やけに素直な呉を置き去りにし、件のガレージに鎮座するべこべこのワンボックスに乗り込んだ。
「今日は助手席か。こないだは後ろに座ったから…」
「座ってなかった。アンタは簀巻きにされて転がってた」
確かにどうでも良すぎる発言だったかもしれないが、言うなりぴしゃりと言い放たれて閉口した。いきなり、突然、会って二回目の(しかもどうも非友好的態度の)渕屋と二人きりにされたもんだから間を持たせようと気を使えばこの態度である。よろしいならば戦争だという心境になっても仕方がないだろう。昨今はめっきり珍しくなった蛇腹のついたミッションのチェンジレバーをガコガコ言わせ、オンボロ渕屋カーは発進する。なんとなく振り返ると、ガレージのシャッターが独りでに閉まっていくところだった。自動式なんて上等なものには見えなかったから、十中八九呉が中から閉めたのだろう。いやに念の入った戸締まりのしようじゃないか、呉らしくもない。いや、俺が呉の何を知っているんだという話だけれども。
「で。アンタはその女が話したことをどこまで信じてるわけ?」
「義足のヤーさんの話か?魂がどうのこうのって」
「それ以外なにがあんだよ」
だからなんでそこキレ気味なんだよ、と若干キレ気味になりかけるも、もしかすると渕屋は万事が始終この調子なのかもしれないと思い直した。だとしたらやっぱり呉とは別ベクトルで呉と同じようにいたずらに敵を増やしそうな性格である。誰だってもう少し優しくして欲しい。彫りが深いので些細なしかめ面が甚大に映えるし。
呉を差し出させない代わりに多少の真実を教えてやると、渕屋は俺を連れ出した。その『多少の真実』とやらを弓削に教えてやってもいいのかと問うと「それでアンタの解決したいことが解決するとでも思ってんなら勝手にすれば」と例によってキレ気味で返されたものだった。 その言い草だと解決しないのかよ、クソが。
とはいえ車は先ほどから街の外れへ外れへと向かっているので、もしかしたら面倒臭い野郎だと山にでも埋められるのかもしれない。一対一だ、どうだろう、渕屋のほうがタッパはあるがウェイトはこっちのほうがあるだろう、しかし話が本当なら渕屋はヤクザの脚を切り落とした男なのだ、精神的に勝てる気がしない。そう、常識的に考えて脚を切り落としただの魂が云々だの、信じられるわけがないというか信じないほうが心が健やかに決まっている。
「まあ、信じるもなにも…まず脚を切り落とすって時点でサイコ過ぎてついてけないけど」
嫌味のつもりで言ってやったが、渕屋は鼻で笑っただけだった。まるで効いていない。
「『切り離した脚に自分の魂を閉じこめて隠しておく』ってのが可能か不可能か、それだけ考えたらまあ、ありえなくはないんじゃないかって思っただけだ。なんでそんなことする必要があるのかだとか、それにいったいなんの意味があるのかだとか、そういうのは全部、ひとまず置いといて」
「へえ。理解があるね。伊達に“幽体離脱”してらっしゃらない」
お前は俺に理解がないけどな、という愚痴は大人なので飲み込んだ。信号待ちで停車した隙に灰皿を引き出し、煙草をくわえる渕屋に手を出しライターの火をおこしてやる。大人なので。そのまま断りもなく自分の煙草にも火をつけたがそのくらいはまあ許されてしかるべきだろう。煙草二本分の煙を泳がせて、車内の空気がかすかに凝る。オンボロ車は相変わらず街の外れへと向かっている。とはいえどんなに外れまで行こうとも、この街は青青と迫る山と海の隙間にようやく横たわっている。
「なあ、アンタはどう思う?どうなると思う?魂を身体の中から取り出してしまったら。魂のない身体はいったいどうなると思う?」
「どうって、それは呉が…」
そうなんじゃないのか、という言葉は飲み込んでしまった。直感的に、それは正しい答えではないと感じ取ったからだった。呉は魂のない身体だと言う。それはそうなんだろうけど、嘘なんかつかないだろうけど。けれど、あの夜の俺だって。幽体離脱したあの夜の俺だって、身体のほうはそれこそ魂のない身体だったんじゃないか。あの日意識だけの姿で見下ろした自分の身体は、まるで死んでいるようだった。もう二度と時を刻むことなんかないのではないかと、俺はそれに戦々恐々としていたのだ。
