1-12:ルール@戦闘力ゼロ
 あとほんのわずかも経てば太陽も覗くだろうという空はくすんだマリンブルーで、海から立ち上る乳白色の朝靄に包まれている。じゃぶじゃぶに水分を含み、無駄にのどに優しいような空気を俺は思う存分吸い込んだ。それこそ一晩分というほどに。

「身体が戻って空気がうめえ!」

 燗に障る裏声でアテレコしてくるのはもちろん、隣を歩く呉である。数時間前彼は結局茶番となったとはいえ結構な勢いでボコボコにされたというのに、その顔は何事もなかったかのようにつるりとしている。それも関係のあることなのだろうか。

 呉には魂が無い。

 渕屋の暴露のあと、いよいよ問いつめようとした俺をさえぎって、呉は『駅まで送ってあげるよ、もうすぐ始発出るから』と促した。この無神経の塊のような男にも触れられたくないことがあるのか、まあそりゃ、人間なら誰しもひとつやふたつ。と頭では理解しているものの納得が追いつかず、一縷の望みを託して渕屋を見やるも、彼は既にしかめまくっていた表情をいっそう歪め、立ち上がって部屋の片づけにかかってしまった。目の前に餌だけつるされてすぐにひっこめられてしまった心地だが、態度で示されてしまってはお手上げである。つっこんで聞くのは躊躇われる。なにせ俺にとって彼らは命の恩人に他ならず、借りだけは山ほどあるのだ。結局連日夜毎の幽体離脱で抜けやすくなっていたところに尻餅の衝撃で抜けてしまったというのが真相のようだし。借りだけは山ほどある。ちなみにアリエルには貸ししかない。それで結局、俺の口は気になることとは別のことばかり話す羽目になる。

「なんか久しぶりに眠れた気がするんだよ」
「ああ、抜け癖ついてたらそりゃあね」
「眠ったつもりはこれっぽちもないんだが」
「いやいや、どっちよ」

 ここ最近、例の幽体離脱の夢(今件を鑑みるに夢ではないらしい)を見るようになってから、眠ったはずなのにまるで眠った気がせず、地獄の目覚めとしか言いようがない日々が続いていた。逆に昨晩は体感的には一睡もしないまま夜が明けているのに、久しぶりにぐっすり眠った後のような朝のすがすがしさ的なものがある。俺の身体的には昨夜一晩仮死状態であったわけだし、くわえて渕屋が俺の身体に魂を戻す奮闘をしていた数時間は本当に意識を失っていたわけだし、眠っていたと言えなくもないのかもしれない。そういえば呉にしたって徹夜明けとは思えないほどピンピンしている。渕屋のもとで俺が気を失っている間、正確には何時間かもわからないが、眠りでもしたのだろうか。それとも、眠らなくたって平気なのか、魂が無ければ。そもそも身体と魂、どちらが眠りを欲しているものなのか。どちらも欲するものなのか。というか、やっぱり。魂が無いって、やっぱり。もしかしてやっぱり、

「…あのさあ、さっきは渕屋がなーんか機嫌悪くて怖ぇから流したけど、『魂が無い』ってここに無いってだけだから」

 呉は何か察したらしい。とんとん、と自分の胸を指しながら、声色の深刻さとは裏腹に、相変わらずニヤニヤと笑ってはいるが。

「身体の中に無いだけで、ちゃんと俺の魂はこの世に存在してるから。…ちょっと別のとこに置いてるだけっていうか」
「…どうやって?」
「おぉっと〜!?ぐいぐい来るね〜そんなに気になっちゃう〜?やだもうこの知りたがり屋さんめ〜!でもこれ以上は企業秘密ってやつだわ。おにーさんコレ払えんのん?ん?」

 下品なハンドサインをずいずい突き出してくる呉にイラつくな、イラつくな…と精神力を総動員し、結果、俺はなんとか引き下がった。つーかそんなぐいぐいいってねーし。

「まったく渕屋も言葉が足らねえよな。あの言い方じゃ俺が死んでるみたいじゃん。ゾンビじゃん」
「あ、死んでないんだ、びっくりした」
「いや最初に言ったよね?俺まだ死んだこと無いって。だから最初、平池さんに野次う…ついて行ったんだし」

