2-07:殺したい男

 名前は?
「ケイジ」
 …見逃してくれ、お巡りさん。
「刑事じゃねえよ。おっと前田慶次の「慶次」でもないぞ。大抵みんなそう書くだろうって思いこむみたいだが、漢数字の二で、「慶二」だ」
 …長男なのに?
「母は最初の妊娠で流産した」
 じゃ、その子が慶一?
「ほんの初期の流産だよ。性別も何もわかりゃしない」
 それじゃ君が次男とは限らない。
「まあね。でも、次男なんだよ。少なくとも俺に名付けた瞬間の両親にとってはね。それに、次男だって思っといてくれるほうが俺だって都合がいい」
 …なぜ?
「長男だと、俺の家じゃ面倒なんだ。継ぐの継がないのとかね。そういうのばっかりなんだよ、俺はもっとわかりやすい世界で働きたいね」
 わかりやすいだろ、この世界は。
「わかりにくいよ。本当に、困っちゃうよ。俺には人の気持ちがまるでわからないからな、人を殴りたいなんて思ったことなんかないんだ」
 …ばかだな。


 隻脚の男は目を開く。視界いっぱいに医院の白い廊下。もたれているのは、こんなひと気のない病棟で座る者もないだろうにきっちり等間隔で並べられた黒い長椅子。少し離れたところで、部下が誰かと話している気配がした。
 最近はそぞろ不眠気味で、夜にベッドへ潜り込むのもやめてしまった。眠れない人の常で気分が陰鬱に傾くことは幸いにしてなかったが、代わりに真昼間つかの間の夢見に落ちる。夢を見るのは眠りが浅いということで、そもそも10分にも満たない睡眠で満足など得られようはずもないが、もとより躁気味の身体は倦怠感が麻痺している。白日の夢見のあと、普段と決定的に違うのは頭の中を襲う感覚だ。額から後頭部にかけてがっぽりと風穴が開いている気がする。ぞっとするようなその穴が、誰も知らない、居ない、空間の裂け目へと繋がり得体の知れない風を吸い込んでいるような心地がする。ぜんぶ根こそぎ奪われるような虚無に、その一瞬だけ襲われる。ほんの一瞬だけ。

「電話です」

 部下が、その巨躯を傾けるようにして、うなりを上げる携帯電話を差し出してきた。白い背景に、彼の着衣の暗い色がどぎつく浮き出して見える。めまいがした。まだ眼球が起ききっていない。

「誰」
「錫原組の会長から」
「こんなときに」
「どんなときです?」
「話すことなんか無いよ。聞いてやる話も無い」

 部下は携帯電話を差し出したまま動かないでいる。ため息は出ない、つき方を忘れてしまった。無骨な指のせいでほんの子供のおもちゃのように見えるそれを受け取って、耳に近づけた。とおくほそく、年老いたふうな男の声が聞こえる。人の声と自分の声と耳鳴りの区別がつかない。めまいがした。世界がたわんでいる気がした。そのひずみに押し潰された心臓が急速に鼓動を早めていく。のどの奥と耳元に三つの心臓がある。めまいがする。耳鳴りがする。動悸が止まない。世界がたわんでいく。空間がひしゃげていくのが見える。はっきりと。それこそ白昼夢だ。

「時間がない…時間が…」

 受話口から顔を背けてつぶやいた言葉は呻きになった。当たり障りのないことを言って切った電話を、部下の手に押し戻した。指が不気味なほどに震えている。頭に血が上り始めた。鼓動は速まっていくばかりだ。よくない、よくないぞ。自分の声がよく聞こえない。つんざくような耳鳴りが音の世界に幕を張り、自分の声以外のすべての物音が破壊的に引き延ばされる。空気中のすべての分子がいっせいに棘を生やしたような不快感が押し寄せる。頼むからあと数分ばかり、誰もしゃべるな。しゃべるなよ、と念を押しているのに、彼の部下は話し始めてしまうのだ。

「現状俺らにできることは何もない」
「あるとも。最後の手段だけはいつだって用意してある」
「…アンタの手脚がこれ以上減ることになるのは御免だ」
「こんなもんの一本や二本で何年泣き言言い続けるつもりだテメエはホントに聞き分けねえクソガキだな!!!!」

