空は好きだ。地上と違って空気が澄んでる。鳥と接触事故を起こしかけることもあるけど、大抵は道を譲り合って回避する。好きな人達を乗せて飛ぶ空はもっと最高だ。
だが、飛びたくもないのに他人に無理やり飛ばされるってのがこんなに気分が悪いもんだとは知らなかった。
シャボンディ諸島でローの心底焦った顔を目にしたのを最後に、おれの視界にはもうずっと空しか映らない。直前にバーソロミュー・くまの手の平の肉球が身体のどっかに当たったのは覚えてる。あれから太陽が東から登って西に沈むのをもう二回は見た。多分だけど。もうこの状況を嘆くのにも飽きてしまった。
ああ、それにしても腹が減った。シャチの作る不揃いな野菜の入ったシチューが食いたい。できればローの隣で。
もう夕方だ。身体が痛い。乾いた血が張り付いた顔もひりひりする。ローに会いたい。夕日が水平線に沈む光景が、溢れた何かで少し滲んだ。
最後に見たローの顔。酷く焦って、青ざめていたように見えた。あんな顔、させたくなかった。一体おれはどこまで飛ぶんだろう。次、ローに会えるのはいつだろう。
「……なァ、お前はどこへ行くんだ?」
並行して飛んでいた小さな鳥に尋ねれば、鳥は首を傾げて夕日の方へ向きを変えて行ってしまった。
観念して、おれは目を閉じる。目が覚めた時、そこがポーラータング号であれば良いのに。
「ねえ兄ちゃん、この島出れるとしたらさ、どんな島に行きたい?」
二人して道を歩いていただけだったというのに、酒屋の親父に泥棒と罵られアザが出来るほど殴られた夜だった。おれはこの世の理不尽さを嫌という程思い知らされてふてくされていたし、弟はそんなおれを慰めようとしてくれていた。ただ一つ救いだったのは、弟には殆どアザが残らなかったことだけだ。おれの身体はいつだって、ただ弟を守るためだけにあった。
「そんな虚しい話やめちまえ」
「えー、いいじゃん。ねえ、考えてよ」
「やーだ」
「兄ちゃーん」
朽ちた木の板を組み立てただけの家。ひっきりなしに粉雪混じりの隙間風が吹く部屋で、おれと同じグレーの瞳が明るく輝いている。木箱を並べたベッドに寝そべるおれの腹に、弟は甘えるように頬をつけてこちらを見上げてきた。
ああ畜生、この顔に弱い。
観念して、くるくると跳ねた黒髪を乱雑に撫でてやる。きゃらきゃらと笑って弟も隣りに寝そべってきた。
被っていた毛布を殆ど分けてやりながら、おれは目を閉じて考えた。
「ううん、そうだなァ……見たこともないような島が良いな、おれは」
「見たこともないって、ぼく達ここから出たことも無いんだよ?どんな島でも見たことないよ」
「じゃあ、ここと真逆の島がいい。みーんな笑ってて、空はずっと晴れてて、美味い食いもんが食いきれないほどある…そんな島にお前と行きてェな」
見渡す限り真っ白で陰鬱なこんな国なんかじゃなくて。雨漏りの絶えない薄汚れた天井を見上げ、そんな夢物語を語る。隣へ目をやれば、弟も同じように天井を見つめていた。
おれと殆ど同じ形のパーツでできた顔。でも、おれなんかよりもよっぽど優しくてあたたかい顔。正直なところおれは弟が、クリスがいればどんな島だろうと構わないと思った。
「へへ…ぼくも兄ちゃんと行きたいな、そんな島」
「…お前は?どんな島に行きたいと思ってた?」
「ぼく?ぼくはねー…うーん、本で読んだ魚人島も行ってみたいし、空に浮かぶ島にも行ってみたいけど……」
「けど?」
「…兄ちゃんがいれば、どんな島でも良いかな!」
早口でそう言って、クリスは毛布へ隠れてしまった。おれはぽかんと口を開ける。
一瞬の驚きの後、心の底から愛しさと喜びが溢れた。なんてかわいいんだろう。弟の頭を毛布の上から抱きしめて、おれは涙が出るほど笑った。ああ、幸せだ。この弟さえいればおれは幸せだ。
弟さえ奪わないでくれれば、天を恨みはしない。
そう心から思っていた。
べコン、という音と身体がふわりと浮くような感覚で、脳がぼんやりと覚醒する。酷く幸せな夢を見ていたような気がした。
身体が地面に触れる感覚と共に鼻腔に入ってきたのは土の香りだ。どうやら海への墜落は免れたらしい。おれは薄らと重い瞼をこじ開けた。幾度か涙が流れたせいか、目尻がひりひりと痛い。
未だに骨がきしむせいで起き上がることは出来きず、瞳を動かして辺りを見渡した。多分森の中だ。紅葉でもしているのか、鮮やかな桃色の木々が風に揺れながら天に向かって伸びている。そして空には、ハートの形に揺らめく太陽。
「……?」
なにかおかしい。何度瞬きを繰り返しても、妙な太陽の形は変わらない。それによく見れば揺れる木々の葉も、奥に見える岩も全てがハート型だった。ちらりとおれを一瞥しながら横を駆けていったタヌキの模様までもが。
…ハート、といえば、皆はあれからどうなったんだろうか。もう自分が何日空を飛んでいたのかも分からない。あの七武海から逃げられたんだろうか。ローがいるから、きっと大丈夫だと思うけど。
現実逃避だと自覚しながらも、目を閉じて辺りの風景をシャットダウンする。…いや、駄目だ。早く起きてローの元へ戻らないと。
意を決して目を開ければ、見知らぬ青髭の顔面が真上からこちらを覗き込んでいた。
「………!?!?」
声にならない叫びをあげ、限界を訴える身体を無理くり起こしてその場を飛び退く。
なんだ?人間?気配も足音も全くしなかった。大きな男に見えるが、長い金髪は腰まで伸びてカールしているし着ている服はやけにひらひらとしたワンピース。ぱちくりと此方を見やる睫毛に覆われた大きな目から殺意は感じられない。
とりあえず警戒のため翼を出そうとしたが、骨が痛みそれは叶わなかった。
「…っ、」
「ねえ酷い怪我よ。動かない方がいい。それにあなた…空から降ってきたわよね?痛いのは当然よ」
本当に心配そうに、その人間は空を指さした。
気遣ってくれていると分かるその態度に安堵の息を吐きつつ、改めて周囲を確認する。やはり木は桃色だ。それに下を見れば、地面を覆う草すら桃色でその葉はハートを描いている。見たこともない草だ。
自力での理解を諦め、目の前の人物に協力を仰ぐことにする。
「…悪ィが、ここはどこだ?」
「きゃっ!!空から来たプリンスが喋った!」
「プリ…え、何?」
「なんでもないの気にしないで!いいわ教えてあ、げ、る!」
やけにテンションの高い奴だ。疲れきった身体には少々堪える。
不審な金髪は軽やかな身のこなしでハート型の岩に飛び乗ると、不安定な足場だというのに見事な三回転ジャンプを決めてばちりとウインクをかました。
呆気に取られて間抜けに口を開けることしかできないおれの周りを、やけに睫毛の長い小鳥たちがピチピチと飛んでいく。
「ここはねえ、モモイロ島はカマバッカ王国!新人類の女王が治めるグランドラインいち美しい国よう!!」