おれを抱き抱えたまま、ローはあの人工的な建物の中の何かと入れ替わった。そういえば嬉しさと喜びで忘れてたけど、吹雪にさらされた身体はもう、今にも凍死しそうな程固まっていた。
指を絡ませるように片手を握りしめられながら、機械的な廊下を歩き広い部屋へと移動する。工場だか研究所だかよく分からない場所だとは思ったが、おれは絡みあった指の感触を覚えるのに必死だった。
鉄製の扉を開けた先、机の上に積まれた数冊の本を見て、ここがローの拠点だと分かった。殺風景なその部屋を素通りして、奥にあった浴室へ連れて行かれる。
風呂?と思ったが確かに、カマバッカ王国を出てからの壮絶な空の旅のおかげで身体は大分ボロボロだった。それにさっきドラゴンをぶった斬ったせいで血もついていたから、確かに一番大事かもしれない。
黙りこくったローに服をぽいぽいと脱がされ、いつかと同じように二人して風呂場に入る。熱いシャワーが勢いよく流れて半分くらいはローにもかかったけど、服が濡れることなんかこれっぽちも気にしていないみたいだった。
初めに椅子に座ったおれの真向かいに立ったローに顔を丁寧に洗われた。長い指に顔を包まれて思わず微笑めば、ローは少し息を詰めてますます黙り込んでしまった。それから随分と伸びた髪を優しく洗い流される。身体は流石に自分で洗ったが、湯船におれを放り投げたのはローだった。
熱い湯に浸かって全身温まりながら、浴槽の淵に肘をついて思う存分ローを眺める。椅子に座ったローも、さっきから飽きもせずおれを見つめ続けていた。
ちょっと痩せたか?目の隈が濃くなっているような気もする。手を伸ばしその隈に触れれば、ローが目を伏せておれの手の平に頬をすりよせてきた。
う、わ、やばい。ブランクがあった分、破壊力が倍増してる。
穴が開くほど見つめるおれと反対に伏し目がちになったローは、眉間にしわを寄せておれの身体に目を走らせた。
「……傷が増えた」
そう囁くように言って、大きな手が肩の傷を撫でる。盛り上がったその跡は、多分翼の斬撃の修行をしていた時についたやつだ。確かに過酷な特訓の過程で、消えない傷がいくつか増えた。
「でも筋肉も増えたろ」
俯くその顔を覗き込み、にっと笑みを向けて視線を合わせれば、ローは目を見開き、また息を詰めたように押し黙った。なぜか眩しそうに瞬きを繰り返す瞳と至近距離で見つめ合う。
あんま見たことない顔だ。なんか、珍しい表情がたくさん見れてうれしい。
「…どうした?」
「いや、何も…」
やけに歯切れが悪い。もどかしくなって、ぱしゃりと音を立てて身体を持ち上げ首元に抱きついた。そしたらさっきはあんなに力強かったのに、今度はゆっくりと、割れ物に触れるようにしてその手が背中に回された。
「……いるんだな、リバー」
「ん、いる。もうぜってー離れねェ」
煮詰めたものを吐き出すように、細い息と共に耳元で少し掠れた声がする。切ないその声色に胸が苦しくなる。会いたいって思ってたのがおれだけじゃないって、その声だけではっきりと分かってしまった。
増えた傷跡ひとつひとつの上を、指が優しくなぞった。濡れた腕、背中、腹から胸元まで丁寧にたどっていく、タトゥーの彫られた長い指。それだけで傷跡が浄化されてくような錯覚に陥る。
「…くすぐってえよ」
「我慢しろ」
額をこつんと触れ合わせれば、なだめるように鼻先にキスが落とされた。途端にふやける身体。まじで、供給過多で死んじまうって。ただでさえロー不足で枯渇してたのに急にこれは致死量だ。
脱力してもたれかかれば、抱きとめたローにそのまま浴槽から担ぎ出された。肩に腕を回してその横顔を堪能する。高い鼻もシャープな輪郭も、変わってない。
ああ、ロー。ローだ。ローがいる。
触れる度、夢じゃないとじわじわ実感が湧いてくる。誇張も無しに毎日、おれはこいつの夢を見ていた。そして毎朝現実に引き戻されて。
もうあの繰り返しをしなくていい。それを思うだけで目の奥が熱くなる。
「……おい、なんだこの服」
頭から被せられた真新しい服を着ている間にローがつまみ上げたのは、カマバッカの皆が作ってくれた外套だった。
背中には“私達の天使リバー“の刺繍付き。あと裾はフリルがびっしり。おれは大して気にならなかったが、ローはそうでも無いらしい。いかにも不審なものを見る目でフリルを睨んでいる。
「カマバッカ王国の奴らが作ってくれた。それのおかげでここまで飛んでこれたんだ」