言葉を切った俺を覗き込み、渕屋はぷくぷくと断続的に煙を吐いた。信号が青に変わる。危なげなく発進し、はじめから答えが返ってくることなど期待していないとでも言うように、渕屋は質問を変えた。
「いちばん未練がましいものはなんだと思う?この世でいちばん諦めきれないもの、いちばん妄執に変わりやすいものはなんだと思う?」
「禅問答か?」
「ゼンモンドウ?なんでもいいけど、アンタの思う答えでいいよ」
見もせずに灰皿の上へ正確に灰を落とし、渕屋はそれっきり前を向いてしまった。自分の灰もいつのまにかずいぶん長くなっていることに気がついて、俺も指先で煙草を叩く。簡単だと思った。特に考え込むこともなく、それはたぶん『愛』のたぐいの全てだろう、と思い当たった。最も未練がましく、最も諦めきれず、最も妄執に変わりやすい。しかし『愛』なんて広義過ぎる答えで渕屋が満足するとは思えなかったし、「それは『愛』…かな…」なんて渕屋に言って聞かせるのもなんとなく厭だったので、それこそ最もインチキな答えに逃げることにする。
「そんなもん人それぞれだろ」
「…アンタ野暮だね。わざと言ってるんだとしてもシラケるわ、モテないでしょ?」
無言でその顔に煙を吹きかけた。黙っとけ。ちょっと呉といるときの苛立ちに似たものが生々しくこみ上げてしまった。さすがお友達、類友といったところである。楽しげに笑いながら渕屋は灰皿へ吸い殻を押しつけた。何度も何度も。まるでそこになかなか死なない害虫がいるかの如き執拗さで消し潰されていくタバコの火。押しつけられるたびに吸い殻の先が潰れ、灰が崩れ、赤い火の面積が減っていく。
「エゴだよ」
とうとう最後の赤い火が消えてしまっても、渕屋の表情はうっすら楽しげなままだった。それはどこか小馬鹿にしているようでもある、軽蔑の色にも見える、そういうものに起因した苛立ちのようにも見える。つまり嘲笑に見える。
「他人のための自己犠牲っていう紛れもなく自分のためのエゴだよ。未練がましいに決まってる、他人なんかのために自分を差し出してるんだからな。諦めきれないに決まってる、どちらか一つを失うのは耐えられても、どちらも失うのを耐えられるほど我慢強い人間なんかいない。諦めきれなきゃ妄執に変わるに決まってる。そういうヤツの頭の中ってホントに、なんていうか理解に苦しむね」
海を遙か下方に見、ひっくり返りそうな山の中腹近くでオンボロ車は拓けた敷地内へ進入した。砂利道を区切っただけの駐車場に車を停めて降り立つ。鬱蒼とした山林を背景にそびえるその建物は、戦前に建てられた医院のようだった。二階建ての白い壁はところどころくすみ、建物全体に隠しきれない怪しさと匿名性と使用用途不明な不明瞭な感じが滲み出ている。暮れなずむ夕刻、無数の窓はぽつぽつと灯りをともしてはいるが、蛍光灯の白い灯りはどうも冷たい。温かみもなく冴え渡っている。
「できることを依頼されて見返りがあるからやった。わかる?仕事だ。それで殺したいほど憎むのは、まあ勝手だけど?少し考えればお門違いだってわかるだろ。切り落とす決断をしたのは見島で、俺は謂わばその刃先でしかない」
「……本当にお前が切断したのか?」
「話、聞いてた?」
医院の出入り口を押し開けながら、渕屋は頭の横で指を回す腹立たしいジェスチャーで俺を見、院内へ入っていってしまう。聞いてたさ、聞いていたが。それでも「本当に?」と思ってしまう俺は、きっと渕屋を憎む千ヶ谷のほうに近い人間なんだろう。
院内は活気に満ち溢れているとは言い難いが、外観の印象から受けるような薄暗さまたは後ろ暗さはない。ちらほらと、恐らく患者なんだろう人々が行き交い、恐らく医師または看護師なんだろう人々が行き交う。
