5


ローはそれほど多くのことを語ったわけでは無かった。

家族と故郷を失った絶望と怒りの淵から救ってくれたドジな恩人のこと。ローの命のために奪ったオペオペの実を巡る諍いで、彼が命を落としたこと。その恩人の仇を討つため生きてきたこと。
ローはその恩人のことをコラさんと呼んだ。過去を語るその口調は淡々としていたが、コラさんの名を言う時だけは、あったかいような寂しいような、表しようの無い感情が込められているように思えた。

「で、その目的を叶えるための足がかりがこの島にあるんだな」
「……リバー」
「おれァあんたのためならなんでもする。文字通り……なんでもだ」
「泣いてんのか」
「汗だ」
「こんなに寒いのにか」
「…くっついてるから暑い」

下手な言い訳をして、寄りかかっっていたローに背を向けて体を丸めた。立てた膝に目元を押し当ててなんとかそれを止めようとしたけど、意味を為さない。

“コラさん”を失ったローの心情を思うだけで、湧き上がるように涙が溢れ出た。だって、家族も故郷も全部失って、地獄の底からから救いあげてくれる人に出会えて。それなのにその人まで失うなんて。
例えばローを目の前で失ったとして、おれはこんなに強くいられるだろうか?想像もできない。したくもない。
黙り込んでいれば、背後から伸びてきた手が優しく髪をすいてきた。

「……あの人も、おれの話を聞いて泣いてくれた」
「ッおれ、のは、っただの自分勝手な涙だ。一緒にしちゃ失礼だ」
「別にいい。そんな事で怒る人じゃない…きっと笑って慰めてくれる」

静かで、でも優しい声に胸が詰まる。思わず振り返ってその腕に頬をすり寄せれば、肩から回り込んできたローの指が、涙で濡れた頬をふにふにと突いた。面白がるような低い笑い声がくっついた身体から伝わってくる。いたずらに頬をつつくタトゥーの映える手を取って、その手のひらに顔をうずめた。

ちょっと冷えた、でもあたたかい手。
大切な人の命を取りこぼしてしまった手。
そして、彼の本懐を遂げると誓った手。
おれの命を、救ってくれた手。

誤魔化した涙はなおも溢れてローの指を伝った。おれと自分の目が同じだとローは言った。あの地下牢に繋がれていた時、おれは地獄の底にいるような気分で弟の仇を討つためだけに命をつなぎ止めていた。
あんな泥を煮詰めたような状況だったおれと、自分が一緒だなんて言ってくれるなら。あそこから連れ出してくれたあんたのために、おれもあんたを連れ出す助けになりたい。

「で、仇ってのが……そのジョーカーって奴なんだよな」
「…ドンキホーテ・ドフラミンゴ。七武海の一人で、今はドレスローザという国の王だ」

七武海で、一国の王。ローが単独行動をしている理由や七武海に加入した訳が見えてきた。一人で背負って、一人で為そうとしていたんだ、この男は。

「あんたが行く先に、おれも行く」

手の甲の刺青に唇を押し当てて、こちらを見つめる灰色の瞳を見返した。

「傍にいたい」
「……そうしろ」

忠誠、とかそんな格式ばった大それた言葉では形容できない。おれがローに向けるこのどろどろとした感情は、どこまでも自分勝手なものだ。
だけどローはそれを容易く受け止めてくれた。短い返事だったけどその口は確かに弧を描いていて、心が歓喜で震える。本当に、ずっと傍にいられたらいいのに。永遠なんて無いと分かっていても望んでしまう。やっぱり自分勝手だ。

「なぁ……心臓あったとこ見てもいい?」

無言で頷いたローの服をたくし上げて、四角に空いたその穴を見つめた。酷く空虚な気分になる、向こう側まで見える空洞。
ドンキホーテ・ドフラミンゴを倒すため、その足がかりとしてローはこの島にいる。交渉材料である人間を捕らえるために。そしてローの強さを恐れたその人物に心臓を差し出した。

タトゥーの彫られた胸に指をはわせて、その穴の淵にキスを落とした。絶対にいつか取り戻してみせる。そんな決意を込めて。

大きな手が後頭部に優しく乗せられたのに気づいて、口を離して顔を上げた。切れ長の瞳が伏せられて静かにこちらを見下ろしている。
伸びをするように首を持ち上げてその唇に吸い付けばゆっくりと手が背中に回されて、ローに殆どもたれかかる形になった。

