2-09:トカゲ、あるいは小さな爬虫類-a

「丸い肉が欲しい」

 ウェーブしたネズミ色の髪が非線対称にごっそりと刈り上げられ、剥き出しの耳に無数のチタンの棘が冗談みたいに生えている。拡張しているのは一つだけ。ロブの部分に一つだけ、一席分離れても見てもえげつない孔が開いている。その孔から目を離さないまま聞き直した。

 なんだって?
「丸い肉が欲しいって」

 なにしろ周囲がうるさい。恐らく年若い酔っぱらいしかいない。何に酔っているのかもわかったものではない。「丸い肉」だけがはっきりと聞き取れて、「欲しい」の部分はまるまる奇声にかき消されて、「って」は吐き捨てるような吐息だけになって聞こえた。
 何かの隠語か、はたまたそのままマトンのロール肉のことか、どちらにせよ酔っぱらいの戯れ言か。

「まあ、丸くするのは自分でどうにかするけど。肉は欲しい」
 何の肉だ。
「手に入りにくい肉なんて一つしかなくない?」
 何の話だ。
「脚、右脚怪我してるね。大丈夫?」
 もう治りかけだよ、もともと大したことなんかないんだ。
「アンタ、ヤクザでしょ?」

 男がこちらを向くので、ロブのえげつない孔は影になってしまう。窪んだ眼窩の中の目は野心的だった。いや、もっとふさわしい言葉がある。

「真実は小出しにしないと。でももうちょい出しとかなきゃな」

 嘯く青年の手元をそっと盗み見た。ステンレス製の真空層を持つタンブラーに入っているのは、どこからどう見ても、漂う香りも、ただのコーヒーでしかなかった。
 この青年はまだ我々にとって何者でもない。僕には多少の傷はあるもののまだ右脚がある。そして彼にはまだ、時間がある。




 手術室。
 あるいは処置室とでも言うんでしょうか。外科的な医療設備であることは確かです。白といくらかの青み、それから銀色なんかの、全体として潔癖な印象を与える色調の室内を俯瞰しています。心持ち空気も清浄な気がするかも。真偽はともかく確実に「きのせい」ですけれどもね。モニター越しのようなものですから。ピントも合わなくてはっきりと何人とはわからないけれど、青っぽい服を着た人々が幾人も慌ただしく蠢いているのがわかります。彼らは慌ただしくも抑えた声で会話をしていて、その落ち着いた様子はいかにもプロっぽくてちょっとした安心と信頼を与えてくれます。ピントと同じく聴覚にも曖昧な幕が張っているので何を喋っているのかは判然としませんが、聞こえたところできっと専門用語の跋扈で半分も理解できないでしょう。彼らの足の隙間から、ストレッチャーのような処置台のようなものが見えます。

 誰かが処置を受けている。

 そういえばアレ、なんて言うんでしょう心電図?バイアス?医療ドラマには付き物のあの電子音が聞こえるようですし…なんて思っていたら、他のすべての物音とは明らかに異質な声が耳をつんざきました。

 泣き声です。赤ん坊の。それも、この世に生まれ落ちた瞬間に赤ん坊が発する、あの独特で唯一の響きを持った泣き声です。ここは分娩室だったのです。

 なんてこと、図らずも出産のその瞬間、この世に生命の生まれ落ちる、それはそれだけで確かにめでたきかなな瞬間に立ち会ってしまいました。しかしそれだと戻りすぎましたね。とは言え、大気に初めて触れたばかりの喉で精一杯「ほおら産まれましたよ!」と一個の生命をアピールするような泣き声を聞いていると、自然と唇が笑みの形になります。あの人が捧げ持っているのが彼かしら。さしづめお次はお母様とファーストコンタクトといったところでしょう。きっと誰もが祝福し、今し方大仕事を終えた母親を労うのでしょう。

 けれど分娩室には一向に、そのような空気は満ちないのでした。

 むしろ慌ただしさと緊迫感は加速度的に増していきます。それどころか、今産まれたばかりの彼は母親に抱かれることもなく、速やかに視界の外へと連れて行かれてしまいます。視界の外からノイズがかった音声だけとなって聞こえる赤ん坊の泣き声は、一転して緊迫感と不安を煽るものになります。もう一つ不安を煽るもの、バイアスの、そう電子音。