 厭な音がした。彼の金属の右足が部下のこめかみを強かに打ち抜いたが、部下はほんの少し顔をゆらめかせただけで微動だにせずにいた。病的な癇癪を沈めるにはそれしかない。発憤しているあいだはほんのまばたきだって、すべての動くものが気に障るのだ。動かないのが気にくわないと言われたって、その理不尽もやり過ごすしかない。ただむちゃくちゃに暴れて義足が破損する可能性だけは我慢ならず、以前壊れた足関節の部分を掴む。隻脚の男は意外にもそれっきりで、それ以上爆発することもなかった。消耗しているのかもしれない。

「…アンタの手脚が減ったり、これが壊れたりしたら、また渕屋のクソ野郎の顔を見ることになる、それが我慢ならないって言ってるんです」
「…あっはっは、ホントに嫌いなんだな。あまり嫌ってやるなよ。便利なヤツだろ」
「…」
「それに、そうはならない、ならない、ならないさ。お前がやるべきことをやれば。お前が俺の言うことをちゃんとやれば」

 隻脚の男は息も絶え絶えに言った。これではどちらが暴れたものだかわからない。彼の部下は金属の足首から手を離す。金属の脚が落ちる。隻脚の男はまた途切れるような意識の闇に沈もうとしている。巨躯の部下はぐっと唇を引き結んだ。くそったれが。どことも知れず漏れ出そうな悪態はため息とともに飲み込む。数拍遅れて、こめかみから血が流れ出す。



 天主堂近くで路面電車を降り、込み入った路地に無理矢理敷かれた地獄坂を徒歩で上る。もう少し揺られた先の斜面エレベーターを使っても良かったが、休日も休日、近頃格段に増えた観光客が列をなしているのを想像するだけでどっと疲れた。ほうっておけばそぞろ運動不足になるのはこの国の大人の常だ、たまには歩かなきゃな、なんてその気になったのが間違いだった。地獄坂という名称は伊達ではない。この街はどこもかしこも他じゃお目にかかれないような急勾配の坂だらけだが、そんな街でわざわざ地獄坂と名付けられている坂なのだ。伊達ではない。ほとんど壁のように立ちはだかる急勾配は、一寸気を抜けば転がり落ちるだろう。前だけ見ていないとちょっと本気でひっくり返りそうである。ただ歩いているだけなのに息があがってきた。地味にショックだ、禁煙しよっかな。ことあるごとにそうは思うものの、思うに禁煙において一番の敵はニコチン中毒よりもその義務性の無さだ。家庭があって、タバコなんかやめてくださいよと言ってくれる者が近くに居ればまた別かも知れないが。
 なんとかヒイコラ登り切り、小山すべてを占有する空中庭園にたどり着いた。よく晴れた休日の昼日中、予想通りもなにもといった様子で観光客がひしめきごった返し風情も異国情緒もへったくれも感じ入る隙もない。少し前まではごった返すのは修学旅行生くらいなものだった。今はそうもいかない。にわかに数多の人目に晒されて、居並ぶ洋館群も心なしか輝いて見える。単に清掃が入ったのかもしれないが。
 生き生きと胸を張る戦前の建物を尻目に人波を掻き分け掻き分け、石畳の天地に蛇行する庭園を突っ切った。これだけ人が居れば、たとえ少しばかり注意深い目があったとしても悪目立ちはしないだろう。その前に俺が捜し出せないかもしれない。突っ切った庭園の端は切り立ち、海もとい狭苦しい湾内を見下ろすように張り出した小さな展望台になっている。100円玉を入れて1分間覗けるような据え付きの望遠鏡が3つばかり並んでいるが、庭園と洋館とハート型の石畳に夢中な群衆にはあまり人気がないようだった。一通り庭園を巡り終わった観光客が手すりに寄りかかって休憩しているくらいだ。望遠鏡も切り立った風景も、ここにしかないというものでもない。この街の土地の形状上、それは驚くほどどこにでもあるありふれたものだ。
 そんな望遠鏡のひとつに若い男が取り付いて覗き込んでいた。無防備な後頭部はちゃらついた茶髪に覆われ、傷んで色が抜けているのか、太陽光線のもとでほとんど金髪めいてギラギラしている。かすかに覗く耳の裏に、所狭しとピアスの留め金が並んでいるのが見えた。望遠鏡の中途半端な高さに合わせて中途半端な中腰になっているその隣に並んで、煙草を取り出す。

「園内は禁煙ですぜ〜おやびん、いや平池さん」
「ハーッ、ったく、どこもかしこも」
「これも流動する現代社会の定めなのよ、仕方ないわよね」

 軽口を叩きながら、呉はなおも望遠鏡を覗いたままだ。この街に住んでいながら今更なにを見ようというのか。いつまで覗いているつもりだと肩を小突くと「待って、まだ1分経ってないから。もったいないでしょ」と返される。なるほどそういうことかと納得する自分の小市民性が悲しい。