お互いの胸がぴたりと触れ合うのに、ローの鼓動は聞こえない。
やるせない思いを押し付けるようにして薄い唇に舌を這わせた。

ローのことが好きってのは当然としてさ。
この煮詰まったドロッドロの感情は、愛してる、って言葉を使える程誇り高いもんでもないし、恋してるってほど可愛いもんでもないと思う。ただ死ぬまで傍にいたい。触れていたい。それで、もし邪魔する奴がいるなら殺してやる。

こういうの、全部ひっくるめて何て言うんだろう。あんたに言わせりゃ、海賊は自由なんだから感情に名前なんかつけなくても良いんだろうけど。

このキスを拒まれたら多分すげー悲しい。あんたが受け入れてくれて、死ぬ程嬉しい。

少し開かれた口の中に舌を差し入れて、そのままソファに押し倒した。両手でその頭を抱えるようにして舌を絡ませれば、耳を指でくすぐられる。一年半ぶりくらいに味わうローの舌は、やっぱり甘くて最高。

「…なァ、変なこと聞くけどさ……」

肘をついて、間近にあるローの顔を見つめながら唇を離す。形の綺麗な唇が二人分の唾液で光ってるのが目に毒。ローは手を持ち上げておれの髪の根元を撫でながら言葉の続きを促すように瞬きをした。

「………おれがいなかった間、誰かとした?」

口に出してからすぐ後悔した。普通に考えてこんな完璧で最高の男前が一年半も放置されてる訳ない。商売女とか、行きずりの奴とか、そういうのがほっとく訳ない。ていうかそもそも、ローが他の奴とどうこうしていたとて、おれに嘆く資格も理由もない。

「あー悪ィ忘れて。デリカシーに欠けた質問だった、スミマセン」
「…っはは、お前、本当に隠せなくなったな」

身体を起こして離れようとしたけど、くつくつと笑ったローの大きな手に頬を包まれそれは叶わなかった。あれ、予想外。踏み込んだこと聞かれんの嫌いかと思ってたけど、おれを見つめる顔はやけに楽しそうに見える。
ぐ、と腕を引いたローに誘われるまま、その身体の上に倒れ込んだ。

「この島に来たのが1ヶ月前くらいで、その前は前で七武海加入のためにやらなきゃならねェことが山積みだった。だから遊んでるヒマは無かった。…これで安心したか?」

秀麗な顔が余裕たっぷりに微笑んだ。おれはと言えば、そんな殺傷力の高すぎる笑顔を数センチの距離で浴びて頭が茹だりながらも、質問の答えに何故か喜びを感じてしまって困惑しきっていた。

なんでこんなに嬉しいんだろ。別に喜ぶような立場でもねェのに。

「お前は?」
「……え…?」
「お前はこんな事する相手はできたのか?」

問いかけの形をとってはいるが、ローはおれの答えなんかもう分かっているように目を細めて口角を上げた。悪ィ笑み。あー悔しい。悔しいけど、全部正解。せめてもの抵抗で、顔だけは逸らしてローの胸元に伏せた。

「……分かってんなら聞くなよ。できる訳ねーだろそんな奴。おれ、キスしてーって自分で思ったのあんたが初めてなのに」
「あ?そうだったのか」
「そーだよ。キスなんか無理やりされんのが普通だったのに、気持ち良すぎて死にそうになることもあるってあんたのせいで覚えちまった」
「…無理やりが普通?」

──あ、ミスったかも。一気に怪訝になった声色に、余計な事を言ってしまったことに気付いた。ローに出会えたことを思えば、おれの過去の数え切れない汚点に何の意味も無い。
こんな風に口に出してしまったのは、カマバッカで見たあの悪夢のせいだ。本当にずっと、忘れてたのに。

「あー…いや別に、なんでもない。あの島の荒れ具合思い出したら想像つくだろ。大したことじゃない。あんたといた時は忘れてたし…」
「…知りたいって言ったら?」

顔を上げれば、ローは静かな表情でこちらを見つめていた。思いのほか真剣な顔に驚き唾をのんで、硬い胸板の上に寝そべったままぴしりと固まった。このクールな男に昔のことを尋ねられたことは殆ど無い。おれもローの過去をどうしても知りたいと思ったことは無かった。どんな過去があろうが、ローはローだ。

だからこの反応が意外だった。おれのことを知りたがるなんて。
…しかも、なんかちょっと怒ってる?腰に回された腕が逃がしてくれそうにも無かったし別に話せない訳でも無かったので、少し逡巡してから口を開いた。