 たった今命を産み落とした母親は、その瞬間を認識することもなく息絶えていきます。

 蘇生装置の起動する音の後に、破壊音にも似たちょっとドキッとするような電気ショックの音。身体の跳ね上がる音。ローテーションで幾度か繰り返されても、状況の良くなる気配は一向に訪れません。やがてそれすら聞こえなくなって、蠢く人々の動きが次第に緩慢になり、ひとつなぎの音がその場を満たします。それからもうひとつ、視界の外から風景を満たす音がありました。泣き声です、そう赤ん坊の。

 赤ん坊の泣き声が、最も訴えかけなければならない人を捜し求めるように、孤独に響き続けています。





「トカゲだ」
「カナヘビだろ」

 ちなみに僕はカベチョロだと思った。
 三者三様に形容されたその小さな爬虫類は、左の前足をメンディングテープで作業台の上に貼り付けられている。「テープ」というものの特性など知る由もなく、ただ非効率にじたじた自由を得ようとしている。数ある通称のひとつ「愛蛇(かなへび)」の書いて字のごとくに円らな瞳がいじらしい。爬虫類はこのように泣くのかもしれない。ざらついた背中が震えているような気がしないでもない。おお可哀想に。まあ爬虫類だからホントのところはどうだかってところだが。

「まあなんでもいいけど」

 その小さな爬虫類の正体を無慈悲にもうやむやにしたのは、我々にそれを披露して見せた青年である。無慈悲ではあるが満場一致の感想ではある。爬虫類の正体よりかは彼が何を「持って」いるのかのほうがおおいに問題だ。まだ我々にとって何者でもない青年は、剥き出しの指で小さな爬虫類を撫でた。背中を辿った指がそのまま前足へ滑り、テープの机に貼り付いている部分をグッグッと押さえる。端的に言えば、未だ残酷な少年時代を気取っていると言っても差し支えない程度には悪趣味な行為ではある。彼は年若い小僧だが、それでも少年と言うには少々苦しい。縦にでかすぎるし。二十歳そこそこに見える。耳を覆うおびただしい数の鋲と同じものが、エキゾチックに張り出した眉骨と下唇の影にまで。非線対称な前髪は片方は目さえ覆っているが、片方は刈り上げられてさっぱりとしている。
 左目の下に涙ほくろのある青年はいつのまにかメスを構え、小さな爬虫類のしっぽをたやすく摘んで押さえている。

「ちょっと残すのが大事」

 気軽にそんなことを吐きながら、彼は爬虫類のしっぽにメスを入れた。音もなく、特に抵抗という抵抗もなさそうに切れる。粘土細工か、蒸される前の魚の擂り身でも切り分けるようにすんなりと。申し訳程度の出血を見せる爬虫類の本体としっぽは完全に切り離されたわけではなく、薄皮というほかないもの一枚で繋がっている。薄皮一枚だが、自分の身体の異変を察した小さな爬虫類がいっそうじたじたしたところで千切れるほどやわではないらしい。机の表面をちょんちょんと微々たる血液で汚しながらしっぽがぷらぷらする。いよいよ少年以上人間未満のこじらせた残酷遊戯じみてきた。

「これ、勝手に千切れないのか」

 僕の涙ぐましい教育によりどちらかというと無駄口を叩かないタイプの千ヶ谷が口を開く。トカゲといえば自切という幼気なイメージを持っているのだろう。四捨五入すれば二メートルの巨躯を持つ彼は、純粋な固定観念を忘れずに持っている。大変よろしいが職業上はそれを悟られないほうがなおよろしい場合が多いので、彼は普段無駄口を叩かない。

