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「よぉサンジ、新聞見たか」

朝の空気の中、澄んだ低い声が頭から降ってきた。宿屋のエントランスで項垂れるサンジに声をかけてきたのは、チェンバーズ・リバー。妙な縁で、サンジはこの青年と地獄ことカマバッカ王国で同じ部屋の天井を見ながら日々をすごしている。

このクソったれな数日間を思えば、正直リバーが居なければサンジは今頃正気を失っていたかもしれないなんて思ってしまう。いや多分、絶対失っていた。とにかく彼と話す時間は暗闇に灯る明かりのように、落ち込むサンジの心を照らしてくれた。それはこの島で唯一の根っからの男同士だからという理由はもちろん、彼の落ち着いた声や考えがとても心地良かったおかげだった。

昨日散々ニューカマーの連中に追われたせいでだるい身体をテーブルから起こして、もうすっかり見慣れた青年を見上げた。そしてすぐに訂正を入れる。見慣れたというには語弊があった。

腰に手を当てモデルさながらに立つリバーは、丈の短いブルーのワンピースに身を包んでいた。その長い黒髪は後頭部で一つにまとめられリボンで結われている。更に男にこれっぽちの興味の無いサンジから見ても桁外れに整っていると分かる顔面には、それはもう見事な化粧が施されていた。形の良い唇に引かれたささやかな口紅やら目の周りを彩るキラキラとした何かやら、ニューカマーの連中は素材を綺麗に生かすこの技術を自分達にも生かせば良いのにと思ってしまう。

大きく開かれた足と広い肩幅、それに骨ばった腕にさえ目を瞑れば、サンジの騎士道センサーが発動したかもしれない。
時たまリバーは衣食住の礼とかで、王国の連中にされるがままこうして無駄に完成度の高い変身を披露していた。ドレスだろうがミニスカートだろうがこの男がなんでも見事に着こなすもんだから、連中は競い合うように衣装を仕立てあげた。ああ、認めよう。見事は見事だ。食指はピクリとも動かないが。

「今日もまた一段と着せ替え人形してるなテメェは…」
「別にどうでもいい、こんくらい」

本当にどうでも良さそうに、リバーはサンジの目の前の席に腰掛け優雅に足を組んだ。長い脚はもう殆ど付け根まで見えてしまっているが、中身がリバーだと分かっているのでサンジも全く動じないまま彼に向かいあい深くため息をついた。

「リバー君よォ、したい放題にさせたらあいつら調子乗るだろうが」
「そうやって過剰に反応するから面白がられるんだぜ。分かってんだろサンジ君?」

前まで垂れたポニーテールを指でいじりながら頬杖をついて、切れ長の大きな瞳が計算されたような美しさできゅっと細められる。長い睫毛が窓から射し込む朝日をうけて、彼の白い肌に影を落とした。全く表情の一つ一つがサマになる野郎だ。可愛いレディ達からさぞたくさんの歓声を浴び続けてきた人生だったであろう。残念ながら今は野太い歓声ばかりだが。

サンジは図星を刺されたので言葉を返せないまま新しい煙草に火をつけた。それに、サンジが差し出されるドレスやらワンピースやらを片っ端から拒否した分が恐らく全てこの男に向けられているので、そう強くも出られなかった。

「んなことより、新聞だよ。ホラ」

可憐な容姿とは真逆に乱雑な仕草で新聞がテーブルに広げられた。その一面を骨ばった長い指がさす。大きく書かれた見出しにサンジは心臓に冷水がかけられたような心地になった。


“ポートガス・D・エースの処刑明日に迫る”


……ルフィ。安否の分からない船長への心配と、身動きの取れない不甲斐ない己への怒りでサンジは思いきり煙を肺に送り込んだ。ちら、と瞼を上げてその仕草を見たリバーが、再び目を伏せる。

「……世界はどんどん動いてるっつーのにな…」

リバーが言わなかったその言葉の続きは、恐らくサンジの思っていることと同じだった。
世界が動いても、おれ達はここから動けない。

しかも、シャボンディという集合場所とシルバーズ・レイリーのビブルカードという指針があるサンジとは違って、リバーは正真正銘、このクソでかい海に一人放り出されている状態だ。
毎日新聞を隅から隅まで読んでいるようだが、彼の船長であるトラファルガー・ローはまるで息を潜めたように誌面に姿を見せなかった。

煙を吐き出し、前に座るリバーに目を向ける。形の整った唇は噛み締められ、誌面を見る瞳は僅かながら揺れていた。

サンジは自分が人の心の機微に割と聡いと自負している。近寄り難い見た目の割に案外くだけた口調で話すこの青年が、ともすれば一味のマリモに迫るほど高いプライドの持ち主であることも分かっていたし、そのくせ案外寂しがり屋なことももう見抜いていた。

