遙か遠く、茫洋に、古い鉄製の建築物が風で鳴るような音が聞こえるのはもれなく気のせいだ。経年劣化で否応なしに磨り硝子のようになってしまった窓のその桟。信じられないほどに錆び付いて、撫でると大昔に色を失って久しい塗装がバリバリとはげ落ちた。また鳴っている。錆び付いた鉄塔の風鳴り、あるいは海中でしか暮らせないような巨大な生き物の出す鳴き声ような音。もちろんもれなく気のせいだが後者ならまだ可能性はある。まだ発見されていない、または生命維持の摂理が既知の生物とは違う巨大生物とか、それならまだ可能性はある。なぜならここは深い海の底、そのまた底の底過ぎてもはや海と呼べるのかすらあやうい深海域で、おそらくいかなる生き物も生きては到達したことがない沈黙の世界だからだ。
「“観覧車”ってさあ、どういう字書くか、アンタ知ってる?」
「字?さあ、あまり気にしたことがなかったな。書けると思うが、書けないかもしれない」
「ちょっと書いてみろって」
化学反応の限りを尽くし錆付きまくっているのは窓枠の他も同様で、同じ素材のエンボスの安っぽい床材やクッション性の欠けらもない座席、一枚板を曲げ伸ばしただけのような低い天井まで、錆びていないところがない。気を抜けば錆か劣化した塗装がパラパラ降ってきそう。事実、気まぐれに座席に置いた手のひらにはざりざりとした感触がいつまでも残っている。
そんなホラーゲームの導入ステージのようなシチュエーションに、向かいに座る男は笑えるくらいなじんでいた。日本かぶれ和装スタイルはいつもながら健在で、灰色のような紺のような深緑のような、なんかよくわからない色の着物が光もなく錆び落ちた背景に溶け込んでいる。いきおいぼうっと浮き出した肌の色は相も変わらず紙のような白さなので、いっそ幽鬼じみてすがすがしいほどだった。俺はもう限界ってくらい尻が痛いんだけど、この男はそうではないんだろうか。彼の黄色い瞳の色だけが、俺の視界で唯一色味をもって煌めいている。
「ねえ書いてみろって、紙とペンは?」
「呉くん、そこにあるが」
彼が指したのは俺の尻の横のわずかなスペースで、なるほど確かに皮表紙の手帳と万年筆がある。ただ、そこにはつい数瞬前まで俺の手があったのに。とりあげて、すでに古文書のような文字で埋め尽くされているページはスルーして、白いページを開いて男に突き出す。男は素直に受け取って、わざとらしく首を傾げたあと、羽織の袖から覗く手首から爪の先まで完璧におんなじ色味をした手でうやうやしく書き記した。
“かんらんしゎ”
「またまた、そういうのいいから。面白いと思ってんの?」
「いやいや、合ってるだろう。…間違っているか?違う気がしてきたな。このへんに棒線が2、3本足りないか…」
「いや!もういいやそれで、合ってるよ。ちがくて、フツー書ける?って聞かれて書くのは漢字のほうだと思うけど?そこんとこ頼むよ、な?」
「漢字か。漢字はわからん、書けない。見たら思い出すとは思うがね。聴くのと読むのと話すのができたら、この程度の文明社会ならさして困らない。書くのは後回しになってしまう。日本語はめんどくさいし」
さりげなく日本語と現代社会をディスってきた。とても日本かぶれとは思えない言い訳である。言語のひとつやふたつ、この男ならば人間には理解できない摂理でどうにかできそうなものなのにそうでもないのか、あるいはあえて人間風のやり方で覚えるなんて酔狂なことをしているのか。わからないし、正直そのへんはどうでもいいけどこの男が酔狂なことだけは確かだ。この男が酔狂でなければ、俺は今どこにも存在しない。
見ていると不安になってくるような筆跡の“かんらんしゎ”の横に“観覧車”と書き付けて、男から奪った手帳を返した。すると男はまたわざとらしく首を傾げ、そしてさも最初からわかっていたとでも言いたげな腹立たしい顔をする。眉の上がり具合が本気で憎たらしい。
「なるほど。“みて、ながめる、にぐるま”」
「そう!そうだよそのとおりだよ観覧車ってそういうものなの、ゴンドラに乗って、やっべー思ったより高えな人があんなに小さえとかビビりながら一緒に乗った女の子に『きゃーんこわーい!』って甘えられたり『きゃーんスカイツリーよー!』『きゃーん稲佐山よー!』なんて喜んだりするもんなの要するに景色をね!楽しむものなのさ。それをこんな、こんな上も下も横もわかんねえ真っ暗なとこに造ってもさあ何を観覧するんだって話だよ」