「カマ……何?いやその前に、飛んで?……おい、何処からだ」
「シャボンディから」
ローは一瞬で青ざめたように見えた。脱衣室に走る沈黙にぱちくりと瞬きをすれば、次に目を開けた時身体は既にソファの上にあった。
正しくは、ソファに横向きに座ったローに背を向ける形で、その膝の間に収まっていた。デニムに包まれた長い脚が、おれの両脇を挟んでいる。
「…え…天国か?」
「おい、何があったか全部話せ」
おれの右肩に顎を乗せたローが、不機嫌そうにのぞき込んでくる。近い。良い匂いがする。だがこんなチャンスそうそう無い。恐る恐る身体を倒してその胸元にもたれかかれば、ローの両手が背中から回り込んで腹の上でしっかりと組まれた。
やっぱ天国じゃねェか。ローの手の上に自分の手を重ねて、茹だる脳を必死に回してシャボンディに飛ばされてからのことを思い返した。
要点だけをかいつまんで話すのに随分苦労した。
あの島に落ちてから、大勢の恩人と一人の友人に出会い、スピニッチにビブルカードを渡されるまでのこと。
そしてシャボンディからレッドラインを越え、新世界のデタラメな天候をかいくぐってこの島にたどり着いたこと。
ローはぼそっとツッコミを入れたりため息をついたりしながらも、基本は静かにおれの話を聞いてくれていた。そしてこの島に来るまでの過酷な旅路を聞き終えた後、抱きしめる手に力を込め細く息を吐いた。
「…翼を出せるか」
「え?でも」
「おれが見てェ」
肩から顔を離したローに言われて、おれはそろそろと小さく翼を広げた。せっかくの腕の中なのに、こんなん広げたら邪魔でしかねェ。
感じた不満は、ローがもふっと翼に顔をうずめだしたことで一瞬の内に消え去った。深く息を吸い込んで労るように翼を撫でられる。ざわりと翼が震えた。やばい。羽の一本一本ふわふわ撫でられんの、気持ち良すぎてふやけそう。
「…よく飛んできてくれた。てっきり、どこかの船に紛れて来たのかと思ってた」
「飛んだ方が速ェだろ?」
「は、違いねェな……翼と角、小さくできるようになったのか?」
「あァ、特訓した。見て」
振り返り垂れ下がった前髪をかき上げ額に指の先程生えた角を見せれば、ローは優しく目を細めて笑ってくれた。ああ、久しぶりの笑顔だ。新聞越しとは全然違う。沸き立つように嬉しくなってつい調子にのった。
「へへ…小鬼みてェでかわいいだろ?」
「あァ」
「えっ?…い、いや冗談だって…」
「おれは冗談じゃねェが」
恥ずかしくなって前髪を下ろそうとしたけど、ローがそれを許さなかった。目を伏せて角の先に唇で触れながら、垂れた髪を梳かれる。間近に迫った端正な顔の全てを見逃すまいと目を見開いた。幸せの過剰摂取。
「髪が随分伸びたな」
「…シャボンディでさ、今度はあんたが切ってくれるって言っただろ。だから伸ばしてた。あんたに会えるまでは絶対切らねェって誓った」
「…」
「やっと切ってもらえる」
黙ったローが労るように髪に唇を落としてくれて、おれは今度こそ翼と角をしまった。余計なもんは無い方が良い。
「でも、結構きれーだろ?サンジがほとんど毎晩ブラシで梳かしてくれてさ」
ローが背後でぴたりと動きを止めた。え、なに。ぱっと振り返れば何故だかやけに機嫌の悪そうな顔がこちらを覗き込む。
「…お前何回そいつの名前を言うんだ」
「そいつ?」
「黒足屋」
「サンジ?しかたねェよ…だって毎晩一緒の部屋で寝てたんだ」
「……」
「何、え…ロー?」
黙り込んだローは、額を肩に乗せて顔を隠してしまったかと思えば、おれの腹に最大限まで腕を回してぎゅっと力を込めた。
…なにこれ、なんかこう分かんねーけど、第三者的な目線で見たらローがおれに甘えてるみてェな構図になってる、の、では。
「ろろ、ロー。大丈夫か、これあれか?一年半以上もあんたのいない日常を過ごしたおれへの褒美か?」
「………何言ってんだ馬鹿」
「だってこれ……」
「あー…変わってねェな…リバー」
肩を揺らして笑ったローに後ろからキツく抱きしめられて、ローの胸元がぴたりと背中にくっついて、おれは、おれは───あれ。
冷水をぶっかけられたように、熱の集まっていた脳が一気に冷えた。
密着した身体だから分かる。外ではお互いの分厚いコートのせいで気が付かなかった。
おかしい。そんなことはあり得ない。でも。
多分いま真っ青な顔になってる。おれは震えそうな身体を抑えて振り返った。
「…ロー、心臓どこにやった」