ベッドで丸まる彼が時折寝言で大切な人の名前を呟いていることも知っている。いつかこの島から飛び立つため、ナントカ拳法の達人であるカトリーヌというニューカマーから、密かに特訓を受け始めたことも。現にノースリーブから覗く白い腕は、初めて会った数日前よりもいくらか筋肉が増えている。

「おいグレイス、もうこれ脱いでいいか」
「あら、もったいないじゃなーい!」
「ワンピースは動きにくいんだよ。なあ駄目?」
「…はぁ~い!リバーちゃんが言うならね!」

リバーが少し首を傾げて見つめれば、本日の衣装担当が一瞬で頬を染めて大人しくなる。本当に、この島の連中はこいつ相手だとやけにしおらしい。毎日おちょくられているサンジとは大違いだ。要因としては、奴のクールな物腰と有無を言わせぬその相貌、割と素直なところその他もろもろ。ポリシーの問題で歯向かいまくっているサンジには到底無理だ。

「はァ……」

他の仲間は今どうしているだろうか。それに、エース。島の外へ思いを馳せれば馳せるほど、煙草の減りも早くなる。まだ昼間だというのにワンダースの箱の中身はもう半分になっている。その内の1本に火をつけた途端、後ろから伸びてきた手にひょいと奪われた。
振り向けば、正真正銘見慣れた黒いパーカーを着た格好に戻ったリバーが煙草を咥えてこちらを見下ろしていた。

「おいガキは吸うな」
「一歳しか変わんねェよ。お前の愛しのナミさんと同い年。ナミさんにもガキって言うのか?」
「……おっまえ…」

一言えば十返ってくる。親愛なるレディの名前を出されて憤るサンジを小馬鹿にするように笑って、リバーはテーブルにもたれるようにして脚を組んだ。

「つかこんな不味いモンよく吸うな。料理人のここがアホになっても良いのかよ」
べ、と舌を出して煙を吐いたリバーから煙草を取り返して自分の口に戻す。
「そこはちゃんと節制してる。コックだからな」
「ローが煙草は百害あって一利なしっつってた」
「あ、またロー」
もうすっかり言い慣れたツッコミを入れれば、リバーは肩をすくめながら目を細めて笑った。己のキャプテンの名前を言う時、彼はいつだってどこか寂しげだった。

サンジの所属する麦わらの一味だってもちろんどこにも負けないほど絆が強いと自負しているが、この青年のトラファルガー・ローへの計り知れない感情は、色々と異次元の域に達しているような気もした。盲信とか、依存とか、執着とかそういう類の。
まあ他の船の、ましてや男同士の人間関係なんてサンジにはこれっぽっちも関係ないのだが。

「なァ、明日はおれカトリーヌんとこ行かねェから」
「ん?習い事はオフか?」
「そんなとこ。お前の料理食わせてくんねえ?ここのキッチン明日借りといたからよ」

驚いた。どうやら柄にもなく気遣ってくれているらしい。明日、ただこの島で鬱々とすることしか出来ないサンジのことを。

「……あァ。今度あいつらに会った時のために、もっと腕上げとかねェといけねえしな」

リバーはにやりと笑みを残して宿屋を去っていった。今日はまた、カトリーヌに特訓を受けにいくんだろう。彼は本気で己の身ひとつで海を渡ろうとしていた。

宿屋にいたニューカマー達が目をハートにして青年の後ろ姿を見送るのを横目に、サンジはまた晴れ渡った空を眺めながら煙草を吹かす。確かに自分に翼があれば、今すぐルフィの元へ飛んで行きたいと思うだろう。翼はあるのに飛んで行けないリバーの内心がいかばかりか、想像することくらいはできる。サンジが吐き出した細い煙が、輪を描いて天井に雲散しようとしていた。


翌日は約束通り、宿屋のキッチンを借りてリバーや仮にも世話になった連中に料理を振舞った。リバーはいつか彼のキャプテンに作ってやるのだと息巻いて、サンジに聞いた料理のレシピやらコツやらを熱心にメモしていた。
レースたっぷりのエプロンを回避するのに苦労したが、それを除けば穏やかな時間を過ごせたように思う。


そして、翌々日。


ろくに眠れず、宿屋のベランダから眩しい朝日が登るのを見た。柵に腰掛け膝に置いた灰皿にはもう煙草の吸殻が山を作っている。

「……サンジ、来るぞ」

おもむろに聞こえた声に部屋の方を見上げれば、起きてきたリバーが朝日の方を指さしていた。新聞配達のカモメが此方に向かって飛んできているのが見えたらしい。毎日誰よりも早く新聞を買ってトラファルガー・ローの名を探しているせいか、彼は配達の時間も方角も完全に把握しているようだった。

大きく手を振って、カモメを呼ぶ。覚束無い手つきで料金を払って、リバーと並んで部屋のテーブルに新聞を広げた。正確には広げる間もなく、求めていた情報は一面記事になっていた。

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