 確かにそんなことは言っていた気がする。『誰だって自分が死んだらどうなるのかは、できれば死ぬ前に知りたいじゃん?』そんなことを。
 魂が身体の中に無いのなら、普通なら、死んでしまうのではないか?昨夜、光のケーブルだけで繋がった自分の身体を思い出す。まるで死体のようだった。実際、心臓だって止まっていただろう。この光のケーブルが切れたらアウト。そんな確信がずっとあった。そんな心細いような恐ろしい確信がずっと。身体の外にあって、身体はそれこそ他人のもののようにどうすることもできないものだった。呉の身体には、その光のケーブルすら生えていない。昨夜から一度だってそんなものは見かけない。魂を置いても平気で、歩いて行ってしまう身体。呉曰く、99割ありえない例外。
 くすんだマリンブルーだった空が、次第にサーモンピンクの様相を呈してくる。まだかろうじて眠りの中にある町並みを覆う朝靄、それをかきわけるように進んでいく。この街特有の、きめ細やかに入り組んだ路地。その数は膨大なもので、子供の頃から何年何十年と歩き回っていても、まだ通ったことのない、なじみのない路地が無数にある。

「で、魂が入ってない身体っていうのは、いろいろルールがあるみたいなんだよね〜。そのへんはまあ、わかるっしょ?昨日平池さんも身体なくなっていろいろ大変だったから。まあそうそう前例があるわけじゃないし、ていうかぶっちゃけ俺くらいしかいないから。どんなルールがあるかは俺の経験則でやってくしかないんだけど。昨日、平池さんに俺の身体に入ってもらったのはまあ、そのルールのひとつだよね」
「あ、はいそこを知りたいって言ってるんだけど。言っとくけどお前の身体、すっげー憑き心地悪かったからな」
「へーそんな感じなんだ…。ちょい平池さん、こっち向いてみ」

 おい今なんかテキトーじゃなかったか?と訝りながらも素直に呉のほうを向くと、まさに呉が拳を握りしめ振りかぶるところだった。制止する間もなく、フルスイングした拳は俺の顎にクリーンヒット、見るも鮮やかなアッパーカットである。殴られた、理由もなく。ひどい。と思えば人間、身体は勝手に動くもので、アッパーカットを決めた体勢のまま余裕ぶっこいていた呉の胸倉を俺はすみやかにつかみあげ吊し上げた。

「ちょちょちょちょちょっと待って待って待ってくださいよ平池さんん…!」
「何を?何を待つの。憑き心地最悪って言ったのが気に入らなかったのかな?でも急に殴られたのをへらへら笑って許すような、そんな大人には俺はなりたくないんだよ…」
「待ってって!マジで!痛くないでしょ!?俺が今殴ったとこ!なんともないでしょ!?」

 言われて、愕然とした。確かに。痛くない。痛くないどころか、衝撃も、拳の当たった感触の名残りすらない。あれだけ見事に殴られたというのに、完全なるノーダメージ。なんともないのだ。まるで本当に何事も無かったかのようだ。確かにきれいなアッパーカットが決まったというのに。この目でそれを見て、その瞬間は確かに殴られたと確信したというのに。呆然と胸倉をはなすと、呉はスススッと1、2歩距離を取り、ホントすぐ暴力に訴えるよな社会人のくせに、だの聞き捨てならない理不尽をぶつぶつ垂れた。しかし目が合うと取り繕うようにニヤニヤする。よわい。

「“魂の無い身体は、ヒトに危害を加えることができない”」

 俺はダメなんだこういうのは。昨夜、アリエルご一行に出くわした呉はそんなことを言った。とにかく俺じゃあダメなんだと。確かに、これではどうしようもないだろう。腕っぷしどうのこうの以前の問題で。