「ここにいるの、全員ヤクザ」
「…」
「嘘だよ。全員じゃない」
…まあ後ろ暗さなんか知る由もないが。ロビーを抜け、長い廊下を歩く。何度か曲がると、どちらが車を停めた方角なのかすぐにわからなくなってしまった。薄暗い廊下や、ほとんど灯りの消えた廊下をいくつも過ぎ、いい加減歩きすぎじゃないか、建物の構造の範囲を超えているんじゃないかと思い始めた頃に黒い長椅子の転々と並ぶ白い廊下に出る。ひと気は全くなく、なのに煌々とした蛍光灯の灯りが目に痛いほど白んでいる。
「見島が俺に脚を切り落とさせたのは、身体から魂を隔離して閉じ込めておく為だ。でもそれは、見島自身の魂じゃあない」
切れ目のようなドアを押し開いた先は、くすんだねずみ色の部屋だった。暮れなずむ外灯りのみのわずかな光源の中で、その部屋のカーテンも壁紙もシーツも、すべての彩度は極限まで落とされくすんだねずみ色にしか感じ取れないのだった。それは例えるなら死んだ内臓組織のような、そんな不安感を煽るような暗さを持った病室だった。カーテンの引かれた窓からもドアからも十分に離れた位置に置かれたベッドもやはりねずみ色で、申し訳程度の医療機器がその周りを縁取っている。
ベッドには一人の男が横たわっていた。
顔の大部分は呼吸を補助するチューブのついたマスクに覆われている。短い髪の下で唯一晒されている目元は蝋のように白く、生気がない。歳の頃は30半ばほどだろうか。身体には薄手の布団が掛けられていたが、ギプスや止血帯で固定された左腕と両脚は剥き出しになっていた。ベッド脇にスタンドで固定されたバイタルサインモニタは、彼が毎分140回心臓を脈打たせ38回のペースで呼吸をしていることを示している。だが違和感があった。何かとんでもない間違いを孕んだ間違い探しを突きつけられているような、そんな違和感があった。刻むような呼吸と疾走するような脈拍に、彼の胸元は規則正しく上下を続けている。寸分の狂いもなく。なぜ、バイタルサインモニタは警告音をあげないのだろう。彼は一目でよくない状態だとわかる…アラームを切られているのか、いったい何故、そんなことを。寸分の狂いもなく上下し続ける彼の胸元、モニタを走る心電図の一切変わることのない波形。寸暇なく鳴り続けるから、アラームを切られているんじゃないのか。胃の悪くなるような違和感が込み上げる。おかしい。おかしい。彼には、映像から切り出されたたったの数コマだけを延々見せ続けられているような、そんな違和感がある。
「なんだ…どうなってる…コイツは…」
「コイツには『時間』がない」
「文字通り、二つの意味で」と付け加えて、渕屋は変わり映えなく波形を流し続けるモニタを切った。彼は依然、変わり映えのない呼吸を続けている。彼が次の瞬間眉を寄せたり、呻いたり無意識でもがいたりするところは全く想像できなかった。機械仕掛けの人形を見て、設定以上の動きをするなど想像もしないのと同じように、これ以上何かが変化することはないと確信させる違和感がある。
「魂が無いんだからな、時間に対応できない。まだ生きてるうちに、無理矢理その身体から魂を剥ぎ取ると普通はこうなる。『時間』って、わかりやすく言えば『変化』だからな。魂を失ったその瞬間、その生物の『状態』が『変化』を刻むことは一切なくなる。見せかけ上の『時間』が止まるわけ。五年前、俺がコイツから魂を抜き出して、俺が切り落とした見島の右脚に閉じ込めた。その時からコイツはこのまま。それこそこの先もずっと、『永遠』に。目覚めることも歳をとることも、死ぬことも無い。もっともコイツがまた『時間』に首尾よくしがみつけたって、この有様だ、数分と保たずに死ぬ。魂が無いおかげで、『時間』の流れから取り残されてるおかげで、生き永らえてるってわけだ。…生き永らえてるってのも語弊だな、実際には永らえてるわけじゃない、『その状態』で止まってるだけ。コイツ自身が『今』何を感じどういう『世界』を見てるのか、知る術はない。コイツは『時間』という『次元』を一つ失いつつある。つまり、違う世界の存在になりつつある。そうなれば相互に理解する術はない」