「……あー…あんたと出会った頃さ、人買いの親父が口に突っ込んできたって話したことあんだろ」
「ああ、お前が噛んでやった奴か」
「そ。…でもあいつだけじゃなくて、ああいうこと結構あったんだ。まだ細くて弱かった頃は、まあ色々。抵抗したら折れるまで殴ってきた奴もいた。滅茶苦茶な環境だった。……おれ、あんたと出会うまで本当にこの顔が憎かったよ。弟とおれに悪いことばっか運んできやがってさ」

狭いソファの上、ローの隣に寝そべってその腕に頭を預ける。面白くもない話、聞かせてごめん。そんな気分でこそりと伺い見れば、こちらを向いたローは険しい顔をしていて、それとは反対に柔らかく優しい手つきで頬を撫でてくる。静かに目を閉じてその感触を感じた。…こんな風に触れてくる大人は、一人もいなかったな。

「…そうだったのか」

ぽつりと言って身を屈めたローからあまりに優しい口付けが額に降ってくる。明かりが灯るようなその感触に、おれは今この瞬間に初めて、あの雪のふりしきる故郷で襲ってきた理不尽な出来事の数々が酷く残酷なものだったのだと気が付いた。

こんなに優しい人に出会えていたら、あんな事経験しなくて済んだのに。
あんなに恐ろしくて怖い思い、本当は……本当は、したくなかった。

肺が上手く酸素を運ばなくなって、呼吸が荒くなる。苦しい。ああ、こんな苦しかったんだ。大きな手のひらが、落ち着かせるように胸を撫でた。

「……海賊も嫌いだったんだ。あいつら乱暴で、身体ばっかでかくて…………本当に、あんたと出会うまでは大嫌いだった…それに、大人も全員嫌いだった。おれは弟しか信じられなくて……ああでも、これもあんたに出会うまではだ…」
「…リバー」

睫毛にローの唇が押し当てられた。数秒置いて優しく離れたその唇が何かで濡れていて、おれは今、また泣いているのかもしれないと思った。

「…聞けて良かった。お前の過去がどうであろうと、ここに傷が残ってるなら埋めてやれたらと思った」

トン、と指でさされたのは心臓だった。そのまま服の中に手が入り込んできて、トクトクと鳴る心臓の上を掌が覆った。おれの熱が、冷えたローの手に移る。

「無理やり触れられるのは普通じゃねェ。こういうのはお互いを許した相手がいて初めて成り立つ。……今のお前なら、もう分かるよな?」

紡がれる言葉に浮かされるように、ローの細い腰に腕を回した。少し服をめくって、その肌を撫でる。ローの素肌をこんな風に意識して触るのは初めてで、おれの手の動きに反応して少し目を伏せるその表情に、釘付けになった。

お互いを、許した相手。それがあんたなんて、ああ、本当に幸せもんだ。
お返しとばかりに、胸に置かれていた手のひらが身体のラインをなぞるように肌を滑る。

「…気持ちいいか?」
「……っうん」
「おれが教えてやる。本当に気持ちいいこと全部」
「ぜん、ぶ?」

薄い唇がゆっくりと微笑んだ。

「お前がおれに触れたいと思う限りな」
「……ッ!!」

ぎゅっとローに抱きしめられて、そのままソファからベッドの上へとぱっと移動した。
こんな、こんなずるい言葉があるか?ああ敵わない。無言でひたすらに頷くおれに笑いを漏らしたローが薄い掛け布団を引っ張りあげて、二人してくるまれる。

「全部って、なに」
「ゆっくり教えてやる…お前、今は眠ィだろ」
「目冴えた。あんたのせい」

半分嘘で、半分本当だった。ローはまた笑って、おれの額を指で小突いた。

「あ、今ガキ扱いした?あんたと離れてる間におれもう二十歳になったんだけど」
「ガキ扱いじゃねェよ…時間はある。おれはここにいる。離れねェ」

瞼にキスを落とされて、安堵した身体が長旅の疲れを途端に思い出した。…やだ、無理、気持ちいいことって何。急速に襲ってくる睡魔に抗おうとしたけど適わなかった。

「…リバー、よく二十歳まで生きたな」

大好きな香りのする腕の中で、ぽんぽんと頭を撫でられる。
外は吹雪だってのに、布団だって上等なもんでもないのに、ここが世界で一番あたたかいと思えた。


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