そう、今俺たちが膝をつきあわせているこの錆び付きまくった密室は、死の世界こと深海域にそびえ立つ観覧車のゴンドラのひとつである。ただ再三言うとおり立地条件が観覧車としては最悪なために、観覧も感動も何もない。窓の外は見渡すかぎり上も下も真っ暗で、自分たちのゴンドラが今どのくらいの高さ(?)を回っているのかはおろか、隣のゴンドラの姿さえ目をこらしてもおぼつかない。つまるところ観覧車の醍醐味が徹底して排除されていて、どの層に需要があるのかまったくわからない。
「しかも一緒に乗ってるのはオッサンだし」
「ただのオッサンではない、デリケートでナイーブで繊細な美中年だミステリアスだろう」
「いらない」
そんなのはありがたくもない、いらない。男はなにか手帳に書き付けながら「ハッ!!」とたいそう見事に鼻で笑った。なにがデリケートだナイーブだ繊細だ。デリケートでナイーブで繊細ってほぼほぼ全部おんなじ意味だろうが。ふざけてんのか。いやこの男がふざけていないときなんて、それこそないんだけど。
「そうか。そんな乗り物だとは知らなかったな。ただ形が気に入ったので造ったんだが」
「形ィ?」
「鈴生りの目玉が輪廻して始めに戻る。おのおのの意志など関係なしに。巨大なのもいい。人間が巨大なものを眺めている姿は少し、懐かしいからな」
「“懐かしい”だって、アンタが、ウケる」
それこそ酔狂じゃないか。そんな人間みたいなこと言うなんて。
「そら、自分の名前なら書ける。お前の名前も」
「俺の名前なんか一文字だろ」
長らく書き付けていた男が、今度は得意げに手帳を差し出してくる。しかしなぜこうも眺めていると不安定になってくるような字が書けるんだろう。マヤ文字っぽい。
“冠城 神座武郎 かぶらぎ じんざぶろう”
“呉 くれ”
“冠城 神座武郎”これこそがこの黄色い目した男の名前なのだ。長すぎるし仰々しくてナマイキなので“ジンザ”と俺は呼ぶけれど。もちろん本名ではない。しかしそれを言うなら俺の“呉 くれ”だって本名ではないし、じゃあ名乗るべき本名が真に存在するのかというと無いのも同じだ。そもそも俺に“呉”と名付けたのがこの男なのだし。それで書けなかったら名付け親の名が廃るだろう。
「アリエルの仕事の邪魔をしたそうじゃないか」
万年筆を放り投げ、ジンザは貫禄たっぷりにふんぞり返った。黄色い目が眇められて煌めく。エンボススチールの床に万年筆の落ちる音はいつまで経っても聞こえてこない。きっとひどい音がするはずなのに。さておき、邪魔というのは十中八九平池さんの件だろう。ボスに持ってくとかなんとか言ってたし。
「邪魔なんてしてないよ。俺はあの死体、持ってくのやめてって頼んだだけ。つーか死んでなかったし。あっさりやめちゃったのはアリエルだよ」
「そうだろうとも。私が頼んだのはアレではない。まったく、あんなものをあんな場所まで持ち込みおって、おかげで脚が数本暴れて道路を壊してしまった」
「公道?私有地?直した?」
「直すとも」
つまりまだ直してないのか。窓の外は代わり映え無く暗い。この観覧車は本当は一ミリだって回っていないのかもしれない。なんとなくジンザの脚もとに目をやった。黒い足袋を履いた脚が二本しかないと思う。暗くてよく見えないけど。
「しかしアレはアレで面白い、思わぬ収穫があったと思わんかね。幽体離脱!魂を一晩も大気に触れさせて平気な人間がいるとは!しかも、あの紐!笑わせてくれる。とんだ人間がいたものだ。渕屋は認めたがらないだろうな?商売上がったりだろう」
「別にそれが本業ってわけじゃないからな、渕屋は。それにまあ、渕屋ねえ…」
「なんだ、どうした」
一人でテンションMAXになっていたジンザがわりに敏感に笑みを引っ込める。このへんは人間でないにしては繊細だと認めてやってもいいかもしれない。それよりも渕屋の野郎である。あの仏頂面の、エセメタラーの、デカブツの渕屋である。あの野郎、なぜかしらここ最近俺に冷たいのである。つれないのは元からだが露骨に邪険にする。泣く。
「挙げ句の果てには出禁だぜ出禁!渕屋の店に当面顔出すなって」