「自切面を避けて切ってる。自切面以外のところから切れば再生もしないし」

 無邪気に爬虫類雑学を披露する少年以上人間未満(仮)の幼気さはまだ計り知れない。

「むごいな」
「アンタが言うの?」
「俺は優しいが」
「ヤバい、腹筋ねじ切れそう、痩せる」

 少年以上人間未満はもともとぺらぺらの腹を押さえ顔を歪ませた。笑っているらしい。千ヶ谷はそれ以上特に反論しなかったが、不服であると顔にはっきり書いてある。確かに千ヶ谷は優しいとも言える男だ、しかしむごいかどうかと優しいかどうかは往々にして関係がないものだ。
 
 そろそろ進めてくれないか。
「わかったよ。約束は守ってよ」
 わかったから。

 少年以上人間未満とかわした約束は二つ、気に入ったら肉を提供する、つまり職業上やむを得ない理由で多々発生するあらゆるわけありの死体を処理させること、それから気に入らなくても口外しないこと。守られるかどうかは彼次第だが、それは逆もまたしかりと言えることだろう。
 彼は黒いゴム手袋をはめ、今にも千切れそうなしっぽにぶるぶるする小さな爬虫類の背を再び撫でた。黒い指で、辛抱強く。しゃがみこみ、目線を爬虫類と作業台の高さに合わせて幾度も撫でる。うさんくさい手品でも始まりそうだ、もしそんなもの見せられたらどうしてくれよう。ふと懸念を抱いた矢先、視線は小さな爬虫類を射抜いたまま彼がつぶやいた。

「一瞬だからよく見ときなよ」

 その瞬間、彼の黒い指先が爬虫類の小さな背中をすり抜けるようにもぐり込んだ。気がしたと言うべきかもしれない。ちっぽけでうすっぺらい生き物だ、いくらでも見間違いはあるだろうけど。やがてひっくり返された彼のそのゴム手袋に包まれた指の腹には、なにかぼんやり光るものが乗っている。
 大きさはほんの小さなもの、パチンコ玉よりは少し大きな程度、小さな爬虫類の身体から取り出されたと言われてぎりぎり納得できるほど。色味は青黒く、同系色のにじみのような燐光を放っていて、丸みを帯びているが完全なドーナツ型ではなく、ひらがなの「し」に近い形をしている。およそ既存の物質には例えられないような質感。
 という特徴だけ辛うじてなぞる間しか置かず、彼はその物質を乗せた指を今度は千切れかけたしっぽのほうへ文字通り突っ込んだ。今度は見間違いようもなく。そして突っ込んだ瞬間、薄皮一枚で繋がっていた爬虫類のしっぽを引きちぎる。なかなかに荒っぽい一連の行為だが、メスを入れたときと同様、引きちぎるのにも大した抵抗はなさそうだった。
 それで彼の手中には今、小さな爬虫類の小さなしっぽがある。まだびくびくしている。彼は一息つくと立ち上がり、「ね?」と我々を仰ぎ見た。

「全くわからないが」
「全部言わなきゃわかんねえタイプなの?アンタ」
「そうでもないが」
「ハイハイ。トカゲさんのこと見ててね」

 あしらわれて、千ヶ谷は真顔のまま表情を曇らせる。彼は気にも留めず、黒いゴム手袋をはずしてから爬虫類の足を留めるメンディングテープを剥がした。渇望した自由を得た小さな爬虫類は一目散に逃げ出すかと思ったが、意外なことにその場にとどまったまま。野生としてどうなんだ、コイツ。と口をつきかけるも、どうやら危機感の欠如や気分によりその場にとどまっている訳でもなさそうだと気付いた。
 小さな爬虫類は相変わらずじたじたしている。テープに囚われていたときと、つまりしっぽを引きちぎられる寸前までと同じく。けれど、違和感がある。どうもこの世のものとして決定的に間違っているというような違和感が。しっぽのちぎれた小さな爬虫類の形をしている、じたじたするもの。それだけ。それ以上はない。このあとこの小さな爬虫類に自発的な変化が訪れることはない。しっぽをちぎられたとき、じたじたしていたあの状態でこの小さな爬虫類の時間は切り出され、変化の枠から取り残されてしまったかのような。

