何も聞こえなかった、というのは嘘だった。
本当は「嫌だ」やら「気持ち悪い」やら「弟だけは」やら、リバーはただ事では無い言葉をベッドの上で呻きながら吐き出していた。長い黒髪を溢れる汗で顔に張り付かせながらのたうつ彼をいい加減起こしてやろうと思い至った瞬間、弾かれたように飛び起きたのだ。荒い呼吸を繰り返すその横顔は、ただでさえ白いその色を更に無くしていた。
人間、まして海賊なんてやってる連中は消せない過去のひとつやふたつ持ってるもんだとサンジは思う。サンジにだって仲間達に話していない過去があるし、別にそれを進んで話すつもりも毛頭無い。全部あそこに置いてきた記憶の屑だ。大量の冷や汗を拭ってすぐに平気な顔に戻ったリバーも、多分自分にそう言い聞かせて生きてきたんだろう。
だがどう考えても無意識下で消えない傷として残っているそれを、トラファルガー・ローといる間は忘れていられたとリバーは言う。
実際のところリバーがどんな夢を見ていて過去にどんなことがあったかなんてサンジには知る由もない。だがもがき苦しむ程の過去を忘れさせてくれたなんて、彼にとってのトラファルガー・ローがどれ程の存在なのか少し見くびっていたかもしれない。
もしかしたらシャボンディでの集合の日が決まり彼の前で喜びすぎたせいでその不安が増してしまったのではなんて思ったが、思いきり顔をしかめて一蹴されてしまった。
「おやすみ」
サンジのことを“優しすぎる”と半ば呆れたように言って、リバーは眠りの世界に戻っていった。月明かりに照らされるその人形めいた造形の顔を見れば、顔色は幾分か戻ったようだった。
友人がうなされていたら心配するくらい普通のことじゃないのか。なんて思ってしまうが、この男にとってはそうでないらしい。
リバーの穏やかな呼吸を聞きながらサンジも眠りについた。こいつがもう、悪い夢を見なけりゃ良いなんて思いながら。
その翌日から、サンジは“攻めの料理”のレシピを手に入れるべく99人の師範代を相手に戦いの日々を繰り広げはじめた。腕っぷしならぬ脚には自信があったのだが、全くこの99人が一人一人異様に固く強かった。連日ボロボロになるまで戦いを挑み、合間にドレスを押し付けられるのを泣きながら回避する日常が続いた。
リバーはリバーでたまに海岸で翼だけで立たされる訳の分からないトレーニングをしているのが見えたりして、それでますますやる気がでる、というのがお決まりになっていった。
「今日も満身創痍だな」
夜ほうぼうの体で宿屋に帰れば、一足先に戻っていたらしいリバーがサンジを出迎えた。床に這いつくばりながら見上げれば、フリルたっぷりの寝巻きに身を包んだ男がいたもんだから再び脱力してしまう。いくら出来栄えが見事だろうと関係ない。何故落ち着けるはずの場所でまでこんな光景を見なければならないのか。
「……お前なあ……お前なあ…!勘弁してくれ……!」
「このひらひら、ネグリジェとかいうんだってよ。よくこんなんで寝れるよなァ。あいつらサンジちゃんが着てくれなかったって泣いてたぜ」
「クソが…!着るわけねェだろ……!!」
膝下まであるそのスカート部分は何故か透けていて、リバーの細長い脚を際立たせていた。自分が同じものを着る光景をうっかり想像してしまってサンジの腕にはぶわわと鳥肌が立った。
「立てよ。風呂沸いてる」
腕を掴まれ軽々と引っ張りあげられる。やはりリバーも日々鍛えている成果が着実にあらわれていた。
「今日もドレス押し付けられて泣いてたな。とっとと着りゃ楽になんのによ」
「お前には分かんねェよ…おれはなあ、おれはレディを守る騎士なんだ…」
「あー分かんねえ。こんなん、ちょっとヒラヒラしてるだけでただの布だろ」
