朝ローが目を覚ました時、腕の中のリバーはまだ寝入っている様子だった。穏やかなその呼吸に合わせて二人を覆った掛け布団が膨らんではまた戻る。ローは静かにそれを眺めながらゆっくりとまばたきをした。部屋の窓からは柔らかい朝日が差し込んでいる。
こんな近い距離で誰かと一緒に朝を迎えるのは、子供の頃以来のような気がした。
昨日は氷が張り付いてあちこちから血が出ていたリバーの顔は、ローの施術の甲斐あってすっかり元に戻っていた。伏せられた長い睫毛にかかる黒髪、薄く開いた整った唇。天竜人が鼻息荒く狙う容姿。だがローにとっては些事でしかなかった。リバーはリバーだ。たとえ傷だらけになったとしても、ハートの海賊団の一員で、ローにとことん弱いこの青年の価値は何一つ損なわれない。
安心しきったように眠り続ける青年は、今だけはこの世の争い全てと無縁のような空気を纏っていた。だが、彼にもローにも敵は多い。世界政府、それにジョーカー。全く胸糞の悪い存在が多いうえに、全部が厄介だ。何の因果かローの因縁の相手はリバーの因縁とも繋がりつつあった。腕で目元を覆って、ぎり、と歯を噛み締める。
コラさん。
空気を震わさないよう、すぐ隣りの青年にすら届かないよう、大事な人の名を呟いた。ローが得た自由には、意味がある。侵されてなるものか。
「んーー……」
漏れ聞こえた声に目を向けると、窓から指した朝日に照らされて大きな目がぱちぱちと瞬きを繰り返しているところだった。黙って見ていると、まずローの胸元を見て硬直したリバーは逡巡しながら上へと視線を移した。明るいグレーの瞳とぱちりと目が合って、昨晩予想したとおり、みるみるリバーの顔に熱が集まりやがて真っ赤になった。昨日はハイになって理性無くローを求めてきたが、冷静になれば照れ屋なこの青年はそりゃあこうなるはずだ。余りにも想定通りの反応。
ローは笑いながら「ほらな」とだけ言ってやった。全くこいつは、いつからこうなったのかローの何もかもに過剰に反応しては、普段の冷静な顔が嘘のように隙だらけになる。真っ白の肌が、己が少し触れるだけで途端に赤くなっていく様は、ローの気分を心底良くさせた。
「うっせェ」だの「狭い」だの言いながら己の腕の中から離れようとしないリバーが愉快で、昨日散々触れた口をきゅっとつまんでやった。
すると「はわあっ」と聞いた事の無い叫びをあげて、リバーは跳ねるようにローの腕の中から飛び出した。ベッドから転げ落ちたかと思えば口を抑えて、信じられないものを見るような目でローを見てくる。くしゃくしゃになった長い髪から覗く耳はタコのように赤い。
「はは」
「なっに笑ってんだよ!この…この、色男!」
「悪口になってねェ」
「……ッ!!」
怒りが声にもならなかったらしいリバーは、足音荒く洗面所の方へと消えていった。外見だけはかなり大人っぽく落ち着いて見えるが、こうしてすぐ拗ねるところなんかまだまだ子供だ。洗面所からは、バシャバシャと雑に顔を洗う音が響く。
その方向へ向かって、ローはひとつ問いを投げかけた。
「おれが着くまでの間、青雉に何か言われたか?」
昨日駆り立てられるようにローに触れてきたリバーには聞けなかったことだった。
数秒間、洗浄の音が途絶え、水が流れ落ちる音だけが響く。そしてすぐに何でもないような声色が返ってきた。
「…ああ。おれさァ、天竜人に4億で売られる予定だったらしいぜ。あの王宮の連中政府を脅す魚雷作ってたらしくてさ、その資金だったんだと。皆があのタイミングで来てくんなきゃ今頃貴族様のお城でメリーゴーランドの毎日だ」
乾いた笑いとともに、きゅ、と栓をひねる音がする。ローの頭の中で、あの日不可解に感じていた全てが繋がった。死体のひとつも無かった雪の国。地下深くに、たった一人残っていたリバー。全て殺され壊され、そしてその混乱の中忘れ去られたのだ。
立ち上がり寝室を出て、洗面所の入口にもたれかかる。鏡越しに見えるリバーは俯き、自分の髪から落ちる雫を見つめているようだった。ぽたん、ぽたんと陶器の洗面台に雫が跳ねる。
「おれの故郷ももう無い」
ぱ、と顔を上げたリバーと反射した鏡面で視線が交わった。
「……あんたも?」