喫茶店での呉の魂についての講義が脳裏をよぎった。魂は時間を消化するための臓器、この世界の生き物はみんな当たり前に持っていて、それがあるから『時間が存在するこの世界』で生きていける。今更酷い恐ろしさを内包するその意味を理解し始めた俺の頭を占めるのはやはり、数多の違和感をちらつかせながらも普通の人間と遜色なく活動する魂の無い男のことだ。
「…なら呉は、」
「呉は普通じゃない。普通じゃないんだ。分かっただろ。普通、魂が無けりゃこうなる。死んでないってだけではどうも、生きてるとは言えないらしい。見島だってそう考えた。どうせなら、死なせないだけじゃなく生かしたいと考えた。呉は一見その点がパーフェクトに思える。呉に魂が無いって確信を持てば、アイツらは呉がどうやって今、あんな風に存在してるのか、それを知りたがる。…アイツらヤクザのくせにそんなうまい話があるって信じてんだ」
「その、見島は」
「え?」
「コイツの為に自分の脚を切り落としたのか」
別に、どんな感情も感傷ものせたつもりは無かった。知らない誰かの真実をもう一度、確認しておこうと思っただけだ。「為?」と声を戦慄かせた渕屋は、唇を歪ませていた。何かを言いかけて、声にもならないうちに飲み込む。それこそ勝手に奔流となりそうな感情を消化するような間の後、押し殺した低い声は淡々と事実だけを述べることにしたようだった。
「どのみち、このままじゃコイツは落ちていくだけだ。どうあっても理解の及ばない世界の果てまで。事象の地平線の向こう側まで」
瀕死のうちに『魂』を取り除かれ『時間』から取り残された男は、『時間』を失い『永遠』を手に入れた男は、瀕死の呼吸と脈動を寸分の狂いもなく刻みながら永遠に眠り続けている。いや、彼の時間は既に連続しておらず、ただそこに在る。止血帯の下の血が止まることもなく、それ以上貧血になることもない。ギプスの下の折れた骨は繋がる由も無いが、壊死が始まることもない。脈動が弱まることも、呼吸が止まることも、目覚めることも永遠にない。そのままだ。本能的な拒絶感を見る者に突き付ける『不変』を携えながら、彼は落ちていく。
この世の果て、我々と完全に分断された世界、事象の地平線に向かって。
シュレーディンガーの猫をご存じない方はいないでしょう?みなさんご存じ、スチール製の密閉容器に恐ろしい毒物散布装置とともに閉じこめられたネコちゃんです。多くはその生死を問題にしますけれど、閉じこめられたかわいそうなネコちゃんを「死んでいるに違いない!死んでる!」と主張する人ってちょっと…どんな人生を歩んできたら可愛いネコちゃんに対してそんなことを思えるものでしょうか、人間の心ってものを疑ってしまうわ。換気もままならない、光も射さない密閉容器にネコちゃんが閉じこめられているなんてなんて恐ろしいこと、どうかどうか生きていて欲しいと願うのが人情じゃありませんこと?信じる者は救われるのです、さあ貴方もネコちゃんの生還をお祈りになって、さあ!という感情論は置いといても、箱の中の猫の生死は観測者が現れるまではどちらでもあるのです。生きているか死んでいるかわからない、のではなく、生きているし死んでもいるのです。
ネコちゃんとともに閉じこめられた毒物散布装置がクセモノで、この仕組みによって猫の生死は文字通り重ね合わせられ不可思議な思考実験的なものとなっているのですが、このまま話し続けたってきっと日が暮れても腑に落ちる結論は出ないでしょうからあとはいわゆる各自おググりになって?てなもんです。ただ、そうやって突き詰めていくと「箱の中に猫は存在するのだろうか」という根本的すぎる話になります。およよ、貴方自分で猫を閉じこめたんじゃなくって?なんておちょくっているとまた可愛いネコちゃんをそんな恐ろしい箱の中へ閉じこめるなんて、いったい誰が!?という怒りがふつふつ沸いてくるのであまり考えすぎないようにします。シュレーディンガーの猫というからにはシュレーディンガーさんが閉じこめたんでしょうけど、飼い猫によくもそんなむごいことができたものだわ。いえ、もしかしたらシュレーディンガーさんもろとも誘拐された飼い猫が悪い人に閉じこめられ、逆らったらどうなるんだかわかっているんだろうなと脅されながらシュレーディンガーさんが泣く泣く書いた、身も凍るような論文なのかも…。