首を傾げ裾をつまみ上げるその様子をみて、いつだったか騎士道やらレディファーストやらそういうサンジのポリシーの話をした時、リバーが即座に首を振って謝罪を述べてきたことを思い出した。
“悪ィけど、そういうご立派な志は母親の腹に置いてきた。そんであの女はそれをクソとして捨てたと思う。お前みたいにそういうのを教えてくれる良い大人にも出会えなかった。だからおれには理解ができない。聞くだけならできるけどそういう大層な会話は無理だ。それでも良いなら話せ”
淡々とそう述べられてサンジはああ分かったと返事をし、気にせず「ナミさんとロビンちゃんの美しさ」についてペラペラとリバーに話して聞かせた。最初は呆れていたリバーも、最後には笑ってくれた記憶がある。
風呂から上がれば、当然のようにネグリジェとやらを着こなすリバーがコーヒーを淹れてくれていた。
「お、気が利くじゃねェか」
「前に教えてくれたやり方で作った。どう」
「……ああ、美味ェな。上出来」
「よし。ローにも淹れてやろ」
グレーの瞳を優しく細めてリバーが笑う。ニューカマーの連中が見たら卒倒しそうな笑顔だ。ただトラファルガー・ローの事を話すときにしか拝めないものなので、今のところ殆どサンジが独占している状況だ。
「あァきっと喜ぶぜ。イチコロだ」
「いっ、イチコロ?ローが?へ、へえ…」
あ、出た。この冷静な男が唯一まごつきだす瞬間。サンジは半ば呆れながらその露骨な変化を見守った。白い肌にぱっと赤みが差して、口を尖らせながらもぞもぞと首をかき、目線はうろうろと彷徨いだす。これもトラファルガー・ロー限定のリバーだ。普段は冷めた瞳がきらきらとして近寄り難い空気が嘘のように緩むもんだから、この男の人を惹きつける魅力が良くない方向に増してしまうような気もする。
サンジもレディを前にした時の豹変ぶりからあのクソ剣士に散々な言われようをされてきたが、リバーのこの変わり方だって似たようなもんだろう。
「…露骨に照れやがって」
「いや照れてはねーよ。嬉しくなっただけで」
「言い訳に無理あるわ!」
ぐ、と押し黙ったリバーの頬はまだ赤い。隙が一気に増えたその様にサンジはいささか心配になった。コイツ、トラファルガー・ローをダシにされたらコロッといっちまうんじゃねェか。
「…おい、おれァレディにしか興味ねェがな、お前のツラがクソ綺麗ってことは分かる。これは客観的意見だ。だからリバーお前……トラファルガー・ローに会えるって言われて怪しい奴にノコノコ着いて行ったりすんじゃねえぞ」
「そんなん信じるわけ無ェだろ!余計なお世話だ!!」
リバーはここに来て初めて、年相応の顔でぷりぷりと怒りだした。サンジが言った例ほど馬鹿な真似は勿論しないだろうが、そう言われてしまう程トラファルガーに心酔している自覚はあるのだろう。
「つかおめーに言われたか無ェよ。怪しい女がもたれかかって誘ってきたら着いてくだろ絶対」
「おいおい何言ってんだ………着いてくぜ当たり前だ!!」
ドン、と言いきればリバーはぽかんと口を開け、それから俯き肩を震わして笑いだした。胸を張り続けていればベッドにぼすんと飛び込んで、腹まで抱えて笑い転げている。
「あー、お前ほんと馬鹿」
「覚えとけリバー。男はいつだって女の前では馬鹿になるのさ」
「っはは、だせぇ名言!あーしんど、これ以上笑かすな」
ひとしきり笑ってから、リバーはうつ伏せになって未だふつふつと肩を揺らしながらサンジの方を向いた。火をつけた煙草の煙越しに、長い睫毛の覆う瞳と目が合う。
「お前本当に笑かしてくれるよ」
「あ?そんなつもり無ェが」
「いいや、笑かしてくれる。おれお前の手配書超好き」