「そんなことはフツーに生きてりゃありえないけども、人為的にそんなことを起こすことはできる。つまり生きているうちに『魂』が身体から失われると、その生き物は時間に対応できなくなる」
 つまり、もう一声。
「つまり『時間』とは『変化』のことだから。少なくともこの世界では。魂がなければ状態が変化することもなくなるってこと。だから、この状態で魂のない身体のほうを傷つけても…」

 やおら青年はメスを取り上げ、無機質なじたじたを続ける小さな爬虫類の前足をぞんざいに切り落とした。やはり抵抗無く切り落とされ、微々たる血液が流れる。のを確かに見た。見たのだが、連続する意識の次のセンテンスでは爬虫類の前足はなにごともなかったかのようにくっついている。目を離したわけではない。見間違いでもない。

「名状しがたき認識の隙間でなかったことになる」
「おい、どうなってるんだ」
「そうなってるんだよ」
 いや言いたいことはなんとなくわかった。
「アンタの上司はわかったってよ」
 でもこれと、死体処理とはどんな関係が?

 底意地の悪い笑顔で千ヶ谷の顔を覗き込んでいた青年は俺を見、よりいっそう笑みを深めた。たいした悪人面じゃないか。彼の手中には小さな爬虫類のしっぽがある。しっぽは痙攣をやめ、幾分しなびている。

「『身体から魂を取り出す』って言ったけど、身体は、『肉体』は、魂にとって入れ物と言うよりは、カバーみたいなもの」
 それはよくわからない。
「身体から出ただけなら、まだ魂は身体と同じ次元にある。位置がずれただけ。だけっても位置がずれれば致命的に作用が変わるが、まあ機能は存続してる、まだ。今、このトカゲの魂はこのしっぽという『肉体』で仮に保護されてる。もしもこのしっぽが腐り落ちて『肉体』と言えなくなったり、あるいはこうして引きずり出して保護するカバーを失えば…トカゲを見て」

 彼は再び黒いゴム手袋をはめ、ちょうど缶から軟膏を掬うようにしっぽから先ほどの青黒いもの、小さな爬虫類の魂を掬いだし、相も変わらず無機質なじたじたを続ける(続ける、という表現はふさわしくないかもしれない)トカゲの本体の前にその指を置く。燐光を放つ魂は程なく輪郭をいっそう不明瞭にさせ、不安定に揺らぎ、実体ある部分よりも燐光の部分のほうが多くなり、物質と言うよりは薄暗いもや程度の存在になったあと、完全に消滅した。きっかり同時に、なんとじたじたした小さな爬虫類本体のほうも消え去った。忽然と。作業台の上には、ぞんざいに貼り付けられたテープだけが残っている。

「消えた」
 どういうことだ。
「墜ちた」

 青年はあっけらかんと言い、手をひらひらさせる。悪童よろしくポケットに突っ込んだのでもないのなら、ちぎれたしっぽも消滅している。

「一つ下の次元宇宙に墜ちた。『時間』っていう、次元をひとつ完全に失ったから。俺たちのこの世界は四次元宇宙、XYZ軸から成る『空間』、それから『時間』、四つの次元で構成された宇宙。時間は一方向にものすごい速さで進んでいる。魂はその時間に対応するための臓器、次元に打ち込んだ楔、それが完全に消滅して失われれば、もう『時間』についていくすべはない。この宇宙から振り落とされる。『時間』すなわち次元をひとつ失って、四次元宇宙から三次元宇宙に墜ちる。つまり、違う世界に墜ちる。この世の者じゃなくなる。違う世界のもの同士は、お互い認識することがない。こちら側の認識だけで言うなら、魂を完全に失うと、その生物はこの世界から消えてなくなる、それこそ完全に」

 数分前まで何者でもなかった青年は、悪魔的な宇宙の理を手のひらで転がしながら我々を仰ぎ見る。

「ぜったいに見つからない死体の隠しかた、どう?」
 わるくないが。
「が、何よ」
 なにが本来の目的ならこんな素晴らしく小賢しい方法に行き当たるのかと思って。

 世界が宇宙がどうだの、どう考えても完璧な死体の隠し方を模索して取りかかる分野ではない。何かの副産物と考えるのが妥当だ。青年は数瞬どんな表情もせず僕を見た。少年以上人間未満の残酷で幼気な目ではなく、年相応の目で僕を見た。