「何が見える」
「造船所のクレーンが見えるよ」
「んなもんそんなの覗かなくたって見えてる」
「確かに。でもすごいって、このへんに見えるんだからな〜」

 眼下に見える紅白のカンチレバー式クレーンとはあらぬ方向へフラフラと手をさまよわす呉を見て、なんだかどっと疲れた。弓削の話していたことが紛れもない真実ならば、こいつは何をやらかしたもんだかヤのつく自由業の方々に迷い犬よろしくウォンテッドされているのだ。あの弓削の衝撃の告白から一週間、暇さえあればなにやらせかせか調べている彼女を見るにつけ、空気の読めない冗談・作り話であってほしいという希望的観測も消えかけている。今こうして平素と変わらずだらだらにやにやプーライフとでも言うべきライフスタイルを貫いている呉を見るにつけ、まだ弓削もその依頼元も呉にはたどり着いていないようだが。
 それをご健勝なコトで喜ばしいと捉えていいのかわからないところが面倒なところだ。
 未だ望遠鏡を覗き続ける呉の黒いパーカーのフードを掴み、ぐっと引っ張って頭に被せた。少しはマシだろう。いきおいレンズに押しつけられた呉が「いて」と声を上げた。

「平池さん、たまの休日に俺に会うってのに今日もその公務員スタイルなの?あっそれが一張羅だったらごめん?」
「半休だ。働いてきたんだよ」
「どんだけ働くのさ、なんの為に公務員になったの?」

 不穏な偏見まみれの暴言である。どう回答しても荒れに荒れるのが目に見えているのでノーコメント。

「それで?今日はどういったご用?遊んでくれるってんなら嬉しいけどそんなわけないよね〜」
「渕屋に会わせろ」

 ジジジッ、と望遠鏡の中の暗幕が降りる音がした。100円ぽっきりの1分間を使い切った呉が顔を上げる。腰を伸ばして伸びをして、顔をしかめた後フードを被り直す。

「何かと思えば、勝手に会えばいいじゃん。俺は渕屋の母ちゃんじゃねえんだけど」
「あの店だか家だかの場所を覚えてない。渕屋の連絡先なんか知らないし、そもそも渕屋が俺のこと覚えてるかもわからないだろ、紹介してくれ」
「真面目だな〜社会人だな〜名刺でも渡しときゃ良かったのに、あの夜」

 軽口だけはポンポン出てくる。奥歯を噛みしめ諸々の思いを水に流した。今ここで「お前ヤクザに追われてるんだぞ」と教えてやって恩を着せるのもいい。いいが、それをしないのは俺が未だに弓削のことで天秤にのせるものを計りかねているからだった。配られたカードで勝負するしかないのだ、せっかくカードを持ってるんならその使いどころだって大事だろう。呉がこのままプラプラ無防備で居てくれれば早々にヤのつく方々に御用となり、弓削を穏便に黒い交際から引き剥がすことも叶うかもしれない。しれないし、呉が捕まったところで綺麗さっぱり断ち切れるほど黒い交際は甘くないかもしれないし。呉が捕まって例えばそういう漁船に乗せられでもしたら俺の良心に一抹の黒い影を落とすかもしれないし。つまり現時点ではなにもかもが不明瞭だ。カードもへったくれもないかも。なら確認するしかない。事の重大さがわかっているのかいないのか、どうなってんだこの女はとたまに強めに揺さぶりたくなるのが弓削だが、彼女は危機感のない無表情でほとんど洗いざらい勝手に話した。俺が協力してくれるとでも思っているなら大間違いだ、いや大間違いだかも蓋を開けなきゃわからないが、どちらにせよ俺は弓削の黒い交際を綺麗さっぱり絶たせることにしか協力しない、それが最重要事項だ。なら状況を確認するしかない。弓削は確かに「渕屋氏」と言っていた。この街に「渕屋氏」が何人いるもんだか知れないが、スーパーロングのぐるぐるヘアでヘドバンとか得意そうな男性の「渕屋氏」ならそう何人もいないはずだ。