「ああ!?喧嘩売ってんのか!自分のが完璧だからって」
「完璧?どこが?サンジのやつの方が良い。自信持てよ」
本当に分からないといった様子でリバーがぱちぱちと瞬きをする。こういう案外無自覚なところがニューカマーの連中からしたらたまらないらしい。
リバーの手配書はカメラマンが腕によりをかけて撮ったであろう顔写真の威力もあって、ここカマバッカ王国でもスターのポスターが如くあちらこちらに貼られている。聞いたところによれば金銭で取引までされているそうだから驚きだ。
ちなみにサンジの手配書は見つけ次第片っ端から除去している。
「…でもお前、さっきの名言間違ってるぜ」
「あ?」
「男は女の前で馬鹿になるってやつ」
くゆる煙草の煙の中、国を騒がせる美貌が18歳の少年らしい笑みを浮かべた。手配書に載っているようなスカした表情より、こういう時の柔らかい顔の方が良いなとサンジはぼんやりと思った。
「おれ女の前では馬鹿になんない。ローの前だけ」
「……お、ついに認めるか?」
「まァ離れてみて分かったけど、やっぱあいつのこと考えた瞬間頭おかしくなる。これが馬鹿になるってことなのかもしんねえ」
「そうそう。その通りだぜリバー君」
「心臓バクバクしたり、顔熱くなったり?」
「そうそう」
「ひたすら触りてェって思ったり、キスしてーって思ったり」
「そうそ……おい、え?」
……おいおい怪しいとは思ってたが、やっぱりそういう感じか。シャボンディでちらりとだけ見たトラファルガーと、目の前でネグリジェを完璧に着こなす男が触れ合うサマを想像しかけて慌てて首を振る。客観的に見れば容姿端麗である二人の男の絡みはさぞ絵になるのだろうが、サンジはレディを愛する男。鍛えた想像力はレディにのみ使うべきだ。
「えらく惚れ込んでんなとは思ってたけど、恋人的なアレなのか?」
「は?ちげェよんな訳ねーだろ」
リバーは心底驚いたように否定した。サンジには何がんな訳ねーのか皆目分からないが、とにかく違うらしい。
「恋人っつーのはさ、幸せなキスして幸せなセックスして相手を自分に縛り付けなきゃなんねェだろ。おれローのこと絶対縛らねーし、あいつは何にも縛られねーし。無ェよ、そもそもおれら海賊だろ」
「……お前、ロマンとかそういうの持ち合わせて無ェのか?」
「それも母親の腹ん中」
「あ、そ。まァ海賊が何にも縛られねェってのは同意」
リバーは随分とヘビーな恋愛観を持っているようだった。ロマンチストな面のあるサンジには到底理解しがたい価値観だが、そもそもこの男とここまでの会話をすることになるとは思っていなかった。
「つーか、なんでこんなよく分かんねェことまでお前に話してんだろ」
それはリバーも同じだったようで、ゴロリと寝返りを打った後、不思議そうに天井を眺めだした。明るいグレーが部屋の明かりを映し、夜明けの空のように煌めく。煙草を灰皿に擦り付け、サンジもベッドへと寝転んだ。
「おれとお前がダチにはなれたからじゃねェか」
「……ダチ」
「そうだ。仲間じゃねェけどダチにはなれた。だから小っ恥ずかしい話もできる」
「…………へェ………あー…お前やっぱ面白ェな?すげえ普通に言うし……おれ今結構恥ずかしいんだけど」
トラファルガー・ローの話をする時ほどでは無いが少し顔を赤くして、リバーは照れたようにサンジを見て微笑んだ。サンジも口角を上げて、地獄のような島で出会えた友人に笑みを返した。
「恥ずかしがってる場合じゃねェぞ。今から『ケイミーちゃんとおれのドキドキ初対面』の話を聞いてもらわなきゃなんねェんだ」
「……それもダチの役割?」
「当たり前だろ」
「わーったよ、早く話せ」
その夜は、リバーから苦しげな寝言は聞こえなかった。