猫と言えば私にもひとつふたつ思い入れがあります。幼い頃、黙って拾ってきた子猫を死なせてしまいました。きっと病気だった。丸い目は目やにだらけで涙を流していたし、毛並みはしなしなと頼りなかったし、何より針金細工の人形のように痩せていました。でも可愛かった。どうにか生き延びようと、私の幼い手に必死で身体をすり寄せる姿がいじましくて、なんでもしてあげたかった。そのころ既に両親は亡く、私は祖母に多大に甘やかされて育っていました。甘やかしながらも生真面目な祖母は、生き物を飼わせるには私はまだ幼すぎる、まだ早い、と考えていたようでした。それで、黙って連れて帰って匿いました。今私が助けてあげないときっと生き延びられないだろうと、私が必要なのだと、そう思ったのです。きっとそれは真実だったでしょう。でも結局、私はその子猫を助けられなかった。死なせてしまった。祖母に叱責されたり追及されたような覚えはありません。そういうタイミングを計り間違えるような人ではなかった。それ以来、生き物を飼うことはありません。飼わないほうがいいこともあると気付いたのです。そして、飼えないのだと気付いたのです。
脚捜し人捜しは混迷を極めていました。寸暇を惜しんで情報収集に励んでいましたが、所詮は素人、どうにもこうにも成果が出るはずもないのでした。図書館というのはわりとどこでも過去の各新聞紙面を保管しているものです。五年程前とだいたいの目星がついているのなら調べること自体は難しくありません。さすがに見島氏の名前が紙面に登場することはありませんでしたが、だいたい五年前ほど前の妙齢の男性に関する事故事件については絞り込むことができました。いくつか気になる事故事件もあったのですが、しかしそれまでです。そこから掘り下げて調べるのは難しく、また確信があるわけでもないのでした。人捜しのほうはもういっそ興信所でも雇おうかという感じです、絶対にどこかで会った気がするんですけど。
つまりどういう状況かと言うと本格的に三つ目の選択肢が気になり始めた頃合いなのでした。きっと私には荷が重く成し遂げることは難しく聞かせるのが忍びない胸が痛む三つ目の選択肢。どう考えても不穏な気配しかしません。だいたい、この写真の男性だって見つけ出してどうするつもりなのでしょう…恐ろしいわ、ちょっくらブイシネマでも借りてきて勉強および心構えをしておくかという気にもなります。
図書館のデータベースブースでガサガサカチカチやりながら、私の頭の中はいつもの如く脱線していきます。集中力があるような無いような、手のほうが一心不乱に作業をしている間に、頭の中はあっちへふらふらこっちへふらふらするのが常なので、どんな過酷な単純作業も然程苦にはなりません。つくづくこの職業に向いていると自主規制ます。さておき、ふと思い馳せました。『脚の行方を捜すこと』『写真の男性を捜すこと』『聞かせるには忍びないもうひとつ』。見島氏はなぜ、この三つをひとときに提示したのでしょう。正確に言えば三つ目はまだ提示されていないのですが提示されているも同然というかみなまで言うなという感じなので。これらは本当に、どれかひとつ叶えられれば満足に至るものなのでしょうか。それとも、本当のところは三つとも叶えられて欲しいものなのでしょうか。あるいは二つだけ?あるいは、どれかは取るに足らないダミーとか。そんなことを考え始めたら究極的な話、全部単なる暇つぶし、突然現れた不審な女である私をおちょくるでまかせである可能性もあるわけですけども。