「俺が本当に興味があるのは、魂が身体の外にあっても消滅しない限り墜ちることもないってところ。墜ちないだけで、魂の位置が身体からずれればさっきみたいに相対的に時間は止まってしまう。もしそのあたりを、クリアできれば…でも今のところ見込みがないからな、使えるのが死体の処理方法としてだけって話」

 この質問をしたことで、僕の頭にはあの無機質にじたじたした小さな爬虫類の姿がきちんと刷り込まれたのだ。あの時間を切り取られた、変化を受け付けない、永久に変化しない代わりにすなわち死をも永久に遠ざける小さな爬虫類の姿が。決して死を退けるのではない、永遠に先延ばしにするだけだ。それも相対的に。今は一つ下の宇宙へ墜ちた小さな爬虫類が確かにこの世界で魂を失っていたあいだ、僕らから見て彼の時間を停止させていたあいだ、彼自身がどんな世界を見、何を感じていたのかはわからない。時間が止まるのは相対的にだけだ、死が永遠に訪れないのは相対的にだけだ。わかっている。そんなことは。それでも訪れたぼくの右脚の結果が幸と出たのか不幸と出たのか、そんなことはそれこそ考えるまでもない。
 なんにせよ、まだそんな未来を知る由もない五年前の僕は、悪魔的な宇宙の理をものにしようとしているこの青年をみすみす逃す謂われはないと考えた。

 よろしい、約束は果たそう。
「どうも」
 そういえば君の名は?取引相手の名前も知らないと言うのは困る。
「ああ、渕屋でいいよ」




 夕陽。
 よい子は皆帰る時間です。
 残っているのは悪い子か、反抗を覚えた少年少女か、いい子かどうかなど気にも留められないはみだし子。学生服の少年と、もっとずっとずっと幼いはみだし子。

「おうちに帰らなくて怒られないか?」
 怒られないよ。
「怒られないなら、どうしようか、キャッチボールでもする?」
 ボールがないよ。
「だよな。なんかな、小さい子と遊ぶっていったらキャッチボールのイメージがあるんだよな」
 へんなの。
「キャッチボール、したことある?」
 ない。
「最近の子はしないのかな」
 あんたは大人なの。
「まだ大人じゃないけど、もうすぐになるよ」
 大人になってなにするの。
「自分のやり方で過ごすんだ」
 それってそんなに大事なことなの。
「そんなに大事なことではないけど、とりあえず。大人にならなきゃできないことだから」
 うそっぽい。
「アハハ、かもね。本当におうちに帰らなくていいの?」
 いいんだよ。
「帰りたくないの?」
 帰ろうかな。
「俺はまだ帰らないよ」
 どうして帰らないの。
「それはね、」

 実際のところ彼が大人になるまでにはまだ数年あったけれど、きっとそういう問題じゃないんでしょう。





「なに、今なんて?」

 渕屋は耳に開いた00Gの孔を爪の先でなぞりながら、思いっきり顔をしかめてみせる。孔の縁をなぞる動き、まるで見えないボリュームのねじなんかがその約10ミリメートルの孔から生えていて、それをひねって調節しては繰り返されるだろう僕の言葉にそなえるように。仕方がない。あたりはごくうるさい。うら若き酔っぱらい達が(何に酔っぱらっているのかは知れたものではない)、若さを酔いに任せて奇声と金切り声をあげている。どたばたとひしめいている。あの日見た小さな爬虫類のもがきよりもずっと、力強く非効率な動きで。電子的な低音のやけに強調された音楽がそもそも満ちている。暗く、かと思えば明るく、細かく回転する無数の電飾が、すぐそこの表情も判然としないものにする。僕の幾分乱れた服装もわからなくなる。

 実験をしようって言ったんだ。
「…何の話」
 宇宙から振り落とされる前のトカゲの話。

 僕はカベチョロだと思ったが、渕屋はトカゲと言われなければぴんとこないだろうと思った。渕屋は珍しく眉間の皺を伸ばし、含むところも無さそうな目で僕を見た。少なくともあの少年以上人間未満の目ではない。