「別にいいけどさ。俺、今、渕屋んとこ出禁になってんだよね」
「…なにしたんだ」
「なーんにもしてねえしぃ?逆に小さな心当たりなら多すぎてそれこそ逆にないって感じだしぃ」
「愛想尽かされたんじゃねえの」
「いやいやいや…あれでね、渕屋くんは友情に厚い男だからね。他はうっすいけど、善悪の観念とか、胸板とか」

 望遠鏡を背にし、歩き出しながら呉はそうのたまった。呉は渕屋のところを出禁になっている。弓削の話で、渕屋のもとを訪れたのは件の呉を探しているヤクザ。なるほど、自分のもとを訪れるヤクザからお友達を匿おうという意志はあるわけだな、渕屋くんは。それが友情ゆえだかその他の損得勘定ゆえだかは知る由もないが、少なくとも面倒事を避けたいというところは俺と共通しているわけだ。少しはスムーズに話が進むかもしれない。
 フードをかぶったまま歩く呉に追いつき、並んで石畳を下る。コイツ自身はどこまで知っているのだろう。そもそも、なんでまたヤクザなんかに。このなりこの佇まいだ、何をやらかしていても特に驚きはしないけど。

「あ〜いい匂いだね海軍カレーが食べたいな〜」

 中庭には観光客用の喫茶や軽食のフードコートが密集していて、食欲をそそるような匂いが漂ってくるのだ。ごくごく当然と思える感想を漏らした呉に、少し意地悪な気になって問いかけてみた。

「食えばいいじゃないか。食っていくか?」
「それもいいけどね。なんかよくわかんないことになるから、食わない」

 なんかよくわからないことってなんだ。気になるだろうが、おい。



 そうして連れだって渕屋邸にやってきた。前回はイン呉ボディだったのを筆頭にありとあらゆる非日常感にまみれてそれどころではなかったが、今回はちゃんと最寄り駅をメモった。こうして自分の身体で明るいときに見てみるとなかなか瀟洒で立派な邸宅である。呉の話だと住居兼仕事場兼店とのことだが、そうなるとやっぱり持ち家ってことになるのか、どれだけ稼いでるんだ?ローンを組めるような仕事内容なのだろうか、云々。
 下世話な俺の心中はさておいて、半分開いたシャッターからガレージに潜り込んだ。どうやら例の古典的ラブホ的玄関の他に出入り口はないらしい。薄暗いガレージの中にはあの夜俺の身体の簀巻きを運んだベコベコのワンボックスが停まっている。十中八九ご在宅だろう。アリエルと呉が俺の身体を運んだ階段を地獄坂のせいでガクガクの足で上り、玄関の前でつかの間躊躇すると「開いてるって。店なんだから。勝手に入ってイイって」と呉が後ろから声を上げるので遠慮なくドアを開いた。そして、速やかに呉の身体を影になる位置に抑えつけた。

 部屋の中で、大柄の男に渕屋が襟首を掴まれ吊し上げられている。

 大柄の男のやたら華美で高級そうなスーツやなんとなく醸し出される雰囲気から瞬時にヤクザだと判断し、瞬時にもろもろの損得勘定を経て瞬時に呉を隠した俺の判断力を誉めてもらいたい。吊し上げられた渕屋を救うの救わないのまでは正直力が及びそうにない、誉めなくていいから誰かどうにかしてくれ。俺が静的動揺をしてる間に、吊し上げているほうの大男がゆっくりとこちらを振り返った。意外なことにいたって理性的な表情をしているが、その静けさは獲物に襲いかかる直前の肉食獣を思わせる。そんな危機的状況にあって、渕屋は唇をかすかに歪めたなんとも言えずふてぶてしい表情をしていて、その上のんきにこちらへと顔を向けてきた。

「あ、どうぞおかまいなく、出直すから」

 デカいヤクザの目力に怖じ気付いてそんな言葉が口を突く。たった一人でヤクザと黒い交際を取り付けた弓削の肝っ玉の半分にも及ばない残念感。そして吊り下げられたままの渕屋がこれまた緊張感のかけらもない声を出す。

「大丈夫大丈夫、ぜんぜんウェルカムだから、入って」

 こちらとしては全くウェルカムされたくない状況なんだけど、とは心の中だけで返した。永遠にも思える一瞬の間の後、ヤクザが渕屋の身体を離す。そしてあの治療椅子の上に置かれていた何かのハードケースを掴み抱え直すと、無言のままこちらへ、つまり出口へ猛然と向かってきた。道を開けつつさりげなく呉の身体を押し隠す。すれ違いざまヤクザらしくメンチでも切られるかと思ったが、そんなこともなく、あくまで速やかに玄関をくぐり(それ程に彼はデカい)階段を降りていく背中を呆然としたまま見送る。まだ半分状況が理解できないまま硬直していたが、背中で押し潰した呉にわき腹をつつかれて我に返った。