どうしてあの男の人を捜し出してほしいのかしら。
脚を見つけ出すことと、彼を捜し出すことは目的を同じくしているのでしょうか。
あの写真の男の人。彩度の低い茶髪の男の人。
誰だったかしら。見たことあるわ。
なんとなく海のイメージがあるのです。陸から見える波打ち際のある海ではなくて、深く暗い、闇の底のような海のイメージが。
まだ人類が発見していない巨大な深海生物が跋扈するような、そんな暗い海のイメージが。
データベースブースを離れ、幾重にも連なる書架の谷を縫って進みます。この一週間通い詰めているので慣れたものです。やはり市営の大規模な図書館だからかどんなにマイナーな書架にもそれなりに人がいて繁盛しているものだという認識だったのですが、今日はどうも人が少ないようです。ひと気のまるでない、遥か頭上まで伸びる書架の谷を細々と進みます。本が歯抜けになった箇所から西陽が光線となって射し込んでいます。綺麗だけど、本は大丈夫なんでしょうか、日焼けとか。光線の中を舞う空気中のチリが白んでキラキラしています。辺りはいよいよ誰もいなくて、自分の服の衣擦れの音が聞こえるほどに静まり返っていました。どこまでこの書架は続いているのでしょう。もうずっと歩いているんじゃないかしら。目の高さにずらずらと収まっている古びた本、何語なんだろう。見たこともない字のように見える。少し後ろを振り返ってみようかと思わないでもなかったのです。でも、それはなんだか勿体無い気がしました。せっかく辿り着けそうなのに。せっかく思い出せそうなのに。…一体全体なんの話です?
金色の西陽の翳る中、果てなく続くと思われた書架は突然途切れました。並ぶ書架も数棚、連なって途切れていて、森の中なんかに突然ある空き地のように突然拓けたスペースになっているのでした。こんなところあったんだ、疑問とも感想ともつかないそれは深く考える前にただの納得となります。
そこには小さなテーブルが置いてあって、椅子に掛けた和服の男性がなにやら書き物をしているのでした。
40代かそこらの、小さい子に会わせれば十中八九『おじさん』と呼ばれるような歳の頃の男性です。黒々とした髪は撫でつけられ、着衣には皺一つありません。何より、その肌の色の白さです。ちょっとぎょっとしてしまうような、白粉を塗った舞妓さんの頬のような、ナチュラルメイクにはほど遠い蒼白さ。袖から覗くチビた鉛筆を握っている手指も同じように白いので、どうもそれが彼元来の肌の色なようでした。
彼が字を書く手を止め、顔を上げました。ゾッとするほど整った顔立ちでした。人間の顔という単語で検索を掛けて、たまたま出てきた人工的なCGモデルの黄金比なんかを参考に、つまり教科書どおりにポンポンと顔のパーツを放り込んだらできた顔…といった感じです。つと目を上げた彼と目が合います。爛々と輝く黄色い虹彩。もう少し顔を上げ角度がつくと、それは西陽を受け限りなく白んで色を失い、わずかに残った黄色みだけが不気味に濁って渦巻きました。それを見た瞬間私は、なぜか、
「お久しぶりです」
と呟いていたのでした。この男性に対する見覚えも、会ったことがあるだなんて確信も、少しもなかったのですけど。
私の言葉を受けて、男性はチビた鉛筆をテーブルに置きました。そして上品に微笑むと、ゆっくりと、沈むように背もたれにもたれます。彼が動くたびに、どっしりとした空気の胎動が感じられるようでした。
「そういう言葉を使う時には気をつけ給えよ。時制をはらんでる。馴染みがないし、うまく使いこなすのは難しいだろう?現に私は、つい『さっき』君に会ったばかりだ」
渦巻く瞳に射竦められ、私は視線を心持ち落としました。テーブルの上に広げられた黒い皮表紙の手帳には、なぜか「かんらんしゃ」という単語が、眺めていると不安定になるような字体で幾重にも書かれています。
「日本語の書き取りは勉強中でね。読むのと話すのは放っておいてもできるようになるが、書くのは難しい」