「なんだ、喧嘩か、お子様じゃあるまいに。何かしたのか」
「わかんねえ心当たり多すぎるんだもん」
「酷いな、死んだほうがいいんじゃないか?」
「なんでそういうこと言うの?しかもアンタがそれ言うと洒落になんないじゃん」
そのとき、今度こそ気のせいでなく金属製の鳴き声が地鳴りのように響いて、俺は真横に落下した。錆び錆びの座席表面を掻きむしりながらずり落ち、重力によってゴンドラのちゃちな扉に押しつけられた。肌荒れした爬虫類の肌のような窓枠に頬が刺さって痛い。ジンザは当然のように座席に座ったままで、俺がへばりついていないほうの、俺からすると天井方向にある扉を押し開ける。真っ黒な海水が流れ込んでくるということはもちろんない。ただ暗がりが口を開け待ちかまえている。どうやら観覧車は倒壊してしまったらしい。
「洒落になるとも、お前がそのように殊勝であり続けるなら」
「なんで観覧車倒しちゃったの」
「観覧車としての機能を果たせてないんだろう?お前が気に入らず、私が冷めてしまったら、もう意味をなさない。ここでは」
「俺の意見が尊重されたことあるんだ、初めて知った」
「死に抗う欲は人間だけが虜になることを許された業だ。ときに呉…こんな昏い深い海の底で、よくも息が続くものだな」
この野郎、と思ったときにはすでに遅かった。その呪詛を口に出す間もなく、恐ろしい質量の海水が俺を叩きのめした。この深海域の暗がりに居て、今の今まで平気だったのに。苦い重い海水が限界まで唇をこじ開け、お節介極まりなく体内と体外の圧力の均一化を図ってくる。水圧にはり付けられ、身体のどこも動かず、それどころか200海里と言わないそれ以上の深さ分の海水に圧し潰され全身の骨が軋み鳴り始める。アバラ骨のカーブが限界まで折れ曲がり、今にも弾けそうになっているのが分かる。全身の肉という肉がギリギリまで圧し潰され無様に広がり、皮膚を突き破ろうとするのが分かる。早い話が地獄の苦しみだ。身体のどこだって一ミリも動かず、水中にあって息も出来ず、暴力的な質量の海水に全身をばきばきと圧し潰されながら、最早肺まで浸入した苦い水のためにえずくことも出来ず、ただ背骨を伝ってくる、俺にしか聞こえない、俺自身の骨が砕ける音だけを聞いている。沈黙の死だ。死の苦しみだ。ぼんやりした視界に辛うじてジンザの輪郭が読み取れる。この野郎身じろぎもしねえ。それもそのはずでこれはまだ可愛げのあるほうの死の苦しみで、彼には何の問題にもならないものだ。
「ま、それはともかく」
襲ってきたときと同じくらい突然に、昏い水圧の一切が突如消え去った。ぐしゃぐしゃに濡れた俺の身体と、肺に満たされた海水の残滓だけがたった今の出来事の証人だった。押し込められていたえずきがこみ上げ、俺はめちゃくちゃに咳き込みながら身体の中の海水を吐き戻す。惨めに蹲り震えびちゃびちゃ音をさせながら塩水を吐く俺を、ジンザが特にどんな顔もせず見下ろしているのがわかる。強いて言うならきっと、もう話を進めてもいいだろうか?くらいの顔をしているに違いない。この野郎。
「いいヒトごっこでさまよえる魂を身体の元へ導いてやるのもいいが…」
ジンザは立ち上がり、俺の足元へ足を降ろし、ようやく俺と同じ重力の方向に立った。俺を見下ろすその顔は影になっているはずだが表情ははっきりと見えるし、黄色い目は爛々と光っている。
「もっと手っ取り早く人間らしく振る舞いたまえよ。業深き亡羊。せいぜい強欲でいたまえ。罪深く在ることだ。長生きしたいなら」
「…人間らしくしようってときに、えほっ、…アンタの意見、参考にすると思う?」
「それもそうか」
半ば強引に引き起こされて、ハイハイと天井の開いた扉から這いだした。どこから光がさすのか、埃のような海底に打ち倒れた観覧車の遺骸がくっきりと輪郭を打ち出している。あるいは自ら淡い光を発しているのだ。生命の終わりの神秘の燐光。みすぼらしく錆び果てて塗装ははげ落ち、バラバラに投げ出された無数の目玉のようなゴンドラ、ただ巨大だ。途方も無く巨大だ。
俺の人生はまさにこの観覧車のようなものかもしれない。ふいにそう思った。もう人生と呼べる代物なのかもわからないけど。それでも捨てきれないのだ。
人間だからね。