「な〜んか今の人見たことある気がするな〜どっかで会ったかな?」

 するりと抜け出て部屋へ侵入する呉はもうたぶん、地球が滅亡したってこの調子なんだろう。ていうか感謝してくれよ、隠してやっただろが。そんな呉を見もせず、渕屋は歪んだ襟元を直しながら吐き捨てた。

「ドン引きだわ。お前の何もかもにドン引きだわ。何回ここに来んなって言ったよ、とうとう鉢会わせただろうが、千ヶ谷がワンコロ以下の単細胞でマジで良かったよ!アイツがキレてなかったらアウトだったからな」
「でもでも俺らが来なかったら渕屋くんがアウトだったんじゃにゃいの?ボッコボコにされてたんじゃにゃいの?ん?」
「しやしねえよ!アイツにはそんな度胸も決断力もねえの!バカなの!自分の頭も使わねえ、ワンワン人の言うこと聞いてるだけが能の犬っころなの!でなきゃとっくに、」

 殺されてるよ。
 低い声で呟き、渕屋は呉をスルーして俺に目を留めた。そのタイミングでその額に陣取っていたバンド付きの拡大鏡がずり落ち、「あああっ!!」と雄叫びをあげながら荒々しくむしり取る。荒れてらっしゃる。なんだかあの夜、身体に魂を戻してもらったあの夜とはずいぶん印象が違う。虫の居所が悪いと言ってしまえばそれまでだろうが。

「で?そちらさんは何の用?」
「あー、俺のこと覚えてるか?」
「覚えてる。忘れるもんかよ。“幽体離脱”くん」

 にやりとイヤな感じに笑われて、「その節はどうもありがとう」という謝辞も尻すぼみになる。だがこの鼻であしらうような笑い方には覚えがあった。身体に戻りたてのあの瞬間、前後不覚に自分の顔を撫で回した俺を見て笑ったときと同じ笑い方だ。同時に呉が言っていたことを思い出す。「渕屋は平池さんが“幽体離脱”したことを信じていない」。どうもそれが事実のようだが、そうだとすると俺は眉唾なオカルトを絶対だもん!ホントだもん!とがなり立てるアブナいヤツということになっているのではないか?かなりゲンナリしてきた。早くも心が折れそうになってきた。

「あー…。今日は聞きたいことがあって来た。呉くんに案内してもらって…だからまあ、呉くんがここに来たのは俺が半分強制したようなもんだから、あんまり責めないでやってくれ」
「呉のことはどうだっていい。で?聞きたいことって?どーぞ?答えられる範囲なら」

 「ちょっとひどくね?」と言う呉は俺もスルーし、さっさと本題に入ることとする。さっきのデカいヤクザも気になりはするがヤクザの情報は極力増やさないに限る、俺は何も見ていない、そして弓削もだ。

「ちょうど一週間前、ここに女性が来ただろう?こんな髪型で、ちょっとばかしふてぶてしい…」
「なに。あの女ってアンタの“お知り合い”なわけ?」

 引っかかるイントネーションだな、特に“お知り合い”の部分が。渕屋がおもっくそ嫌な顔をする。だんだんわかってきた。呉とはまた別の方向性で、渕屋もまた逐一その発言で人の神経を逆撫でするタイプだ。
 窓際の応接セットにちゃっかり陣取っている呉にむしり取った拡大鏡を投げつけ、渕屋は長い髪をわちゃくちゃに掻き回した。

「こっまるんだよな〜この店のことペラペラペラペラ話されちゃあなあ…アンタあの女にこの店のことどんな風に話したのよ、なんかこうスピリチュアルな店だって?オーラだか背後霊だか見てお悩み解決してくれる店だって?」
「待て待て、待てよ。俺はこの店のこと誰かに話したりなんかしてない、弓削…その女にもだ」
「ホントかよ」
「なんて話すんだよ。魂をどうこうしてくれる店だって?俺が幽体離脱したところから話すのか?正気じゃない」
「はあ、そりゃあすみませんねえ」

 渕屋はまだじっとりと俺を睨んでいる。まだ全然疑われてるなこれ。でも俺は話していない。どう話せと言うのか、あの夜の話を。自分が当事者じゃなければ話半分にも聞かない話だ。身体を紛失するなんて。

