられていた掛け布団が、ぽいと下半身に掛けられる。火照る口元から意識を逸らしながらおれは必死に素数を数えた。抜いちまった方が楽になるだろうが、そんな気にはならなかった。
「あー……やばかった、なんか……顔面燃えるかと思った…」
「燃えたら笑ってやったのに」
「冗談になんねェよ……」
愉快げにおれを覗き込んだローが、ふ、と唇目掛けて息を吹きかけてきた。まだ唾液の残るそこが風を感じて冷える。
おれは心底恨めしく、隣で片膝に頭を預けて微笑む男を睨みつけた。こいつまじで、魔性の外科医って呼んでやろうか。
「……あんた、なんでキスすんの許してくれたんだよ」
「していいと思ったし、したいと思った。それだけだ」
「なんでしたいと思った?」
「こういう類の感情に理由がいるか?」
静かな口調で言われて、思わず口をつぐんだ。ローの長い指がおれの髪をゆっくりと梳く。その感触に瞳を閉じて、ふうと息を吐いた。そうか、理由なんて無くてもあんたは許してくれるのか。
「おれもあんたに触れたかった。なんでなんだろうって考えたけど分かんなくて……理由なんて、なくても良いのかな」
「名前なんざつけたらつまんねェだろ」
「……そっか」
「おれ達は海賊だ。自由に生きていい。したいと思ったんならすりゃあいい。おれも気分じゃなかったら突っぱねるだけだ」
頭を持ち上げて、ローの太ももを枕に寝そべった。じっと見上げると、ローは静かな表情のまま額にかかった前髪をさらさらと撫でてくれた。指で梳かれる髪と、耳に触れるデニムの感触が心地良い。
これも、甘やかしたいと思ったから、甘やかしてくれてる?
「……なァ、言うの遅くなったけどさ、迎えに来てくれてありがとう」
「礼はいらない。頼まれちゃいないからな。お前が勝手に出ていくのに腹が立ったから止めただけだ。……おれが来なかったら、あいつに着いて行こうとしてただろう」
咎めるように頬をつままれる。おれは目を閉じてローの手の感触を胸に刻んだ。
「さァ、どうだろう……青雉にはそんな気無かったみてェだから」
「……やはり変わりもんだな」
暗くなった視界の中、ローの香りと感触だけが頭を支配する。とんでもない安心感とともに、睡魔が襲ってきた。
「……おれ、あんたの傍にいたい」
「好きにすればいい」
「うん、好きにする……」
ローは大きく伸びをして、おれの頭を少し持ち上げながら体勢を変え、すぐ隣で横になった。微睡みながら、その長身にも掛け布団を分けてやる。同じ枕にローの顔がある。欠伸を噛み殺すその様に胸がきゅっとなって、おれはローの身体にそっと抱き着いた。
「は、本当に頭のネジが飛んだみてェだな。明日起きた時、憤死するなよ」
小馬鹿にしたような口調と裏腹に、ローの手もおれの背に回された。抱き枕みたいに抱えられて、昨日までだったら想像もしなかった距離感に思わず笑ってしまった。
「まじで憤死するかも」
「おれは知らねェぞ」
「良いんだ、今日はこのままで……おやすみ……」
少し冷えたローの足に、おれの熱い体温が移っていく。
この世で一番大好きな腕の中、安らぎに身を任せて眠りに落ちた。