なるほど、彼は生粋の日本人というわけではないようです。それならその顔立ちや瞳の色にも納得…そういう問題でもないような気がしますが。
彼の書いた字は独特の筆跡で、心なしか書架に収まる本の見たこともないような字に似ている気がしました。
「わざわざ書き取りの練習をなさらなくても、貴方ならもっと効率の良い方法を知ってらっしゃるでしょう?」
「郷に入っては郷に従えだ。つまり、四次元宇宙の風情があって楽しいという以上の理由は無い。君だってえらくアナログな方法にご執心じゃないか」
彼にとって『アナログ』とはどういった手段のことを指すのでしょう。私はアナログだろうがデジタルだろうが便利で楽チンな方がいいですね、要らない苦労はしないで生きていきたいですね。
ともあれ、手帳のページに並ぶ「かんらんしゃ」にはよく見ると「かんらんしゎ」になっているものがありました。私が注視していると気づいたのか、彼が消しゴムの消しクズを払うような動作をすると、鉛筆書きの「かんらんしゎ」が時間を巻き戻されるように「ゎ」から順に消えていきます。最後に「か」の曲線がすすすっとみじかくなって消え失せて、すっかりそこは綺麗になりました。
「…貴方って誰でしたっけ、神様でしたっけ?」
「ここではそうかも知れない。この四次元宇宙の制約の外にいれば、神にだって見えるだろう。実際問題、悪神として祀られていたこともあるんだ。だが後で『神』についてググってみて驚いた、私とはまるで志が違う連中じゃないか恐れ多いな」
「『悪神』なら、それで問題無いでしょう」
「『悪神』というのもいただけないなぁ『悪い神様』だなんて、悪いことをしてやろうと思ったことなど一度もないんだからな」
この口ぶりだと、おそらく人の子を導き善なる行いをしてやろうと思ったことも一度もないかと思われます。歯抜けの書架の隙間から最早赤銅色に輝く西陽の光線が彼の黒髪の縁をぼうっと赤く光らせ、その目をますます濁った色に渦巻かせていました。
「この世界は恐ろしい。我々のような、次元が一つ二つばかり多い存在はことにその恐ろしさを過敏に感じ取る。時間は矢のように猛烈な速さで進むだけ。振り落とされれば、もう取り返しがつかない。時間は往来するもの、粘土のようにこねくり回せるものというのが定説の我々には、それが正気を疑うほどに恐ろしいことに思えるのだ」
彼は私を指差し、それから自分の胸元をトントンと突きました。導かれるように手をやると、出がけに着てきた薄手のジャケットの内ポケットがある場所に指が触れました。指を差し入れて、裏地を四角く膨らませるものに触れます。暖色にまみれた光景を眼前に、その硬質な冷たさは背筋まで駆け上りました。
「だから『魂』を魅力的に思う気持ちはわかる。魂は、この世界で、時間が猛烈な速さで一方向に進むしかないこの四次元宇宙で、生きていくために生命が編み出した苦肉の策だ。光速で進む世界に振り落とされぬよう、次元に打った楔だ。それはそれは魅力的だとも。だが、たまには執着を捨ててみるのもいい」
それは名刺入れでした。普段、私が人から貰った名刺を入れておくのに使っているものです。人から名刺を貰う機会自体がそれほどありませんから、飾り気も機能性も何もない、名刺入れの形をしているだけの簡素なものです。ケースを開きます。先週見島氏の名刺は固辞したので、あの黒い名刺が一番上になっています。
「書き込むことは美学に反するだろうが、読み込むくらいならまあセーフだろう?」
彼は片頬を引き上げて笑い、またチビた鉛筆を手に取りました。書き取りの練習に戻るようでした。私は名刺入れから名刺を引き出します。黒い背景に、ショッキンググリーンのウサちゃんのデザイン。抱えた水色の吹き出しの中には『吉田ミズホ』の文字が刻まれています。踵を返し、歩きながら矯めつ眇めつします。名刺の表面を消しカスを払うように撫でると、その明朝体は『錫原ミズホ』という文字に姿を変えました。