「じゃあどこでこの店を知ってなんのために来るってんだよ」

 そこだ。そもそもそこだ。なんで弓削はここへ来ようと思ったのか。どこで知って?…なんのために。

「先週弓削はここに何しに来たんだ」
「知らないね。何か用があって来たんだろうけど、すぐに見島…さっきのデカブツの飼い主と取引し始めたからな。まったく人の店できわどい話してくれるよ。アンタの女はそれで満足してお帰りになっちゃったからな、結局なにしに来たのか」

 見島とは弓削の黒い交際相手の義足のヤクザのことだろう。じゃあさっきのデカいヤクザはそのとき一緒にいたヤツか。隠して正解だったじゃないか、呉を。渕屋の神経を逆撫でする物言いに、なんでいかにも一般人ヅラした女がヤクザと目の前で取引してるのに止めてくれないんだよ、と半ば八つ当たり気味の怒りがこみ上げてくる。話の雲行きが怪しくなってきたのを感じ取ったのか「ぼくなんにもかんけいありません」という顔をしている呉が小憎たらしい。関係あるだろが。

「それだ。先週弓削がヤクザと取引した。できるわけがない。関わらせたくない。無かったことにしてくれ、全部だ」
「全部って…頼む相手が違うんじゃねえの平池さんよ。相手だって悪い、ヤクザだぞ、あの女が自分からすすんで縁を作ったんだ。無かったことになんかできるわけない、そんな優しい奴らじゃないって想像もできないのが悪い。そんなに大事なら今度からあの女にリードでも付けとけよ。それができないならアンタも他人のすることに顔つっこむんじゃねえ」

「『呉を捜し出せ』っていうのも取引の条件のひとつにあった。知ってるんだろ?俺が今、コイツをふん縛って弓削に引き渡すことだってできる」

 配られたカードを、出すべきタイミングで出したまでだ。頭でそう理解していても胃が厭なふうにざわめいた。向かない。小市民の俺には向かない。なんだって俺はこんなに必死になっているんだろうか。本当に勘弁して欲しい。
 渕屋は睨むでも嫌な顔でもなく、なんの表情もなく俺を見ていた。その頭の中で打算の巡る音が聞こえる気がした。自分が天秤にかけられているというのに、当の呉はどこか楽しげに事態を見守っている。やがて渕屋が口を開く。嫌みでも攻撃的でもない、ごくごく普通の声音だった。

「それは駄目だ。そんなことはさせない。アイツらにコイツのことが知れたら、クソほど面倒なことになる」

 長いため息をひとつつき、渕屋は部屋を横切り、デカいヤクザが出て行き俺たちが入ってきた玄関の鍵を閉めた。結い上げた髪をほどきながら戻ってきて、呉の向かい側のソファに腰を下ろす。目だけで勧められ、俺は迷って迷って呉の隣に座る。腰を下ろす一瞬呉を見やると、肘掛けに置いた自分の腕に埋もれていた呉は笑顔を作って小さくウインクをした。脅しでも自分を天秤にかけたことを気にすんなよとでも言うように。コイツは思ったよりずっと大人なのかもしれない。俺たちの中の誰よりも。

「アンタの頼みは言ったとおり、頼む相手を間違ってる。口を利いてほしいってことなのかもしれないがそれも難しい。見島は俺の得意客で、これからも長い間つきあっていく必要がある、そもそも他人の言うことなんか聞く男じゃない。さっきのデカブツ…千ヶ谷はもっと駄目だ。俺の頼みなんか聞いた瞬間プッツン、ついに歯止めが利かなくなって殺されるかも、冗談じゃなく。俺からすりゃとんだお門違いだが、アイツは俺を死ぬほど嫌ってる、憎んでる、呪ってる、今この瞬間に死ぬべきだと思ってる、殺さないのは上司の見島が懇意にしてるから、それだけが歯止めだ」
「それはまた、何故?」

 義足のヤクザの見島、渕屋を吊し上げていた千ヶ谷…ひとりひとり頭の中で名前を当てはめながら、話の流れで至極当然の疑問が口を突いて出た。渕屋は長い髪を一房取り、枝毛を探す仕草をしながら、なんでもないことのように、他愛もない冗談のように、ごくごく普通の声音で答える。

「五年前、見島の右脚を切り落としたのは俺だから」

 薄暗い午後の静寂があたりを支配した。ややあって、呉が「なんだ、さっきの人、あのときの人ね」と一人ごちる声が、それこそ冗談のように響いた。
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