「俺、戦闘力ゼロなんだよね。だからマジで、もうちょっと優しくしてくれてもいいんじゃないスかねぇ〜」

 そんなことさえ呉は、相変わらずあの人を煽るようなニヤニヤ笑いで言ってのけるのだった。


 狭く鬱蒼とさえした路地を抜け、路面電車の線路の走る大通りへと出る。空はだいぶ明るくなり、大通りにはちらほらと活気と喧噪の気配が芽生え始めている。路面にうかぶ島のような小さな駅には、さすがにまだ人気はなかった。時刻表を覗きこんだ呉が『あと10分くらいだね〜』などとのたまう。送ってくれるとは言ったが一体どこまで送ってくれるつもりだと懸念していると、『俺も帰るんだってば。平池さんとは逆の方向だけど。逆はまだしばらく来ねえから』と釘を刺された。
 これから路面電車に乗り、バスに乗り換え、家に帰る。そう、家に帰るのだ。時間的余裕を考えると、帰宅してすぐ出勤することになるのが多少憂鬱だがかまわない。そんなちいさな不満さえ、身体が見つからなければ抱くことすらかなわなかったものだ。きっと少しぎくしゃくしたままになっている恋人未満とどう接すべきかという悩みも。そのまま消え失せるところだった。本当にどうなることかと思った。本当にいろんなことが起こった。今となりで遠く路上に電車の有無を伺っている男、彼の得体の知れなさと天性のアオラーっぷりに振り回された。目星をつけた場所に身体が無くて二度もがっかりした。人身売買(仮)の現場を初めて目の当たりにした。他人の身体へ取り憑くのは最低の心地だと知った。理不尽に渕屋に蹴られた、エトセトラエトセトラ…人生はちいさな不満と悩みの積み重ね、だがそれを享受するのも贅沢のうちであり醍醐味のうちだろう。

「そろそろ向かい側のホーム行っとくかな」
「おい、呉くん」
「その“クレクン”ってなんかめっちゃくすぐったいんですけど〜」
「その、いろいろありがとな、本当に感謝してる、殴ったりしたけど」
「いいって、いいって。こっちこそありがとうだからさ。殴られたりしたけど」
「お前だってさっき盛大に殴っただろが」
「だから痛くなかったでしょ!こっちはアリエルに殴られて一応超痛かったよ〜すぐ治るけど」

 アリエルは知らねえ。と思いつつまた疑問符が浮かぶ。こっちこそありがとうとは?考えてみてもすぐには思い浮かばない。結局俺は呉の当初の期待に添えず、死んでいなかったわけだし。遠く路上に路面電車の姿が見えた。やべっ、だか言ってそそくさと線路を渡りきった呉は、こちらを振り返ると、あの人を絶妙にイライラさせるニヤニヤ笑いを浮かべる。そういえば気になることがあと一つだけあった。

「さっきあの、渕屋くんが俺のこと『前代未聞』とか言ってたけど」
「ああ。だって魂って分かりやすく言えば揮発性だから。身体から出たらすぐ霧散して消えちゃうから。だから魂剥き出しの状態で一晩無事だったってのが信じられないんじゃねえの?」
「マジで」
「マジで。だから幽霊なんか見たことないって」

 最後にとんでもないことを聞いてしまった。昨夜の身体が行方不明の時点で聞いていたらストレスで死んでいたかもしれない。これからはなんとしても安易に抜け出さないように、尻餅なんかつかないように気をつけなければ。
 思わず真顔になるも、自分の口にしたことの大仰さに気付いていないのか呉は相変わらずへらへらしている。まあ、彼はなんてったってその魂が無い身だ。多少のことはそれこそ「フツーにありえる」と思えるのだろう、きっと。

「じゃあね、平池さんお元気で。また身体失くしたら渕屋んとこにおいで〜また探してやるよ」
「いやそんな何回も失くさねえだろ」
「いやいや、なんかまた失くしそうな気がするもん平池さん、うっかりしそう。二回目以降は有料だし渕屋のケツキック付きだから」
「縁起でもないこと言うな!」

 電車が入ってきた。乗り込む俺を、窓の外の呉がヒラヒラ手を振り、ニヤニヤと見送る。本当に最後までイライラさせることに余念がない。あれが無意識なのだから恐ろしい。そんな敵を作りまくりそうな生き方で平気なのか、戦闘力ゼロのくせして。
 動きだした電車の中で、俺はため息をついた。やめだ、やめだ。次に電車を降りれば日常が待っている。俺のちいさな不満と悩みと、愛しさに満ちた日常が。
 願わくば、またアイツに会うようなことが無いように、平穏に生きていけますように。
 これから始まる何の変哲もない一日の予定をなぞりながら、俺はなんとも名状しがたい心境から、少しだけ笑った。



Gloon's:平池さん編おわり
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