「何言ってんのアンタ」
 トカゲでやったこと、人間で試したことはあるか?
「あるわけねーだろ。どこにそんなお人好しがいんの」
 じゃあたとえばこの僕の魂を、お前に渡してる死体の一つに入れたら同じ結果になるか。
「入れられない。死体にだって魂はある。一つの身体に入れられる魂は一つまで」
 死体から切り離した腕だか脚だか、そういうものに入れたら?
「それができたらできることも増えるが、うまくいったことはねーよ。魂はそういうものを『肉体』だと認識してくれないみたいだ。死んでるからかな?鮮度が大事みたい」
 試したのか。
「お利口さんに死体処理だけしてると思ってた?」

 もちろん思っていない。暗闇の中に少年以上人間未満の顔が次々瞬いて浮かび上がる、赤、青、紫。

「だからさ、こないだのトカゲのしっぽも完全に切り落とさなかっただろ。ちょっと残すのが大事。魂が入れられるのはあくまで生きてる肉体、切り落とした瞬間なら魂を騙せる。入れてしまえばこっちのもの、入れた『肉体』が朽ちるまでのあいだはね」
 ならトカゲと同じように、『ちょっと残して』僕の脚を切り落として、魂を入れる瞬間に完全に切り離せば、
「できるだろうけどさ、アンタ何言ってんの?トカゲがどうなったか見ただろ?」

 無機質にじたじたした小さな爬虫類の姿が。時間を切り取られて、永久に変化を受け付けない、死すらも。永久に変化しない代わりにすなわち死をも永久に遠ざける小さな爬虫類の姿。決して死を退けるのではない、永遠に先延ばしにするだけだ。それも相対的に。彼にとって死が永久に訪れないわけじゃない、彼の死が我々に、僕に、永久に訪れないだけだ。

 それでいい。彼が『生きて』さえいてくれればいいんだ。我々は。

 そこでようやく僕の服装の乱れに気がついた渕屋が、一気に厭そうな顔になって顎を引いた。面倒事の臭いを嗅ぎ取っている。心外だ。面倒なのはお前だ、悪魔的な宇宙の理を弄くり回すお前だ、そしてそれをみすみす晒したお前だ。

「ずいぶんお洒落じゃん今日、そのシミとか」
 僕じゃない。
「なに?」
 入れるのは僕の魂じゃない。
「良かった。アンタ頭おかしくなったのかと思った」
 切り落とすのは僕の脚だ。
「…ハァ?」

 そして彼を生き延びさせるのはこの僕だ。彼の時間を永久に閉じこめるのは、この僕だ。

「…今日、デカいの一緒じゃねーの」
 いい子だから、話を逸らすな。

 デカいのとは千ヶ谷のことだろう。今頃血眼になって僕を捜しているだろうが、だから一緒にいないのだ、そんなことを説明してやる暇はない。
 渕屋の顔が暗闇の中で明滅する。赤、青、紫。なんのために死体でママゴトさせてやってると思ってる。少年以上人間未満にそんなことを説明してやる暇はない。やらせて理解させるだけだ。失敗したときのことも。

 できるか?
「…アンタさあ、」
 できるな?我々には時間がない。
「待ってよ…」
 トカゲのしっぽと同じようにやればいい、何も難しくない、な?
「…」

 コイツは結局やるだろうと確信がある。なぜなら少年以上人間未満だから。彼の中で倫理はさほど重要ではない。悪魔的な宇宙の理を知る彼が、地獄を信じる由もない。地獄を信じなければ人間はなんだってできる。好奇心があるのならなおのこと。好奇心に負ける探求心に負ける欲望に負ける、人間ならばそうあるべきだ、負けるなどと卑屈な表現をする謂われもない、地獄は存在しないからだ。
 本当はやりたくてたまらないはずだ。またとない機会だと思っているはずだ。

「…なんで脚なの」
 手は失えない、そういうものだ、この職業は。
「ああそう…」
 いい子だな。

 地獄に似たものはこの世にもっとわかりやすく存在している。
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GFD