二人だけしかいないというのに、リバーの声は掠れて消え入りそうな程小さかった。ローはひとつ瞬きをして、頷いた。
「……そうか」
何かが決壊するようにリバーの口が震え出して、鏡から目を逸らすようにまた俯いた。跳ねる雫の音が増えたのを、ローだけが知っていた。
「……こんな共通点、いらねェっつーんだよな」
「あァ全くだな」
饒舌でない者同士、それだけしか言葉は交わさなかった。後ろから手を伸ばし濡れた黒髪を撫でると、もう一度栓をひねって顔を洗い流したリバーが、それを拭いもせずローの胸元にぽすんと倒れ込んできた。手を背中に回してこないのを見る限り、昨日よりは欲望に忠実では無いようだった。
「顔を拭け」
かかっていたタオルを押し付けられてもごもごと何やら呻いていたリバーだったが、顔を上げる時にはもういつも通りの表情に戻っていた。
しばらくローの胸元に額を押し当て黙り込んでいたリバーは、何か思い出したように「あっ」と声をあげた。至近距離で棒立ちになったまま、ローは黙って青年の言葉の続きを待つ。しかし真剣な表情から発せられたのは全く予想外の質問だった。
「…そういえばさ。あんた初恋?っていつ?てかしたことある?」
「…………あァ?」
全く脈略の無い、ローにもリバーにも到底似合わない単語に、理解が遅くなった。思い切り眉を顰めるローに恥ずかしさが襲ってきたらしいリバーは、「だって青雉が」とか「変な事言ってきて」とかもにょもにょと言い始めた。一体青雉とどんな会話をしてやがったんだ、とローはますます眉間の皺を深める。
やがてリバーは吹っ切れたようにローの腕を掴むと、寝室へと戻り無理やりベッドの端に座らせた。そして自分は昨日使われることの無かったもう片方のベッドに腰掛け、ローと膝を突き合わせて縋るように両手を合わせた。
「……おい、なんなんだ一体」
「もう理由は置いといて教えてくれよ」
「馬鹿馬鹿しい…」
「そこをなんとかァ」
リバーはやけに食い下がってきた。淡白な一面を見せることの多いリバーの珍しい懇願に、ローは片眉を上げた。素直な顔を見せたかと思えば、なんだこの訳の分からん話題は。大きくため息をついて、しかし元来生真面目な質を捨てきれないローは渋々記憶を探った。あるとすれば、まだ家族が健在だったあの頃だろうか。
「…いや、覚えてねェな。餓鬼の頃にはあったのかもしれないが、印象に無い。…お前は?」
「全然。初恋どころか一回も経験ねェ。んー、そうか、覚えてねェってこともあんのか……あ、じゃあ恋ってどんなもんだと思う?弟が読んでた本じゃ色ボケまみれのふざけたもんって印象しかねェんだけど」
大真面目に尋ねてくるリバーに、ローも大真面目に考えた。元より議論すること自体は嫌いではない。
「考えたこともねェが……たとえば『海の戦士ソラ』に出てくるある恋人達に、こんな台詞がある」
「待て、『海の戦士ソラ』って?」
「ノースブルーでは有名な絵物語だ……“貴方といるのが一番幸せ。貴方以外何もいらない”、これは相手と会う快楽が他の事柄に勝った状態といえる。こいつが恋と呼ばれるもんじゃねェのか」
「…あんた、台詞まで覚えてんのかよ」
リバーが慈しむような妙な笑顔を向けてきたのに腹が立って、ローは彼の額にキツめのデコピンをかました。「いって」と呻いてベッドに沈んだリバーが、額を抑えながらローを見上げてくる。
「……でも、そっか。じゃあ、やっぱりおれのは違うな。幸せだけど、いなくなったらとか考えたら怖くて仕方ねェもん……」
辛そうな声は段々と尻すぼみになったせいで半分も聞こえなかった。そんなに強く弾いただろうか。そう思ったローはリバーの隣に腰掛け直すと、その前髪をかきあげるようにして額を撫でてやった。
明るいグレーの瞳が瞳孔をぱっと大きくする。この瞳を見る度、この部下が心底自分に惚れ込んでいることが手に取るように分かって気分が良かった。そろそろと動いた白く細長い指が、タトゥーの掘られた指にそろそろと絡む。
鬼哭にぶら下がっていた電伝虫が鳴き出したのはその時だった。二人して我に返ったように見やると、電伝虫はシャチの声で叫び始めた。
「キャプテーン!リバーと一緒にいます!?」
「あァ。どうした」
「新聞!新聞見てください!!リバーが賞金首になった!!」